ディボーション

MF GalleryによるPixabayからの画像
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3月13日(木)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

ヨハネ15:9、10

 

イエス様に愛されるのは、クリスチャンの特権です。それは同時に、父の愛を知ることになります。それは、「父がわたしを愛されたように」とあるとおりで、イエス様の愛は父から来ているのです。そこで、あなたは父の愛とイエスの愛の両方を注がれているのです。あなたとイエス様が相思相愛であれば、あなたは毎日天に登ような心持ちになれます。イエス様の愛は疑うようがありませんが、あなたはどうでしょうか。イエス様に愛されているかどうかわからないと思っていませんか。しかし、あなたは何度もイエス様に助けられ、祝福されて、恵みを味わってきました。ですから、その価値をあなたがありのままに感謝すれば、喜びの泉が湧きます。あなたは、感情でとらえようとして、文句を言うかもしれませんが、聖書はくどいぐらいに「信仰によって」と教えていますから、疑うことなく、信仰によって愛を受け取り、感謝し、それが結果的に主の戒めを守ることにな繋がります。互いに愛し合うのです。まず先に、あなたが愛することは、主が教えてくださいました。ですから、報いを考えずに愛することを続けることです。この世は、その人に価値を見つけたときだけ愛しますが、イエス様はその人に何の価値も見出せなくても、愛してあげました。それで、その人に価値が生まれたのです。私たちに求められているのも同じことをすることです。これは、イエスの愛の中にとどまる方法だと聖書は教えています。

 

Kiều TrườngによるPixabayからの画像
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3月12日(水)

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住み。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。」

イザヤ57:15、16

 

クリスチャンの模範的な人とは、「心砕かれて、へりくだった人」と言えば間違ってはいません。クリスチャンになってから、謙遜であれと言われ続け、謙遜が美徳であると思ってしまいました。しかし、それは、自分の努力で人に見せるためのもので、本物ではないかもしれません。聖書に、「心砕かれ」とあることにヒントがあります。長く生きていれば、色々な人に出会いますが、それが危険を運んでくるのです。世の中には、実に多彩な人たちがいるのです。その中には、難しい人もいます。人がいいと見透かされると、ずうずうしく土足で入り込んでくる厚かましい人もいます。その人の思い通りにならないと、突然敵に回って、攻撃を仕掛けてくる人もいます。とにかく、今までの人生で会ったことのない人種の人たちがいます。ですから、誰とも仲良く上手くやっていこうと思っても、そうそう容易いことではないのです。しかし、神様を信じているのに、そのような人が隣に来るというのは、きっと意味があります。そこで、祈りの日々が始まります。しかし、大抵は、自分の小さな器を砕いて、もっと大きな器になるようにと人生を広げ、その人をもっと神様の御目にかなうように成長させてくださるための試練であるのです。日本でも、「あの人はよく練られた人物だ」とか、「人間ができている」とか、「信頼できる人物だ」と評価されているような人は、第一印象が「物腰の低い人」謙遜な印象を与えているのですが、人間が大きいので、卑屈さはありません。クリスチャンは、人と自分を比べない人になろうとしています。イエス様と共に天国への旅をしていると考えるので、どんな時にもへりくだっています。神様に心砕かれたので、自己を誇ることがありません。キリストに倣う者と意識しているので、この世の人の考え方はしなくなります。霊も魂も関係していますが、神様はいたずらに人を懲らしめることはしないのです。