2024年9月メディア

2024年9月14日

💠説教題:神の子か

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ22:63〜71

 

イエス・キリストの受難は、クリスチャンにもいろいろな感情を引き起こします。人間的なものが多いのですが、ここで、よく考える必要があります。イエス様に暴言を吐いたり、罵ったり、叩いたり、暴力をふるっている人たちが、だんだん罪人の象徴に思えてきます。すると、その罪人は自分であるのではと気がついてきます。クリスチャンになる前の自分はまさに罪人で、イエス様に暴言や暴力をふるった人の悪意や醜さが自分の根底にあるのではないか、自分が罪を犯して生きていることが、イエスを苦しめた下役と変わらないのではないか、と考えさせられるのです。そして、イエスがここまで耐えているのは、そうしなければ、私たちを救えなかったからで、神が神であられるということはこういうことであったのかと知るためだったのです。今日は、そのことを考えます。

2024年9月21日

💠説教題:イエス裁かれる

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ23:1〜25

 

 ピラトはイエスに罪を見出せなかった。祭司長や長老たちの訴えはいずれも死刑に相当する重い罪だったが、ピラトはイエスは無罪であると見抜いた。だが、ユダヤ人の群衆をも焚きつけて祭司長達は強硬にイエスを死刑にしようとピラトに圧力をかけます。ピラトはヘロデ王にイエスの裁きを丸投げしますが、イエスは一言も語らず、ピラトの元に戻され、ピラトは抜き差しならぬ問題から逃げられなくなった。ピラトには二度の失政があった。ユダヤ人たちにはそのピラトのしくじりをローマ当局へ訴える権利があった。つまり、ユダヤ人達はピラトを脅すことができた。それで、ピラトは、イエスは無罪であると認めていたのに、ユダヤ人がイエスを好きにできるようにしてしまった。人が正義を曲げる時、そこには罪が隠れているものだ。

2024年9月29日

💠説教題:十字架のイエス

💠説教者:佐久間典臣

💠聖 句:ルカ23:26〜43

 

イエス・キリストの十字架は、私たちクリスチャンにとっては最も大切なものであり、救いの象徴です。しかし、「十字架はどんな意味があるか」と問われると、多くの人は「罪の贖い」と答えます。確かに模範解答と言えるのかもしれませんが、果たして、それだけなのでしょうか。十字架にはさらに深い意味があるのではないでしょうか。それを探るために、イエスの御言葉から考えてみます。