ディボーション

Luca BiscegliaによるPixabayからの画像
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4月1日(火)

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。

フィリピ2:14~16a

 

クリスチャンの良いところは、「何事も、不平や理屈を言わない」ことです。この世には不平を言いたくなることはいくらでもあります。また理屈をこねる人も周りを困らせています。今は不確かで気候までおかしく、昔のやり方が通用せずに、新しいことがどんどん世の中を変えています。せっかく習熟した自分の能力も、あっという間に古いものになってしまい、役立たずになる時代です。若者が新しい仕事に就くためのスキルを身につけるために学ぶというのが、今では50代60代の人たちが再研修を受けて技能を身につけるように促されています。若い人には、希望を持たせることがなかなかできない時代でもあります。ですから、誰でも不平や理屈を言いたくなる時代なのです。ところが、神様はそのような時代だからこそ、それを生かして、非のうちどころのない神の子となれるのだというのです。文句を言わないで、理不尽なことにも負けずに、正しく生きることが、自分を清い者へと変えていくのです。そのような人物を世は求めています。誰もが言いたいことを言う時代は、嫌な時代です。目的達成のためなら子供のように嘘も平気でつ気、責められれば、責任転嫁して人を責めるようなものが増えていけば、生きづらい社会になるでしょう。その中で、クリスチャンが黙々と正しい生き方を見せるなら「世にあって星のように輝」くと聖書は教えています。彼らの信仰は「命の言葉をしっかり保つ」のです。

 

yamabonによるPixabayからの画像
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3月31日(月)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9、10

 

人にキリスト教の話をしようとすると、何をどう話せば良いのか分からなくなって、結局伝道は苦手だとなる人は少なくありません。聖書に書かれたことをわかりやすく伝えることができればいいのですが、それが聖書自体が大分量でどこをどう話せば良いのか、意外と難しいのです。聖書には、二千年前の初代教会が実際に使っていた礼拝で使う言葉などが入っています。初めの教会がどのような理解をして、皆が共通の言葉を語っていたのかということが気になります。例えば、今日の箇所を読んでみると、見事にキリスト教のこと、つまりイエス・キリストの意味と神の愛が定型で語られています。このように語ることで、初代教会と同じことを間違わずに語ることができるのです。「神の愛とは何か」と問われれば、この箇所を読めばいいのです。そして、意味を解説すれば、立派に伝道したことになります。この御言葉の中には、「なだめの供え物」といった、キリスト教の専門用語も出てきます。この意味を調べて、理解できれば、キリストの十字架の意味を説明することが簡単になります。また、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」と有名な箇所を引用して、神の愛を説明することもできます。何しろ、御言葉には力がありますから、聖句の力を信じて、この聖句を読み、やさしく解説してみれば、相手の魂にまで神の愛が届くと思います。このようにして、初めから変わらずに伝道してきたのです。