ディボーション2017年1月

1月1日(日)

ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を 賛美せよ、主の僕らよ 主の家に わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。主を賛美せよ、恵み深い主を。喜ばしい御名をほめ歌え。

詩篇135:1~3

 

知っているだろうか、あなたが聖霊の宿る神殿であることを。なぜそのようなことになったのか知っているだろうか。天の父が救済計画をお立てになられて、そのために御子イエスが人となり、私たちの罪の贖いとして十字架にお架かりになられ死なれたのだ。しかし、三日に目に墓からよみがえり、死を打ち破り、新しい命に生きる者の初穂となられた。これらは全て私たちの救いのためだった。私たちがただイエス・キリストを信じるだけで救われるようにしてくださったのだ。その救いは完全で、イエスを信じて救われた人に復活の命を分け与えてくださった。それは、キリストが言っていた通り、水と霊から生まれることだった。それはペンテコステから始まった。そして、今もまだ続いている。聖霊は三位一体の神だ。だから、聖霊が救われた者の中に入ってとどまることから、私たちが生ける神の神殿になっていることがわかる。まだ、肉体を持って生きているから、時間をかけて聖化が続いている。こうした一連の働きは、ただ信仰によってのみ起こるのだ。私たちは三位一体の神が絶えず働いてくださり、生活を支え、聖化を続け、恵みから恵みへと移って行くことを知っている。それゆえ、今日の御言葉の通りに主を賛美するのだ。新年が賛美から始まり、賛美に終わる一年となりますように。(サクマ)

 

1月2日(月)

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

ヨハネ14:23

 

 

このみ言葉は一連の流れの中で語られたものです。そこで、「わたしの言葉を守る」と言われたのも、14:34の「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というみ言葉と関係していることがわかります。神様は愛なのです。愛は一人では成立しません。相手がいるのです。そこで父には御子がいて、愛は成立しています。そこにアダムが創造されて人間もまた愛することができるものとなったのです。神様に愛され、神様を愛する人間が創造されたわけです。その人間が堕落して愛が壊れたことは、私たちが知る世界を見ればすぐにわかります。ですから、人間の救済ということは、単に罪を赦すだけでは解決しないのです。イエス様の語られた通りに、「互いに愛し合う」ということが神様が愛であること、その神様に似せて人間を創造されたことと関係しているのです。互いに愛し合う者として人間を創造したからです。罪というのはそれができないことを言っているのです。では、どうやって回復するのか、それは、イエス様を愛することによってだったのです。そうやってイエス様を愛しているか見分ける方法は、イエス様の言葉を守っているかどうかで見分けるのです。掟としては「互いに愛し合う」ということですから、それが守られている人間関係が教会というものです。人間の作った組織とはなんら関係がないのです。その互いに愛し合うことのできる人間こそ、天のお父様、御子イエス様、そして聖霊様が互いに愛し合う存在なので、一つになれるのです。ですから、互いに愛し合うことが守られるのなら、そこには御父も御子も一緒におられるのです。そのようにして初めて人間の創造の意味が明らかになるのです。(さくま)

 

1月3日(火)

しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

Ⅱテサロニケ2:13

 

聖書には終末にサタンが不法の者を現すことを預言しています。教会の中にまで影響力を行使して聖徒まで滅ぼそうとするのですが、実は、これは教会の中にいる二種類のクリスチャンを明確に分けることにもなるのです。本当にイエス・キリストを愛している者とそうでない者に分かれます。なぜそうなるかというと、「あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業を行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人を欺くのです」(9、10節)。滅びる理由は、彼らが真理を愛そうとしなかったからです。聖霊を受け入れ、聖化の働きに従うことと真理に対して自分の思いを優先しないで、信仰によって従うこと、このことが救われることにつながるのです。平和な時にはわからなかった見分けが、最後に明確に分けられることになります。聖書を調べ、聖霊に満たされ、主への従順が、やがて我が身を守ることになるのです。大それた偉業はできなくても、平凡に生きていても、これらのことで運命が別れることを覚えておきましょう。(佐久間)

 

1月4日(水)

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。ヨハネ1:12

 

ヨハネによる福音書の一章一節から十八節までは、序論になっています。そして、この一章の冒頭に「言」が出て来ます。この「言」は読み進めればそれがイエス・キリストを意味していることはわかるでしょう。そこで、今日の十二節もイエス・キリストを受け入れた人、信じた人がどうなるかという説明になっています。それは、「神の子となる資格を与えた」とありますから、皆様がイエス・キリストを受け入れ、信じているなら該当者となるわけです。ただ「神の子になる」と言わずに「神の子となる資格を与えた」とあるのは、クリスチャンになった後に聖化が続いて起こることを知れば納得できます。水で洗礼を受けただけでは、終わらないのです。資格を行使して「神の子」になることが可能なのです。つまり、クリスチャンになっても奇跡で聖人になるわけではありません。信心深く生きることが必要なのです。だからと言って、間違っても自分の力で聖なる者になろうとしてはいけません。自力で義を求めても達成できないからです。神があなたを義としてくださるのです。そして、あなたはイエス・キリストを受け入れたので自分は神の子としていただいたと信じていることが大切なのです。(佐久間)

 

1月5日(木)

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

ヨハネ15:15

 

あなたが主イエス・キリストを信じているのなら、あなたはキリストの友なのです。讃美歌でも「友なるイエスよ」と歌いますが、聖書にも書かれているのです。もし、誰かに「友達に有名人がいるか」と聞かれたら、世界一有名な友達がいると言ってください。その通りなのですから。そこで、よく考えていただきたいのですが、イエス様の友であることがどれほど名誉なことか、そして、あなたがその友なのですから、自信を持って堂々と生きてください。あなたには特権があります。聖書に記された神様のみ言葉がことごとく、あなたに解き明かされます。そのために、イエス様は真理の御霊を送ることを約束されました。この聖霊こそがあなたに解き明かしてくださるのです。そのためにも、今日はイエス様の友であることを信じて認めて見ましょう。(さくま)

 

1月6日(金)

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

ローマ5:1

 

あなたがイエス・キリストを信じたことで、大きな変化が起こりました。これは人間の力では決してできないことです。それは、神との関係が正しい状態に変わったということです。これは神が信じる者を義とするという驚くべき救いです。そこで、信仰によってこの救いが起こったのですから、その後も信じることが重要になってきます。神の御力を受ける通路が信仰というわけですから、決して疑ってはいけません。そして、ユダヤ人たちは律法を守り行うことで義となると信じていたのですが、実際には失敗ばかりで、結局人間の力では律法を守って義となることはできないという結果になりました。そこで、イエス・キリストの出現によって、人間の力ではなく、イエス・キリストの十字架の犠牲によって人を義とする道が開かれたのです。ここでも人間の力で努力するのではなく、神が御力により義としてくださるということです。義というのは、神との間が平和であり、神と愛し愛されるという関係のことです。いつも、わたしたちは神との間に平和があるか確かめることができますから、信仰をいつでも働かせていることにしましょう。(佐久間)

 

1月7日(土)

父である神と、その御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。

Ⅱヨハネ3

 

このディボーションをお読みの皆様は、今日の箇所から励ましを受けることができます。わたしたちは父なる神と御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和を祈り求めることがしばしばあると思います。しかし、ヨハネの手紙は奥義を告げています。これらは真理と愛のうちにわたしたちと共にある、と言うのです。ヨハネの福音書には「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(8:32)とイエスの言葉が書かれ、その直後に「もし子(イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(36節)とありますから、真理がイエスであることがわかります。そして、「真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)とあり、「わたしは道であり、真理である」(14:6)とイエスは言われた。ですから、イエスを知り、信じ、その言葉を聖霊の助けによって守り、イエスの掟の通りに互いに愛し合うことの中にこそ、神の恵み、憐れみ、平和があるということです。これらは決して難しくありません。主を愛する信仰によって主を忘れなければいいのです。主に仕え愛に生きることの喜びがいつもありますように。(佐久間)

 

1月8日(日)

わたしたちを愛し、ご自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

黙示録1:5、6

 

クリスチャンはこの世で悩むことがないとは残念ながら言えません。しかし、目を転じて霊的世界の現実を見るならば、わたしたちはすでに生まれたままの人間ではありません。たとえ罪深い人間であったとしてもイエス・キリストが完全に救ってくださったのです。その結果、今日の御言葉の通りに神に仕える祭司としてくださったのです。ですから、聖なる神に近づくことができる祭司になれたと言うことは、罪の赦しと贖いがいかに完全であったか、そして、ただイエス・キリストのしてくださったことが恵みで働いて信じるあなたに効力を及ぼしているということです。だから肉に現れる症状に振り回される必要はないのです。肉のことを改善しようとしても、しかたがないのです。そうではなく、主イエス・キリストが自分に何をしてくださったか、そのことを信仰で受け止めることです。そして、ヨハネのように讃美するのです。讃美すれば、力が湧いてきます。キリストの支配が自分に及んできます。ちょうど頭の上にいてくださるようにです。圧倒的な力と栄光をまとって、キリストはあなたの元へ来てくださるのです。そのことを知っているので、讃美するのです。主イエス・キリストこそ、あなたを愛している神なのです。(佐久間)

 

1月9日(月)

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

 Ⅰヨハネ4:16b

 

神様を信じているので、神様が愛であることも知ることができます。愛は良いものです。その愛にとどまって生きる人こそクリスチャンです。愛してやろうなどと上段にかまえる必要はありません。そんなことをすればすぐに偽善者になってしまうでしょう。私たちは無理をして生きてい

1月10日(火)
欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。
箴言21:26
箴言は初めに知恵の重要性を強調しています。ですから、それ以降の箴言は知恵があることが前提となっています。そこで、今日の箇所も知恵を持って考える必要があります。欲望が人間にとって厄介なものであることは誰でも想像がつきます。クリスチャンになっても欲望は課題です。しかし、信仰生活の中で神の導きは、神に従うことです。そうすると自分の欲望のままに生きることができなくなってきます。それだけではなく、与えることが普通になってきます。以前なら惜しむ心があったのですが、それが時間をかけて無くなってきたのです。神の御心のままに生きる方が上手くいくし、幸せなのです。神以上の価値はないし、神はケチではありません。それどころか、私たちの必要を豊かに満たしてく ださるのです。神からいただいて生きていることがわかると、与えることも、惜しまないことも、自然と身につきます。それが、とても楽な生き方になります。欲望は満足しないのでいつも足りないとか不満足がつきまとっていたので、幸福感を喪失します。ですから神を信じてよかったと思います。(佐久間)

 

1月11日(水)
しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。
イザヤ64:7
天の父が陶工で、その手の中にある粘土が私たちなのです。私たちは自由自在に変化し、良くできた主の御手の業なのです。元は土くれに過ぎないものが、神の形に作り上げられるという奇跡なのです。ですから、あなたは自分のことを神の傑作であると認めることを徹底してみると良いのです。私は焼き物が好きで、地方に行くことがあると陶器の店に立ち寄ることがあります。そこで、気に入ったものに出会うと得した気分になります。それは決して高価ではありませんが、味があるものです。そして、実際に料理を盛った器はとても誇らしげでこちらも嬉しくなります。料理をする人なら器の重要性を良く知っています。わたしたちは、主が意匠を凝らした特注品なのです。そして、主の御手の温もりを宿 した生きた器なのです。ですから、自信を持って自分で良かったと感謝するのです。自信を持って生きれば、それは楽しいものになるはずです。主の器であることを喜んで認めましょう。(佐久間)

 

1月12日(木)
主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り、子孫は地を継ぐであろう。
詩編25:12,13
主を信じると言う人は多くいますが、皆が主を畏れる人というわけではありません。あなたはどうでしょうか。信仰の本質の問題であり、大切なことです。教会に通いながら信仰にあまり熱心でない人もいます。どうして教会に来るのかと不思議に思われている人もいます。しかし、外見ではわかりません。そもそも、主が招かれたから人は教会に来るのです。ただ、信仰が覚醒していない人がいるということです。聖霊を求めて祈るように勧めるのは、その時に一気に覚醒して、自分の心の奥底に主を畏れるという思いが隠れていたことに気が付くことがあるからです。そうなれば、人生の選ぶべき道を主が教えてくださることがわかるでしょう。そのような主を知る信仰者は恵みに満たされて生きていけます。そして、子孫にまで祝福が続くのです。私たちはこのような財産を子孫に残したいものです。(さくま)
1月13日(金)
救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神ニコン下られる良い香りです。
Ⅱコリント2:15
Lush(ラッシュ)という自然派化粧品や石鹸のお店があります。その前を通るとアメリカの香りがするのです。それで、ある日そのお店に入って、この香りの石鹸が欲しいと言うと、「このお店の香りは、すべての商品の香りが混じったもので、この香りの石鹸はありません」と言われてしまいました。すごくがっかりしましたが、教会も同じだとおもいました。個々人の個性や才能は独特で固有のものですが、イエス・キリストを信じる信仰においては、パウロの言う通り、「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」。ハーブや花の良い香りは癒し効果があります。私たちはイエス・キリストを知る知識の香りと聖書に書かれています。そうゆう者であることを覚えておきましょう。きっと誰かが、バラの花の香りのようにあなたを心地よいと感じているはずです。素敵なことですね。(佐久間)

1月14日(土)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

ガラテヤ3:26-27

 

私たちがクリスチャンになって受ける恵みは圧倒的です。人間が理解するにはあまりにも偉大すぎて聞いても頭の上を通り過ぎて行くだけです。しかし、聖霊の導きがあって、神様のご計画の通りに私たちの人生は進んで行くのです。それは、信じるためのテスト問題を解いていく子どものようです。つまり、目に見えることだけを信じていた人が、目に見えない神様を理解し、信頼し、信じたことが実現することを知る歩みなのです。この世で起こることは、クリスチャンにも起きます。しかし、その解決は全く違っています。イエス・キリストに結ばれて神の子となっているので、神様が深く関わっているのです。肉の性質が一朝一夕に消えないこともあって、目に見えることに左右されやすいのですが、目に見えない神様を信じていると公言する通りに、古い自分ではなく、自分を通してキリストが生きていると知るようになります。そこで、信仰の大切さを理解し始めるわけです。あなたが受けた特権は、計り知れない価値があります。現実を簡単に変えるほどの恵みなのです。それは、信仰による生き方から享受できる恵の世界です。今日のみ言葉を信じましょう。(さくま)

 

 1月15日(日)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

Ⅰテモテ1:15

 

クリスチャンになって何年も経ってから、聖書のみ言葉に全て忠実になったか、と問われれば、「いいえ」としか言えないかもしれません。どうして、そうなのか考えてもわかりません。ですから、この世の人たちが考えるような神様なら、とうに見捨てられているでしょう。しかし、聖書の神様は驚くほど違うのです。何しろ、キリストは義人ではなく、罪人を救うために世に来られたのですから。そして、その罪人が私なのです。パウロは、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と語りましたが、私たちが自分の罪をしっかり理解した時、あるいはキリストが何を自分のためにしてくださったかを分かった時に、パウロと同じ言葉が自然と口から溢れてくるでしょう。今だって、罪人で情けないと思うかもしれませんが、焦点を当てるところは自分ではなくキリストなのです。キリストは私たちを救うために世に来られたのですから。キリストは失敗しないのです。必ず、あなたを救います。どんな犠牲を払ったとしてもあなたを救います。だから、希望を持ってキリストの名を呼びましょう。自分はダメだと思った時こそ、キリストにすがりましょう。義人になってからなんて考えていてはいけません。すぐに救っていただきましょう。(さくま)

 

1月16日(月)

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

ヨハネ6:35

 

人生はなんて不公平だろうと思うことがある。同じ母から生まれても美人だったり、頭が良かったりする子供と、全くその逆の子供が生まれたりする。ある者は、運よく良い学校に入学し、ある者はその機会すら与えられない。豊かな家庭に生まれる者も貧しい家庭に生まれる者も自分では選べない。そこで、人は結局大人になるのだが、境遇に関わらず心の飢え渇きを覚える。問題なのは、どうすればそれを癒すか知らないということだ。幸い、クリスチャンはイエスを信じることによってこの問題を解決したが、少なくともこの世界の三分の二の人たちはそのことを知らないのだ。日本に至っては99%の人が知らない。さて、イエスを命のパンとして理解しているか今日はよく考えてみよう。そして、意味が分かったら99%の人のことを考えてみよう。(サクマ)

 

1月17日(火)

主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。わたしに御顔を向け、憐れんでください。・・・主よ、あなたは必ずわたしを助け、力づけてくださいます。

詩篇86:15、16a、17c

 

いい人であるほど、この世は住みにくいものです。だからといって逃げ出すわけにも行きません。どこかに行けば楽しみがあるかと言えば、それも一時のことにすぎません。相手の気持ちばかりを考えて、だんだん心が重くなることもあるでしょう。嫌なことは嫌と言えればどんなにか楽でしょう。そこで、今日の聖句を選びました。私たちの信じる神様は、私たちの心の中を知ることができます。ですから、何でもご存知です。それでも、私たちを自由にしてくださっているので、ちゃんと自分の意思で祈ることが大切です。焦ることはないので、自分の言葉でどうして欲しいのかゆっくり考えながら祈るのです。その時に、今日のみ言葉を初めに読んでおきましょう。み言葉は真理なので、信じて真理によって歩んで行けば良いのです。主は必ず御顔を向けて、助けてくださいます。(さくま)

 

1月18日(水)

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

Ⅰテモテ2:1

 

自分のための祈りは忘れないでしょうが、他人のための祈りはどうでしょう。以前に、教会の青年が就職したところ、その会社の同僚に同じ教団の知っている牧師の弟が勤めていました。その弟は、教団の学校で嫌なことがあって教会を去り、全く知らない人たちの中で生活しようとしていたのですが、神様はそこに一人のクリスチャンを遣わしたのです。彼女は、どうしたら良いかと私に相談して来ました。そこで、執り成しの祈りをすることを勧めました。それは、一朝一夕の話では終わらず、彼女も他人のために一生懸命に祈ることを経験したのです。その先は、神様と本人の問題です。このように、私たちは、誰かのために祈ることが求められています。それは真に尊いことなのです。心に浮かぶ人がいたら、今日はその人のために執り成して祈ってみましょう。(さくま)

 

1月19日(木)

善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。

コヘレトの言葉7:16、17

 

なんでも過ぎたるはおよばざるがごとしであると聖書の知恵文学に書いてあります。例えば真面目すぎる、ということだって必ずしも賢明ではありません。善人すぎれば、重荷を背負い込むのは時間の問題です。あれこれ人のことまで心配して、結局自分が他の人のぶんまで大変ごとを引き受けることになります。賢すぎれば、人が愚かに見えてイライラするでしょう。あなたは、「もっと頑張らなければ・・・」とか、「こんなことぐらいでへこんでいるなんて、やっぱり未熟でダメだなぁ!」とか、自分を追い込んでいないでしょうか。気づかいで疲れている人は、他人優先と思っている人です。それは、自分を犠牲にすることを選ぶことです。もし、自分を大事にしていないなら、その気づかい自体が間違っているのです。本当の気づかいは自分を大事にします。そうすればイライラしなくて済みます。そのために、今日の御言葉を覚えておきましょう。(佐久間)

 

1月20日(金)

イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。・・・」

ルカ9:23

 

最初のイエスの弟子はアンデレであった。アンデレはすぐに兄弟のシモン(ペトロ)をイエスのもとへ連れて行った。アンデレは気がついていなかったと思うが、イエスについて行った時から、彼は自分を捨てる日々を歩むことになる。それができなかったらなら、彼はイエスについて行くことはなかった。私たちも、イエスについて行く者である。そのために、自分を捨てた。バプテスマを受ける以前の自分と受けた後の今の自分とでは随分違っているはずである。自分の十字架を背負っていなければ、信仰の道を進むことはできない。それは、この世の人と変わらない生き方であって、自分のための人生でしかない。しかし、本物のクリスチャンは色々な苦労をして来たかもしないが、決してイエスを見失うことはない、イエスだけが理解してくださるとすがってきた信心が自分を支えているはずだ。イエスに忠実であること自体が十字架を背負っていることを証ししている。イエスに従うことは、自分のこだわりすら捨てることになったし、自分の力で何かをすることを放棄することでもある。しかし、それが損とは思えない。心が軽くなり、いつのまにか主への信頼が信仰となっている。罪深い自分が変わって行く。主が自分を義とするために十字架で罪の贖いとなり、私たちの新しい命のために復活を成し遂げてくださったが、そうした恩寵を信仰で得るために、私たちがするべきことはここに記された通りにイエスに従うことだったのだ。決してこのみ言葉を忘れないように覚えよう。(サクマ)

 

1月21日(土)

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

エフェソ2:1~2

 

聖書は、私たち人間が生まれたままの状態でいたなら、「過ちと罪のために死んでいた」と指摘します。そして、ここに出てくる霊は、明らかに悪霊です。悪霊は、信仰のない者に働くことができるのです。不従順とは神様に対して不従順という意味で、これが不信仰なのです。恐ろしいのは、今も悪霊は働いているということです。それも不従順な者の内に働くのです。ですから、感情や思考も悪霊は操ることができるのです。もし、神様が憐れんで救いの手を伸べてくださらなければ、希望はありませんでした。幸い、私たちは福音を聞いてイエス・キリストを信じたので、恵みで救われました。それは、悪霊に信仰によって打ち勝てるようになったという意味です。心の内に聖霊に住んでいただく必要があることがわかりますね。(さくま)

 

1月22日(日)

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。

フィリピ1:9、10a

 

この世の中の大抵のものは大して重要なものではありません。特に永遠の命に関わるようなものとなると皆無でしょう。それでも、今しばらくこの世に生きなければならないのですから、見分けることが重要となります。そのためには聖書をよく読み、理解することが助けになります。聖書は学問として学ぶのではなく、神の言葉として信仰によって理解することに徹すると良いのです。重要な真理は、聖書を人間の知恵で読解するのではなく、イエス様のお約束の真理の御霊によって理解するのです。そのために、信仰が大切ですし、祈りも欠かせません。聖書が理解されると、愛がますます豊かになります。そして、普通に本当に重要なことを見分けられるようになります。聖霊が自分に十分働いてくださることを信じましょう。(佐久間)

 

1月23日(月)

賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分は愚者だと言いふらす。

コヘレトの言葉10:2、3 

 

なるほど、人間は賢者にも愚者にもなれるのだ。問題は、心である。賢者と愚者では正反対となる。なぜ愚者は自分は愚者だと言いふらすのだろうか。もちろん、本人はそのようなことをしている意識はないのだが、愚かだから、結果としてそうなるだけだ。「愚者は口数が多い」(14節)とも書いてある。自分のことを振り返れば、小学生の頃はおしゃべりで廊下によく立たされていた。祖父母の前に座って落語のまね事をしては喜ばれていた。よく落語家にならなかったと思うが、その代わり説教者になった。説教者が愚者ではどうにも具合が悪い。せめて高倉健のように無口でも人の心を打つような者になれればいいのだが、そうであればきっとヤクザ映画に出ていたと思う。そう考えると、やっぱりおしゃべりで説教者になれてよかった。まあ、ここまで読めば、やっぱり作者は愚者だな!と思われてもしかたない。キリスト教用語に「回心」という言葉がある。心が回るのだ。左から右へ。心の欲望を満足させるために生きていたのを、神の方へ向きを変えるということだ。知恵は人を賢者にする。この知恵は神だけが与えることができる天のものだ。神を求め、知恵を求めてみよう。この祈りはかなうことになっている。(サクマ)

 

1月24日(火)

神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。

イザヤ26:7、8

 

どんなに平凡な人生を歩んで来たと言っても、その人生には山や谷があり、有頂天になる日もあればどん底の試練の時もあるものです。人生が忙しく大変になってくると主に祈ることも頻繁になります。そして、考えるのです。どうすれば人生の道が平らにまっすぐになるものか、と。その答えは、神に従う者になれば良いのです。そして、私たちの人生が神の定められた道を歩むことを良しとするならば、それは心穏やかな日々が待っています。そこでは、神の恵み深さを味わうことができます。感謝することの多い日々を過ごせるのです。そして、気がつけば朝目覚める毎に、神の御名を呼び、讃美している自分を発見することでしょう。魂はこのようになりたいと願っているものです。(佐久間)

 

1月25日(水)

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

マタイ5:37

 

日本人は「ノー」と言えない、と言われています。それだけ、気遣いが行き届いている文化だからでしょうか。人の気持ちを察して、できるだけ波風を立てないように生きているとストレスが溜まりやすくなります。気づかれしてしてしまうのです。それだけならまだしも、はっきり自分の気持ちを伝えられないと、余計な重荷を背負いこむこともしばしば起こります。つまり、「ノー」と言えないことから、余計な仕事を引き受けることになるのです。それも限界を超えると、自分を責めてしまうようになり、ストレスに拍車をかけてしまいます。どうして、このようになるかと言えば、自分を他人から見て「良い人」と思われたいという欲求が強いからです。事実、これらの人たちは良い人なのです。しかし、自分と同じように気働きができる人、いろいろ察して気を使ってくれる人だけが周りにいるわけではありません。実際には、自分とは異なった人だらけなのです。ですから、正直にできる時は「イエス」、できない時には「ノー」と言えるようにします。初めは、抵抗があるでしょうからよく祈ってから始めると良いでしょう。くれぐれも燃え尽きないように良い人もほどほどにしましょう。(佐久間)

 

1月26日(木)

ダビデのが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」・・・サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。

サムエル下6:20、23

 

その一言が命取り、とはまさにこのことです。私たちは、感情的になって言ってはいけないことを言ってしまうことがあります。しかし、その代償は大きなものとなることがあるのです。特にいけないのが、プライドを傷つけるような皮肉です。ミカルはそれで、ダビデ王から遠ざけられて、一生を不遇のうちに終えました。この日、ダビデは神の箱をダビデ王朝の新しい都エルサレムへ運び入れたのです。それは、名実ともにダビデが統一王国の王と神が認められたことを意味していました。それで有頂天になったダビデは神の箱の前を裸で踊ったのです。本来なら、ミカルはダビデを愛していましたから一緒に喜びを分かち合えたはずです。しかし、過去にミカルの父サウルはミカルの夫ダビデへの嫉妬から執拗に命を狙い、サウル王は娘ミカルを強制的にダビデと離縁させて、勝手に他の男と結婚させたのです。サウル王とダビデはの関係は、カインとアベルのそれと似ています。それから、サウル家の悲劇は続き、サウル王も王子達も戦死しました。ここでようやくダビデはユダの王となることができたのです。しかし、サウルの生き残った息子を擁立して将軍アブネルはイスラエルの全軍を率いてダビデ軍と戦うのですが、最後は和睦しダビデを統一王国の王とすることになりました。その時、ダビデは条件として最初の妻であったミカルと復縁することを願ったのです。ミカルは嫁ぎ先で夫に愛されて、ダビデへの想いを断ち切っていました。それを無理やり別れさせてダビデの元へ差し出されたのです。しかも、サウル王家の家来であったダビデが、サウル亡き後に主家を裏切るように、自ら王位に就いたのですから、ミカルの想いはいかばかりだったでしょうか。ダビデは新妻の頃のミカルを忘れることができなかったのでしょうが、とうにミカルは心を引き裂かれダビデへの想いは変わっていたのです。そして、今日の聖書箇所の言葉、「空っぽの男・・」と言ってしまったのです。ダビデを愛していれば決して言えない言葉を言ってしまったのです。愛が消えると相手の全てが嫌になるのですね。学ぶことが多い箇所です。(佐久間) 

 

1月27日(金)

わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごとに諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。

詩篇16:7、8

 

誰が私たちを励ましてくれるだろうか。私たちは一人になって、くよくよと後悔したり、勝手に自己嫌悪に陥ってしまうような者です。だから、主の諭しが必要なのです。正しいことはどうすれば良いのか分かっていてもできないことがだってあるのですが、主はそのような時でも、私たちに愛想をつかして去って行くようなことはないのです。それどころか、主は私たちの最も近くにいて支えていてくださいます。それで、いっときは不安に襲われたり、イライラするようなことが起こったとしても、主はそこで助けることができます。そのようなことを経験して、私たちは主への絶対的な信頼を置くことができるのです。最近の褒め言葉に、「ブレない」という言葉がありますが、これこそクリスチャンのための言葉です。主への信仰のゆえに何が起こってもブレないでいられるからです。(佐久間)

 

 1月28日(土)

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

ヨハネ3:3

 

私たちの救いは、新たに生まれることのできる救いです。もう一度赤ちゃんに戻って人生をやり直せと言われれば、それは嫌なことになるかもしれませんが、これは違います。信じたところから始まります。そもそも今まで見たことのない神の国を見るというのですから、自分の知っている過去の世界のことではありません。過去にどんなに自分に問題があったとしてもそれが見事に消えてしまうのです。自分には欠けがある、欠陥商品のような人間だと嘆いていても大丈夫です。全てが完全に変わるからです。神の救いは人間の考えでは到底理解できません。圧倒的な恵みで成り立っているのです。しかも、神は愛であるという意味が明白に現されているのです。罪、死、悪魔、と人間が正常に幸福に生きることを阻んでいた恐ろしいものがキリストの十字架の贖いで全て勝利したのですが、それだけで救いと言っているわけではないのです。イエスを信じて救われた人がイエスに似た者となるために、聖霊が内住し、内側から変えて再創造するのです。そのためには、古い意識が邪魔しないように、信仰を覚醒する必要があります。そのために、聖霊のバプテスマが必要なのです。奇跡を体験させることで疑い深い信仰を従順に信じる信仰へと変えるわけです。聖書を読んでみれば、自分に聖霊の内住があるかどうかわかります。不安ならばもう一度、聖霊のバプテスマを祈り求めればいいのです。信じることが鍵であるとわかるでしょう。祈りと信仰も比例しているからです。(佐久間)

 

Ⅰ月29日(日)

しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け、聞き入れてくださいました。神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。

詩篇66:19、20

 

不思議なことに自分の祈りは聞かれない、と訴える人は少なくない。どうしてだろう。もちろん、自分のためにならないことや罪になること、または人を傷つけるようなことになる祈りは聞かれないし、ただ利己心や欲望を満足させるだけの願いも聞かれない。恨みや嫉妬のような動機で願う祈りも良い結果がもたらされないので、当然聞かれることはない。ところが、ちゃんと健全な祈りをささげていながら、聞かれないという場合は、時の問題があるかもしれない。そのような時には忍耐して待たなければならない。しかし、今日の御言葉をよく見ていただきたい。これは、あなたのことだ。本来、あなたはこのように言うことができるはずだ。つまり、あなたの祈りは聞かれているし、神はあなたの祈りを聞きれてくださるはずだ。こんなことを祈っても良いのかと心配せずに、「天のお父さん」と呼びかけ、正直に自分の気持ちを伝えればいいのだ。神はあなたの涙を地に落とすようなことはされない。主を信頼して祈ろう。そして、今日の御言葉のように言えることを信じよう。あなたの祈りは聞かれることになっているのだから。(サクマ)

 

1月30日(月)

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

ヘブライ11:1

 

クリスチャンにとって信仰はいつでもついてくるものです。そして、信仰のことで時々試されるかもしれません。この世はサタンの影響で信じることが困難になるような世界です。そのような影響が教会にまで入り込んでいる状態を世俗化と言ったりします。この世俗化はクリスチャンを未信者となんら変わらない者としてしまう力があるのです。その最たるものが霊の理解です。人に聖霊が降るということだって、ただ言葉だけのことになって、実際に聖書に書かれたことが自分にも起こるとは思っていない人がいるわけです。しかし、他人はともかく、自分は神を信じていると思っているのなら、信仰のことを真剣に考える必要があります。それは、人間の作り話のようなことを信じるのではなく、生きておられる主イエス・キリストを信じることです。そして、キリストの恵みを知ることです。慈悲深いイエスは、あなたが何を心配し、何を困っているのか、いつだって気にかけてくださっているのです。そして、あなたを満たしたいと願っています。だから、信仰によって恵みを受け取って欲しいのです。聖霊はあなたの心の声を聞いてくださっています。だから、あなたは今日の御言葉の通りに信仰で大いに祝福されていいのです。(佐久間)

 

Ⅰ月31日(火)

その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りてきた。・・・王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。・・・そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を読んで参りましょうか。」

出エジプト記2:4~7

 

これはモーセが生まれた時の物語です。ファラオは奴隷のヘブライ人の人口が驚異的に増えることを恐れ、男の赤ちゃんを殺すように命じたのです。しかし、モーセの母はできずに、籠に入れて川に隠していました。それを心配してモーセの姉が見張っていた時に、今日の聖書箇所のような出来事が起こったのです。もし、この姉が勇気を出して王女に申し出ていなければ、将来偉大な神の人となるはずのモーセはここで死んでいたかもしれません。重要なことは、男性でも女性でも関係なく、積極的に行動を起こした方がいいと言うことです。できれば、自分の意見をはっきり言えるようになることや偉い人でも勇気を出して言うべきことを伝えることです。もしあなたが、誰か人を抜擢できる地位についていたらなら、引っ込み思案でおとなしい人よりも、積極的に自分の意見を言う人を選ぶはずです。私たちの文化では「出しゃばってはいけない」とか、「自己アピールなどもってのほか」と言う教育を受けてきました。そして、失敗してはいけないのです。しかし、人間は誰でも失敗する者です。だから、失敗した時にはすぐに自分を許すことです。ここで学んだから次に生かそう、と思うことです。そうしないといつまでもくよくよすることになるからです。何の益もありません。人間はすぐに自分を責めやすいので、神様に悔い改めの祈りをします。そして、神様に赦されたことを感謝します。何しろ救われて神の子としていただいたのですから、自分を神の子として見るのです。さあ、神の子にふさわしく今日も元気に始めましょう。(さくま)