10月1日(月)
次いで、もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らが手を羊の頭に置く。あなたがそれを屠り、血を取ってその一部をアロンとその子らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指とに付け、血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。
出エジプト29:19、20
祭司の聖別が必要でした。それは、祭司らが定められた服を着た後に、雄羊が屠られ、その血が聖別のために使われました。右の耳たぶ、右手の親指と右足の親指に、血が付けられたのです。祭司たちは、聞くこと、奉仕、歩みが全て神に献げられていることを象徴しています。そして、このれらのことは、新約以降のクリスチャンにも適用されるのです。つまり、雄羊なるキリストの十字架の血によって清められ、聖別され、神の御声を聞き、神に仕え、神の道を歩む者とされるからです。さらに、祭司たちは血を付けられた後、祭壇の血と聖別の油を衣服に振りかけられます。キリストの血によって清められた者は、神の祭司としてキリストと共に働くために、聖霊のバプテスマを受ける必要があるのです。キリストの血を信じなさい。あなたを全ての罪から清めることができるからです。そして、聖霊の油注ぎを求めるのです。聖なる霊があなたを覚醒し、キリストの働きへと導かれます。それは、素晴らしいことなのです。大いなる主の御業があなたの上になされますように。(佐久間)
10月2日(火)
アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともしびをともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香の献げ物を絶やさぬようにする。
出エジプト30:7、8
30章では、まず香壇を作ることが指示されています。香料についても詳細な指示が書かれています。重要なことは、香は祈りを象徴していることです。「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし」(詩篇104:2)とダビデは語りました。黙示録では、「別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」(8:3、4)。香壇自体は、アカシヤ材で造られたものを金で覆っていますから、イエス・キリストの人性と神性を象徴していることに気がつきます。ですから、祈りはキリストから学ぶものであり、キリストは祈りの手本となり、また天の聖所で大祭司として私たちのために執り成して祈っておられることを示しています。神に近づく最も良い方法が祈りであり、祈りはキリストを通してなされるのです。また、香壇の寸法が書かれていますが、高さが縦横の二倍になっています。これは聖所のすべての備品の中で一番高さが高いのです。そこから、クリスチャンにとって最も重要な働きが祈りであることを教えています。そして、2アンマで使われる2という数字は、聖霊の働きが祈りの上にあることを暗示している。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)。私たちがどう祈ればいいかわからない時でも聖霊が共にいて神の御前に届く祈りを助けてくださるのです。イエスがいつでも神と一致していたように、私たちも聖霊の助けてを受けて祈りで神と一致することができるのです。今日の御言葉でも明らかですが、朝に夕に、祈りは度々献げられるものであることも覚えておきましょう。(佐久間)
10月3日(水)
彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。
出エジプト31:3、4
人々はクイズが好きなようで、テレビでもクイズ番組は人気がある。芸術家として名を残すような偉人は、やはり才能があるからこそ、いつの時代の人をも感動させるのだろう。聖書を読んでみると聖所の備品がことごとくただ寸法を守って作られただけではなく、工芸品であったことがわかる。しかも、それはただの工芸品ではなかった。芸術作品であり、人知を超えた最高のものだった。それが、「神の霊を満たし」たことによるものであることがわかる。私たちは人間そのものが素晴らしいことを知っている。才能があればなおいいだろうが、何の才能も無いとしてもそれでも神にとって最高の価値があることを覚えなければいけない。そして、皆が天才的工芸家になる必要はない。皆が天才的工芸家になれば逆に困るだろう。仕事は、聖所で使うものを作るだけだし、一つ聖所が完成すれば、もう仕事は無くなるのだから、一人いれば十分だし、彼に助手を一人つければよいほどの仕事量だったのだ。さて、知恵遅れの男の子が18歳になって就職した。いつまで続くのだろうと心配していたが、それから20年以上の年月が過ぎ、もう40歳になったのだが、まだ同じところで働いていた。それを聞いてとても感動した。すごいことだと思った。この地上では誰でも生きていくために何かしら仕事をしている。それが天才でなければできない仕事というのはほんの一握りだろう。仕事は誰かの役に立っているのだから尊い。自分に与えられた仕事が天職だと思えれば幸せだろうが、必ずしもそうはいかない。自分にあった仕事を探せるならそうしたらいいし、それが無理ならば、主のために働いていることを信じよう。どんな仕事であろうと、イヤイヤ働くのは自分のためにも人のためにもならない。そこで、まず祈ろう。主の御用にために自分に最適の仕事を与えてください、と。すでに心に願いがあるのなら、そのために祈ろう。人にどう思われるかといったことは仕事選びには関係ない。主のために自分が働けていると実感できれば、それは楽しいだろうし、給料をいただけることが申し訳なく感じるだろう。そうそう、給料をもらう仕事だけではなく、たとえ何もできなくて、ただそこに存在することだけしかできなくても、人に幸せを与えることができるのが人間の偉大さなのだ。このことを覚えていよう。(サクマ)
10月4日(木)
モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうしてご自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。・・・どうか燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。
出エジプト32:11、12
モーセがシナイ山で神と対面している時に、麓では民がアロンに詰め寄り、モーセが帰ってな来ないので、神々を造るようにと言いだした。すると、アロンは金で子牛を造ってしまった。それは、神の怒りに触れた。せっかく結んだシナイ契約をいきなり踏みにじったからだ。十戒の第一と第二の戒めがイスラエルの民によって破られた。山を下ったモーセはその事実を目の当たりにすると、怒り、神の造られた契約が書かれた石の板をその場で砕いた。どれほど罪が重いか彼らは思い知らされることになる。神は罪の重大さに民を滅ぼすと言い出すが、モーセがそこで懸命に執り成した。命がけの執り成しだった。彼らを赦すように取り成す祈りは、神によって聞かれた。これらから私たちが学ぶ教訓は、基本的には罪を犯してはならないという事だ。律法に照らし合わせれば、罪は明確にわかる仕組みだ。そして、罪の罰があることを忘れてはならない。しかし、神と罪人の間に立つ仲保者がいれば、罪人は生きることができる。それをモーセが実際に行なっている場面がここなのだ。そして、このモーセの姿こそ、来るべき主イエス・キリストの預型であった。さらに、私たちが霊的に祭司であるのなら、私たちこそ執り成し手として奉仕すべき存在なのである。祈ることはクリスチャンにとっては難しいことではないだろう。しかし、罪の赦しを伴う執り成しの祈りは、簡単ではない。イエス・キリストの助けなしにはできないことだ。それでも、あなたは罪を犯した者に怒るのではなく、罪の赦しと取り成すことが求められている。なぜなら、あなたも罪人であり、そのあなたの罪を赦すためにイエス・キリストは罪の罰を引き受けて十字架にかかられ、罪を贖ってくださった。その主が執り成してくださったのだ。だから、私たちは、キリストの道を辿り、執り成す祈りの務めを果たすことを選ぼうとするのだ。信仰がなければ人には到底できない。それでも、キリストの愛が迫ってくるので、私たちは主にならうことだけを考えるようになり、自分が正しいという思いすら放棄してしまい、ただへりくだって罪の執り成しを神に祈るようになる。不思議なことに私たちのような何の功績もない者の祈りでさえ、神は聞いてくださるのだ。(サクマ)
10月5日(金)
わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。
出エジプト33:19
クリスチャンになった人たちは幸せな人たちです。神様の選び無しにはクリスチャンになっていないからです。そのクリスチャンが不幸であるはずがありません。それでも、未熟なうちは不平不満が口から出たでしょうから、この世の人たちと変わらなく見えたかもしれません。手本であるモーセを見ていると、自分のためではなくいつもイスラエルの民のために命がけで執り成し、神様の御旨を伝え、指導しています。彼の生きる姿勢が、自分を捨てて、いつでも神様に従順に従うというものであったからこそ、彼は主に愛され、恵まれたのです。クリスチャンとしてより良い人生を生きたいのなら、主に従順に従うことです。それが正しい信仰者の姿なので、それを邪魔するものを排除する過程が生じます。それを試練だと言う人がいます。確かに主に試みられることはあります。天国に入るためには避けることができません。自分に甘い人や、自己中心な人というのは罪人の特徴としてあげられますが、そのような人が神様の恵みで救われるのですから、クリスチャンになっても、そのままでは問題が次々に生じてきます。そして、罪を犯すという最悪の道をたどることも珍しくないのです。しかし、それをいつまでも見逃しておくわけにはいきません。ましてや心の中に悪意があるのを放置していると最後には滅びてしまうかもしれません。だからこそ、いつでも神様に忠実に仕え、全てのことが神様の御言葉で吟味され、主イエス様への信仰によって生きる選択が必要なのです。それを人間の力だけで頑張ろうとすれば、すぐに反動が出て失敗します。そうではなくて、モーセのように謙遜になって、まるで自分を捨て去ったかのようなへりくだりを持って主に従順になることが信仰の秘訣なのです。その時、あなたは主の恵みを知り、主がいつでも自分を憐れんでいてくださることを知ることになります。モーセのような偉大な人にはなれなくても、主イエス様を愛してただ忠実にお従いする小さな者にはなれるのです。道端に小さく可憐に咲いている野の花でも目にとまり、美しいと思うことがあるでしょう。主もあなたをご覧になって、同じように心を動かしてくださるのです。だから、あなたは恵まれた人なのです。(さくま)
10月6日(土)
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」
出エジプト34:6、7
神をいたずらに恐れて、懲罰的な神として理解している人たちがいます。それは、そもそも福音に反する考え方です。もし、そのような神であれば、やはりファリサイ人の言う通り、律法を守る功績によって救いを得ることになります。しかし、そんな立派な人はいないのです。罪を犯さないようにしようと言って、すぐに罪を犯してしまうような者が私たち人間です。聖なる清い心の人になろうとしているのに、その心には隣人に対するイライラや怒りや嫉妬や復讐が湧き出てくるのです。心に闇があると言う人もいます。そのような人が、懲罰的な神を信じているというのは馬鹿げています。何の望みもないからです。今はまだまだダメでも、いつかはきっと律法に調和した完全な人になれると努力する人はあとを絶ちません。しかし、いつになれば完全な聖人になれるのでしょうか。律法遵守による義は、一つでも破ればアウトなのです。だから、望みがないのです。パウロもそのことを教えています。しかし、そもそもはじめの神理解が間違っているのです。聖書を読めば誰でもわかります。神は何の功績がなくても人を愛します。それどころか、罪を犯して無力を痛感している人をも何とか赦すことを考えているのです。人を赦して、神の愛の力で義とし、天国へ入ることができるようにしようとされるのが私たちの神なのです。私たちは、できもしないのに完全主義者で、神をちゃんと知ろうとしていないのに、知っていると思っているような者なのです。そして、どういうわけか自分を裁きまくる傾向があるのです。罪人なのに、聖人であると思いたいのでしょうか。私たちの神は驚くほど私たちを愛するお方なのです。その愛がわかれば、自分の命を捨てて神に仕えたいと思えてくるのです。私たちの神は、罪を責めるよりは、何とか清めて聖なる者になれるようにしようとされるお方なのです。一旦、その恵みに預かっているのに、自分の考えを正しいとし、自我を捨て去らない人は、結局、神に背き、罪を犯すことになります。それだけではなく、その人は、家族にも悪い影響を与えますから、彼らもまた神に背く生き方を選ぶようになるのです。それで、その人の家族までもが罰を受けることになるのです。そのことを覚え、自分の考えに固執しないで、聖書をあちらこちら読んで学び、聖霊の導きの中で従順に生きることです。あなたの内に聖霊がおられることを信じましょう。もし、不安があれば、聖霊に満たしていただけるように祈りましょう。(佐久間)
10月7日(日)
これは主が命じられた言葉である。あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい。
出エジプト35:4、5
主への献げ物は義務ではありませんでした。随意の献げ物だったのです。神の聖所を造るためには、相当の材料が必要でした。それも、驚くほど高価な物が潤沢に使われるのです。ですから、エジプトから脱出して来た奴隷には無理なはずです。それなのに、彼らは惜しむことをしませんでしたし、出発の時にエジプト人から受け取った宝物がここで役に立ちました。こうした材料を集めてもそれを用いて工作する人も必要でした。なんでもいいということはなく、全てに意味があるので、「心に知恵のある者」が集められました。彼らは、「心動かされ、進んで心からする者」でした。これで、わかるように、今日も教会は献金や献身によって支えられ、機能しているのです。それは、主が直接真心の献げ物を受け取ってくださっているのです。主は、そうした心からの献げたものを決して忘れることはありません。このようにして聖所は造られていったように、私たちに与えられた使命も完成へと進んでいけるのです。(佐久間)
10月8日(月)
仕事に従事する者のうち、心に知恵のある者はすべて、幕屋に用いる十枚の幕を織った。すなわち、亜麻のより糸、青、紫、緋色の毛糸を使って意匠家の描いたケルビム模様を織り上げた。
出エジプト36:8
聖所の造り方から霊的な知恵が与えられています。ルース・スペクター・ラセールの書いた「幕屋」から引用してみます。建築を知っている人は、下から作ることを知っています。つまり、土台から作るのです。幕屋もその手順によるのですが、神は天井と屋根のこと、つまり、おおいの幕から指示されるのです。それは、神は天から地へ降ってこられることを暗示しています。このおおい自体が主イエス・キリストを象徴しているのです。また、壁に使われたおおいの内側の板は教会を象徴しています。幕屋の幕は亜麻のより糸を使いました。これは今日でも複製できないほど、上等のものでエジプト人だけが作っていました。これは、漂白されたものでした。そこから、汚れのないとか、潔白であること、落ち度のないことを表していました。これがキリストを象徴し、その義を示しているのです。さらに、色が書かれていますが、これにも意味があります。青は、天を象徴し、キリストは天から降ってこられたことを示し、青が最初の色だったことから、神が第一であることを示しています。緋色は最後に出てきますが、これは地を象徴する色です。アダムは、「赤い土」が元の意味です。キリストは第二のアダムで、天から来られただけではなく、地(赤)からも出られたお方でした。紫色は、王の色です。そして、紫色は青と赤の混ぜた色です。ですから、神人両性をお持ちのキリストを象徴している色なのです。この幕には、ケルビム模様が織り上げられていたました。これは、刺繍よりも難しく、高度な技術が必要でした。この模様がどれほど素晴らしいものか見てみたいですね。聖霊が働いて意匠を凝らしたものとなっていたのですから。しかし、霊的に幕屋の内側の壁として板が建てられていました。これは、銀の台座で支えられていましたから、キリストの贖いによって立つ者を表しています。つまり、クリスチャンのことです。このクリスチャンのいる場所が幕屋の中であるというところが深い霊的意味を持っているのです。キリストにあって堅く立つ者はこの模様を見ることができるというわけです。幕によって内側は隠されているのです。キリストによって救われた人だけがこの幕の内側に入れら、また、聖霊によって神の作品に作り上げられていきます。それは、キリストの内に織り込まれて行くように、キリストと一つになるように、義と変えられるように、聖霊が働かれるのです。それこそが、聖霊のバプテスマを施す意味であり、父の約束であり、強い願いなのです。だから、幕屋の外に立つ人たちのようになってはいけないのです。(佐久間)
10月9日(火)
彼は純金で燭台を作った。燭台は、打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁が一体であった。
出エジプト37:17
燭台は、ロウソクではなく、油を使ったランプでしたので、ランプ立てと言えばいいでしょうか。箱やテープルと違って、アカシヤ材が一切使われていません。純金で作られ、付属品も含めて一キカル(34.2kg)でした。時価相場が変動するので現在の金額で、一億六千万円ぐらいでしょうか。大変高価な美術工芸品と言えます。燭台は、神がご自分の民のために光としてキリストを備えられたことを示しています。純金は、イエス・キリストの神としての栄光を象徴しています。また、アーモンドの花の形をした萼と節と花弁がデザインとして用いられています。アーモンドは、アロンの杖が一晩のうちに芽を出して、花が咲き、実まで結んだ話を連想させます。これは、復活したイエス・キリストを象徴していましたから、燭台もイエス・キリストの復活を示しているのです。復活したイエス・キリストこそが私たちの光なのです。また、燭台に使われた油は、聖霊を象徴していますから、クリスチャンに注がれた聖霊はともし火となって私たちを照らすのです。それは、暗闇の中では罪や汚れが隠されていて平気でいられたのが、光の中ではそれが耐えられないのです。ですから、罪を赦され、清められた聖徒たちに聖霊が光を灯し、正しい道を歩めるようにするのです。燭台の油は、燃やせば無くなるものでしたから、油の補充がなされました。同じように、聖霊は一度注がれればいいというわけではなく、補充される必要があるのです。それで、クリスチャンは、聖霊のバプテスマを求めて祈る必要があります。聖霊の火がいつでも燃えているクリスチャンになりたいですね。(佐久間)
10月10日(水)
それらは、庭の門の両側においた。
出エジプト38:15
幕屋を囲む庭がありました。それは、定められた幔幕で囲まれていました。「幕屋」A・J・ポロック著から引用します。庭の正面には、十五アンマの幔幕と三本の柱が庭の門の両側におかれました。庭の門は二十アンマの幕で四本の柱と四個の台座で作られていました。幔幕の寸法は北側と南側はそれぞれ百アンマ、西側は五十アンマ、東側は三十アンマの総計二百八十アンマでした。これらの寸法には五の倍数が使われています。ところが入り口に当たる門は、四本の柱になっているのです。これは、救いが特定の人や民族のためではなく、万民に開かれていることを示しています。ここに門が出てきたときに、「わたしは門である」(ヨハネ10:9)と語られたイエス・キリストを象徴していることに気がつきます。「神は唯一である、神と人の間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(Ⅰテモテ2:5)、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)、「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。庭の門にはケルビムは織り出されませんでした。それは、入口には、脅かすものや裁きを示すものがなかったということです。ここには恵みが最高の形で示されていたのです。キリストの十字架の贖いがいかに恵みに富んでいたか、静かに瞑想してみましょう。(佐久間)
10月11日(木)
付け帯は、主がモーセに命じられたとおり、エフォドと同じように、金、青、紫、緋色の毛糸、および亜麻の撚り糸を使って作った。
出エジプト39:5
大祭司が着るエフォドには付け帯がありました。この帯は、聖所の内側の幕と同じ色が使われていますが、それに金色が加えられているのです。この帯は、奉仕を象徴しています。新約聖書にも「腰に帯を締め、ともしびを灯していなさい。」(ルカ12:35)とありますように、主の再臨を待つ信徒の姿を戒めています。また、同じ箇所に、「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(同12:37)、とありますから、再臨の時に眠った信仰ではなく、主を忠実に待ち続けた聖徒に主イエス・キリストが自らが帯を締め、給仕してくださると言うのです。キリストは、私たちがこの世で失敗したり、罪を犯した時に、天の聖所で執り成しの奉仕をしてくださるのです。その主の奉仕があるので、私たちは救われることを覚えておきましょう。そして、私たちも暗い夜の間も主を待ち、主のために奉仕する者であり続けたいものです。(佐久間)
10月12日(金)
旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
出エジプト40:38
クリスチャンは天に国籍を持つ者です。そのために、この地上の生活は天国へ帰るまでの旅路となっています。ですから出エジプト記は私たちにとっても象徴的な信仰の物語として意義深いものだったのです。出エジプトを果たした民は主の指示に従い荒野で臨在の幕屋を建設し、それが主の指示通りであったので、雲が幕屋を覆いました。それは、主が幕屋に来られことを現していました。そして、今日のみ言葉の通りにこの荒野の旅路の間、主はイスラエルの民の只中にいてくださり、進むべき道を示されたのです。全てに時があるので、出発もその地に留まることも主が決めました。私たちの信仰生活も、主の時に従うことが肝心ですが、進むべきか、それとも止まるべきかは主が決めてしるしをくださることがあります。そこで、主に祈って聞くことが大切なのです。重要な決断を迫られる時にはいつでも主に祈り、答えを待ちます。すぐに答えが欲しいのに待たされることもあります。その間に信仰が試されていることを考慮に入れておくべきです。どちらでも良い時には明確なしるしは無いでしょうが、祈り抜いたので自分で選ぶことができます。また、牧師や兄弟姉妹に一週間とか期間を決めて祈って主に聞いていただき、その時が満ちたら、どうであったか確かめる方法があります。これも、その時に主が導いてくださいます。主は、あなたを一人ぼっちにしません。この旅路を一人旅にはしないのです。主ご自身があなたと一緒に旅してくださるのです。ですから、イスラエルの民のように不平や文句を言わないように気をつけましょう。主に不従順な民はカナンには入ることができませんでした。荒野で死んでしまいました。これは私たちに教訓となっています。ですから、どんな時も主に感謝し讃美するのです。その効果はてきめんです。(佐久間)
10月13日(土)
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。
ヤコブ1:19、20
人の個性はそれぞれ異なり、人から褒められる良いものから、人から嫌われる悪いものまで色々あります。今日の聖句を読むと、怒りやすい人は、本当に困るでしょう。自分でそうしようと思っているわけではないからです。しかし、聖書に書いてあるということは、怒りやすい性質を変えることができるということです。努力してもできないようなことが書いてあることはないから、自分は短気だからとか、遺伝だからとか、何かしらの言い訳をするよりは、祈って「神様、怒るのに遅い人になれるように助けてください」と願った方がいいのです。それともう一つ大切なことがあります。聖書は注意深く読むように教えられていると思いますが、実は、三点セットになっていることです。「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅い」この三点です。どれか一つを努力してやってみるというのではなく、この三つを同時に行うとうまく行くようになるのです。怒りやすい人は、人の話をよく聞かないために相手の言いたいことを理解できずに、勝手に否定的なことを言われていると脳がパニックになって怒っているのです。さらに、相手の言葉を半分も聞かないうちに、相手の話しを遮ってすぐに自分が話し始めてしまうのです。だから、聖書に書いた通りにしようと決めて、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」(21)。そのためには、先にすることがあります。「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去」(21)るのです。これは、クリスチャン全員の課題です。私たちはキリストに倣う者になりたいのに、この世の批判的な精神に倣うと自分をいつまでも変えることができないのです。「人の怒りは神の義を実現しない」と書かれていることを忘れてはいけません。悲しいかな、神が私たちを義とするという福音を知っているのに、それを台無しにしてしまうのが「怒り」なのです。今まで、しかたないと放置してきた人は、聖霊の助けをいただいて、三つの原則を実践することに努めましょう。それから、不安などのストレスをイエス様に解消していただけるように祈りましょう。何しろ、あなたはすでに救われて神の子なのですから、うまく行くはずです。頑張りすぎずに、イエス様が付いているから大丈夫と自分に言い聞かせることです。怒りから解放されて、自由になりましょう。(さくま)
10月14日(日)
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」というだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
ヤコブ2:15~17
クリスチャンとは何だろうと改めて思います。教会に毎週通って礼拝に参加していればそれでクリスチャンと言えるのだろうか。私たちは、日々の生活の中でいつもクリスチャンとして生きているかどうか問われているのではないだろうか。教会にいると必ずホームレスの人が施しを求めてやってきます。対応する人それぞれの考えがあって、対応もまちまちです。また、ホームレスの人も本当に色々なのです。詐欺師まで来ますから、人の良い牧師は騙されてお金を巻き上げられてしまいます。私は、自分が逆にこの人の立場だったらどうだろうと考えてしまいます。だから、何か助けようと思います。ある人は、この人がもしかするとイエス様で姿を変えて来ているのではないか、と思うようです。知らずにイエス様を助けていたということがあるのかもしれません。ヤコブは、クリスチャンになっても、愛の行いが伴わない人のことを懸念していたのです。確かに信仰で救われるのですが、救いには人を変える力があるのです。それは、約束の聖霊がその人の内に宿るからです。そのため、内側からキリストと同じ愛があふれ出てくるのです。それを止めることもできるので、自分の気持ちや考えを優先するか、聖霊の促しに従うかで結果が異なって来ます。車が故障して、バスに乗りました。するとバス停でおばあさんが手押しの買い物カートを持ち上げてバスに乗ろうとするのですが、カートが重いようでバスに乗れずにいます。それが私の目の前で起こるのです。そこで、席を立ってステップを降りて買い物カートを引っ張り上げました。次にバスに乗ると、今度は体のちょっと不自由な初老の男性が乗って来ました。そして、椅子に座れたのですが、どうしたことか整理券を足下に落としてしまいました。それを何とか取ろうとするのですが、体が不自由なのでうまくいきません。それで、私は席を立ってその人の足元の整理券を拾って手渡しました。こんなことが起こると、あのおばあさんも、初老の男性もイエス様だったのではないかと後で思えてくるのです。見て見ぬ振りをするかどうかテストされていたようにちょっと考えてしまうわけです。こんなことを考えるのは、クリスチャンだからだと思います。それにしても、外に出て行くと誰かが困っていて、それに遭遇する確率が高いのはどうしてだろうと思うのですが、みんなが優しくちょっと小さな親切ができれば社会は住みやすくなるでしょうね。そのために、クリスチャンがあちらこちらに配置されているのかもしれません。(さくま)
10月15日(月)
わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしたちの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。
ヤコブ3:9、10
これはクリスチャンの悩みです。正しいことが何か知っていますが、感情の波にいつでも簡単に揺れ動いてしまいます。そこで、同じ口から賛美と呪いの言葉が出てくることになります。美しい言葉を語れるようにと思っていても、汚い言葉も出て来ます。少なくともクリスチャン同士では悪くは言わないだろうと思っていると、がっかりすることになります。モーセが口が重かったと聞けば、口だけでもモーセのようであればよかったのに、と思うのですが、口下手だという人も例外ではないのです。聖書の主張は、泉が同じ穴から甘い水と苦い水を出すことはないと比喩で諭します。つまり、私たちも神様を賛美する者であれば、その神様にかたどって造られた人間を呪うことはできないはずだ、ということです。これは、もっともな話ですね。それにしても、舌は勝手に動くのでしょうか。考える前にもうペラペラと喋り出すものですから困ります。特に、ゴシップが厄介です。その場にいない人のことを話すときが要注意です。悪気はないと言いながら、辛辣なことをつい言ってしまうのです。それが、何人かで話しているとどんどんヒートアップしてしまいます。きっと後で後悔するようなことになるでしょう。反省すると、クリスチャンは人のことを中傷したり、悪くいう人とは距離を持つようになります。自分の弱さを自覚して、気にしているのです。そのような人はヤコブ書の3章は嫌いな箇所です。舌で失敗した経験のある人は、「舌は火です」(6節)と書かれた箇所を読むと、ぞっとするはずです。その通りだからです。クリスチャンで未だ何を言っても大丈夫と思っている人は、危険な断崖絶壁のふちに立っているのです。悪魔の巧妙な誘惑で一番成功しているのが、舌の災いです。そこで、舌問題の対処法として、次の二つをあげておきます。①聖霊の助けを求める、②「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という御言葉を守り行うこと。とにかく、「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(8節)と書いてありますから、ゆめゆめ自分の言葉の責任を軽く考えずに、愛に溢れた良い言葉が出てくるように心に言い聞かせましょう。(さくま)
10月16日(火)
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。
ヤコブ4:7、8
ヤコブ書には、クリスチャンとして恵みを受ける方法や、願い求めて得る方法や、悪魔の攻撃に勝利する方法や、主に高めていただく方法、そして、なすべき善を知りながら、それを行わないなら罪となる、という覚えていなければならないことがどんどん出て来ます。この世の人は、クリスチャンの反対を行うので、悪魔に服従し、神に反抗しています。そのような世界に住んでいたので、私たちはその後遺症が残っているようで、聖書に書かれていることを実践しないため、大いに損をしていることがあるのです。神に服従していないのに、悪魔に反抗しようとすれば、うまく行きません。ひどい目にあう危険があります。ですから、クリスチャンとしては当然のことを、つまり神に服従することを第一にすることです。そして、神に近づくのです。驚くことに、ここには法則があって、神に近づくと神も近づく、という法則です。キリスト教の聖人たちの伝記にはこのような実例があります。ですから、人生を一変するほどの霊的体験をあなたもできるのです。主があなたを祝福し恵みに満たしたいとお考えであることを信じましょう。その恵みを受けることは難しくありません。単純に聖書のみ言葉をそのまま実践することです。(佐久間)
10月17日(水)
忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
ヤコブ5:11
あなたが今日、なんでこんな目にあっているのだろう、最悪な人生だ、と思っているなら、喜んでください。旧約聖書にヨブ記があることをご存知ですね。ヨブは何一つ落ち度のない信心深い人だったのです。だからこそ祝福されて豊かな人生を送れたのです。ところが、そのヨブが子供達も財産も何もかも失い自分自身も重い皮膚病で苦しみに突き落とされます。ここまで読んで、ヨブ以上に自分は不運だと言える人はおそらくいないでしょう。そのヨブがテストされていたことを読者ははじめから知っています。それで、ヨブの忍耐をとことん見せられます。そして、最後にヨブは以前よりももっと大きな祝福を受けることになります。そのヨブの忍耐がヤコブ書に出てきたのです。ですから、クリスチャンも忍耐が必要であることを学ばなければなりません。「忍耐」は私たちが一番嫌いなものかもしれません。だから避けたいのですが、信仰生活を振り返ると忍耐があってこそ信仰が成長し、その信仰によって大いに祝福を受けたと言えます。つまり、忍耐だけで終わる、ということはありません。大きな試練で、神様に見捨てられたと感じた時にも、それでも主を信じる、という信仰があるか無いか、そこが分かれ目です。聖書の偉人たちは皆その忍耐を通ってきたのです。では、忍耐を続けたならどうなるのでしょう。もちろん、その先には大きな喜びが待っています。ですから、気落ちすることなく、この試練の先に主の大きな恵みが待っていると自分に言い聞かせましょう。その保証は、あなたの「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」。(さくま)
10月18日(木)
万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。
ハガイ1:7、8
イスラエルの悲劇はバビロン捕囚に一番現れている。しかし、バビロンはペルシャに敗れ、クロス王はイスラエルの民が神殿復興するために帰還することを許した。それは良いことのはずであったが、新しい困難が待ち構えていた。帰還した人たちは、荒れ果てて放置されていた畑をなんとか元に戻さなければならなかったが、悪いことに土地があれて収穫は非常に少なかった、それだけではなく、旱魃が起こり、生きていくことすら困難を覚える状況になった。その時、預言者ハガイが主の預言を語り出したのだ。それは、神殿を復興することを命じるものだった。民は自分の生活のことを神殿復興よりも優先させた。しかし、主は神殿の再建を先にすることを求めた。神のことを第一に優先することこそが神の民が覚えるべきことだった。それは現代でも同じことだ。祝福された人生を送りたい人は、まず、神のことを優先することだ、そのために時間をとって祈り、主に聞き、考えることだ。自分のやるべきことは決まっているから、それを知ることも大切なことなのだ。神を後回しにすると、ろくなことがない。危険とすら言える。逆に、神に栄光を帰すことができれば、驚くほどの恵みに満たされて生きるだろう。問題を抱えている人は特にこのことを忘れずに考えてみよう。私たちは本来祝福された人生を喜んで生きて行くことになっているのだから、問題がある時には、主が何かを教えようとしているかもしれないので、静まって心を主に向けてみよう。(サクマ)
10月19日(金)
働け、わたしはお前たちと共にいると、万軍の主は言われる。
ハガイ2:4
クリスチャンは、普通の人とは違っています。ですから、この世の人と同じになる必要はありません。信仰のことで誰かを恐れる必要もありません。どんな人も、あなたを脅かすことはできません。主は、あなたが揺るがされることを許さないからです。あなたは祝福を受けて、恵みを味わい、いつも喜んでいることができます。親切な正しい人として生きることができます。悪魔はあなたを誘惑してくるでしょうが、あなたはイエス・キリストと共にその誘惑を退けることができます。それどころか、悪魔に立ち向かうことで追い返すこともできます。祈ることを楽しみにし、自分が何者であるか知ることができます。さて、このように素晴らしいあなたは、主が「働け」と言われた時に、何を思うでしょうか。今日の聖句の前には、「皆、勇気を出せ」と主が言われました。勇気を出して、働くこととは何でしょう。ハガイの時代には、荒廃した神殿を再建することが、勇気を出して働くことの内容でした。では、現代人の私たちは何をするのでしょうか。パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Ⅰコリント3:16、17)と言っています。ですから、自分が神殿であることをわきまえ、神殿を完成させるために働くのです。働くと言っても、自力で聖なる者になるのではありません。聖霊が建て上げるのを協力します。それはあなたの想像をはるかに超えています。日々の生活に聖霊の働きがあるからです。あなたが何をしても意味が出てくるのです。だから、うまくやるには、いつも喜び、全てのことを感謝し、絶えず祈る、これに尽きます。不平を言ったり、怒っていては、聖霊の働きを妨げてしまい、悪魔にすきを与えてしまいますから、ひどい目にあう危険があります。そうならないためにも、聖書を学びましょう。神を侮ると、後悔することになりますから、謙遜に、信心深く、明るく、楽しく、積極的に生きましょう。(佐久間)
10月20日(土)
「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主ご自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」
申命記1:29~31
主に聞き従うことが、なぜこんなにも難しかったのかと不思議になります。イエスラエルの民に染み付いた奴隷根性とでも言えばいいのでしょうか。否定的な考えが抜けませんでした。出エジプトという大きな奇跡を経験した世代の人たちがカレブとヨシュア以外、約束の地に入ることができないと主に言われるほど不従順だったのです。彼らは、父が子を背負うように、主が彼らを背負って困難な旅を安全に続けたことを感謝してはいなかったのです。それどころか、口を開けば不平ばかりだったのです。ですから心を入れ替えなければ荒野で滅びるしかなかったのです。何度もチャンスが与えられてきたのに、彼らは自分を変えようとはしなかったのです。カレブは「主に従い通したから」約束の地へ入ることを神に認められました。悲しいことに、モーセはどこまでも不従順な彼らのために神の怒りをかって、彼らと同じく約束の地へ入ることができないと言われたのです。主の恵みを味わい知っている者が、いつまでも不従順では天国へ入ることが難しくなります。そうならないように、謙遜になって神に服従することです。それができているかどうかは、主を信頼しているがゆえに恐れなくなる。不平の代わりに感謝の言葉が出て来るようになる。物事を楽観的に肯定的に積極的に見、考えるようになる。このようなことはカレブに見て取ることができました。私たちも他の人と比べることなく、たった一人でも主に忠実に、従順に生きたいのです。あなたが主を愛しているのなら、きっと上手く行きます。クリスチャン人生は、父なる神に背負っていただけるものなのですから、何と恵まれているでしょう。だから、笑って明るく生きましょう。ハレルヤと主を賛美しましょう。もし、もう歩けないと思ったら、天のお父さんに背負っていただきましょう。(佐久間)
10月21日(日)
あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。
申命記2:7
私たちの信仰の旅路は何年続くのでしょうか。天国というゴールがあるので、この旅路はやがて終わります。それは人の一生ということです。あなたの一生は、あなたの神、主との一生です。決して一人で頑張って来ただけのものではありません。聖書を理解すると、私たちの主は、私たちを祝福すると決めているのです。あなたが何をしても、それが祝福されます。この広い世界であなたはどこへ行こうとしているのか知っているのです。そして、振り返れば山もあれば谷もあった人生で、不思議なぐらい何一つ不足しなかったのです。イスラエルの旅路は四十年間とありますが、ゲマとリアでは「ヤハウェの御手」が四十になります。つまり、神の御手が働く期間なのです。イエス・キリストの信者である、あなたの人生もヤハウェの御手が働いていることを覚えましょう。たとえ弱い者であっても、イエス・キリストが助けて義としてくださいます。心配することなど何もないのです。主を仰ぎ感謝して生きて行けばいいのです。(佐久間)
10月22日(月)
しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。
申命記3:26
モーセは、ヨルダン川を渡って、約束の良い地、美しい山、またレバノン山を見たかったのです。そのために、祈ったのですが、祈りは聞かれませんでした。その理由が、モーセが悪いからではなく、イスラエルの民が悪くて、主は憤られたのです。キリストが最後に十字架に架けられたのが本人が悪いからではなく、罪人のために犠牲になられた事が思い出されます。クリスチャンは、この世の栄達を望んでもご褒美をいただけないことは良くあります。なぜなら、彼らのご褒美はまさに天国に入れらる事だからです。この世が天国では本末転倒です。ロトの妻のように後ろを振り返ってはいけないのです。では、モーセは祝福されなかったのか、と言えば、そうではありません。彼は120歳で死にましたが、「目はかすまず、活力も失せてはいなかった」(34:7)のです。老年になれば誰でも、弱っていくものです。病院に行ってみれば、お年寄りだけらけです。だから、健康で長生きしたいと思っているのですが、モーセのように最期まで元気であったのはやはり、祝福されていた証拠です。永遠の命のために、神様は色々な助けを与えてくださるのですが、人間は羊のように羊飼いが必要なのです。あなたのことをいつも思って、心配し、導き、執り成してくださる方を神様は与えられたのです。イエス・キリストを仰ぎましょう。(さくま)
10月23日(火)
心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。
申命記4:29
クリスチャンは大変恵まれた人たちです。人間的には色々な事が待ち構えていて、その度に心配したり、喜んだり、怒ったりしているでしょうが、それが人生です。問題は、成長しているかどうかです。人間は歳を取りますから肉体的には衰えて行くのです。しかし、クリスチャンとして成長することは可能です。神様が与えられた方法は、主の戒めを守ることでした。(2節)その結果は、周りの人たちから「知恵があり、賢明である」(6節)と認められるようになるのです。しかし、律法を守り行う事が形式的になりやすいことも事実なのです。そこで、もう一つの方法が、全力で主を尋ね求めることでした。神に出会うことこそ、人を変え、キリストのようになる秘訣なのです。神様に出会うなら、あなたは驚くほどの喜びに溢れるでしょう。そして、今までわからなかった事が急に理解できていることに驚くと思います。このような神様に出会う経験は、特別な人だけのものではありません。クリスチャンなら誰でも経験できることなのです。あなたが変わったと思えるのは、心が清いと実感するようになるからです。そのような素晴らしい経験は、クリスチャンでなければ体験できないから、大変恵まれていると言ったのです。(さくま)
10月24日(水)
あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きる事ができる。
申命記5:32、33
クリスチャンが聖書を読んで、そこらか何かを悟り、また光を得たなら、その通りに生きるはずです。ましてや主に忠実に生きたいと願うことは正しいのです。人の幸福は命と幸いを得て、与えられた土地で長く生きる事なのです。それは難しいことに見えないかもしれませんが、実際にはそうならないことの方が多いのです。ですから、クリスチャンは真理の書である聖書を手にして、聖霊のガイドがいつも導き、主イエス・キリストという信頼できる救い主が助けてくださるので、幸福に生きる事ができるのです。もちろん、病気をすることもあるし、災難にあうことだってあるかもしれないし、悩みの日も避けられないでしょう。しかし、それでも希望があり、神様を礼拝して、祈り、讃美できるのは、やはり本当の幸福であると思います。何よりも、神様はあなたのことをちゃんと覚えていてくださること、それどころか愛してくださり、慈しみを惜しまないということです。だから、今日、第一にすることは神様に感謝することです。心に浮かぶことを感謝していると、喜びが湧き上がります。この喜びの力があなたを幸せな道へと運ぶのです。イエス様はあなたと一緒に笑い、喜ぶのです。今日も、祝福された一日となりますように。(さくま)
10月25日(木)
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記6:4
これが私たちの心に刻まれている。クリスチャンになったその日から。ただ、これだけだ。教理や神学をいくら並べ立てても、この御言葉に勝るものは無い。私たちは、何かの規則に縛られて生きるために宗教を持っているわけではない。できもしない義人になる努力や聖なる者となるという繰り返されるただの言葉に、私たちを癒す力はない。しかし、私たちは知っている。主は生きておられる。何十億という人の中にいるちっぽけな私を主は見つけ出し、命を捨てて助けてくださった。なぜ、どうしてと不思議でならない。取り立てて悪人ではないかもしれないが、自分は、神様の御前に堂々と立てるような者ではない、とよく知っている。律法の石の板は不変の戒めで私を裁く事ができる。なんの言い訳もできない。私こそが罪人なのだ。誰かのせいにしたくても今はできない。なぜなら、罪が示され、そして、十字架が見せられたからだ。イエス様は十字架の苦しさの中で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、執り成してくださった。なぜ、そこまで愛されるのか・・・。この愛に揺り動かされて、私たちはクリスチャンになった。だから、霊的イスラエルに加えられ、神の愛の支配のもとに生かされている。そして、私たちの心にはこの神しかいない。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しないさい。(さくま)
10月26日(金)
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
申命記7:6
今、あなたは自分を誰だと思っているだろう。神様はあなたを宝の民と思っておられる。あなたが、自分のことをどう思っているかに関係なく、あなたは、主の聖なる民なのだ。なぜなら、神様があなたを地球上の全ての人々から選ばれたのだから。あなたには、とても良いところがある。自分で自覚していなくても、それは霊的に見ても魅力に溢れている。見る人が見ればすぐにわかる。問題は、自分で自分のことを正確に理解しにくいことだ。それは、自分以外の外の世界に惑わされているからだ。例えば、人と比べてしまうことだ。何の意味も無いことなのに、とても気にしている。それで、根拠もなく、自信を喪失したり、落ち込んだり、自己卑下してしまいかねない。それがクリスチャンならとても残念だ。だって、今日の神様の御言葉をもう一度見て見れば明らかだ。あなたは、神様の宝だ。それがどんなにすごいことか考えてほしい。この地上で、人と比べて落ち込んでいる場合では無い。落ち込むべきは、宝では無い方の人だ。あなたは、聖なる自信を持つべきだ。神様が全人類から選りすぐりで選び抜いたのが、あなただからだ。どうだろう、ちょっとは自信が出てきただろうか。あなたは、きっと神様が喜ぶことをするだろう。あなたにとっては大したことでは無いと思うことが、人から見れば驚きに見えるような、大いなる働きをすることができる。何しろあなたは選ばれているのだから、福引で一等賞のハワイ旅行を当てたよりもはるかにすごいことがすでにあなたに起こっている事を認めよう。早速、主の御用のために自分を用いてくださるように大胆に祈ってみよう。(さくま)
10月27日(土)
あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
申命記8:5、6
クリスチャンになって何年も経ってから人生を振り返るなら、今日の御言葉は意味が増してくるはずです。私たちは神様のことも天国のことも良く知りません。そのため、この世のことを何も知らずに生まれてきた赤ちゃんのように、成長に伴って親がしつけ、訓練するように、イエス・キリストに救われて新しく生まれてきたクリスチャンは、赤ちゃんから始めるようなもので、神様の戒めもなかなか理解できないところがあります。古い罪びとの生き方はよく知っていますが、新生して神の愛の中で生きるという意味がなかなかつかめません。自力で頑張って義となろうとしても、頑張れば頑張るほど偽善者になってくるようで、うわべだけの義人になりそうで嫌になります。それでも、主の愛に触れた人は、心に大きな変化が生まれます。信仰心に素直に従い、神様を畏れ敬うという態度が心から出てくるようになります。クリスチャンにとっては、イエス様が命じられた新し掟が重要となります。それは、イエス様が愛してくださったように互いに愛し合うことです。なぜ、これが一つだけ戒められたのでしょう。それは、結局、律法は神様の愛に目覚めた人にとっては、神様の愛を具体化したものだったのです。イエス様の贖いがあったために、私たちは清められて、神様の霊を内側に注がれたのです。聖霊もまた神様なので、愛なのです。イエス様が十字架で示されたその愛が、あなたの内に宿ったのです。あなたが義しく生きることができるように、神様の愛があなたの中心に置かれ、それは聖霊なので、生きて働かれ、自分になかった自己犠牲の愛へと目覚めさせてくださいます。このようになると、人生はこの世の中に生きる人ではなく、主の道を歩む人として生きるようになります。悪魔は絶えず、高慢になるようにそそのかし、神様を畏れることをやめさせようとします。それは、私が、私が、という思いを強めればいいのです。義人は、私ではなく主が、と考えるので、主がその人に働くことが容易にできます。とにかく、主が訓練をなさることを覚えて、忠実に主に仕えてください。その報いは想像以上のものです。(さくま)
10月28日(日)
あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主がなたの前から彼らを追い払われるのである。
申命記9:4
この記事を読んで驚くのは、イスラエルの民が先住民を追い払うことができたのは、この国々の民が神に逆らうからだ、ということです。決してイスラエルの民の信仰のすばらしさや、彼らの義のゆえに、という訳ではなかったということです。これは大きな教訓となります。聖書時代のイスラエルの民の荒野の旅路は、不思議なことに、現代のクリスチャンである私たちの信仰の旅路を預言しているように見えるのです。ですから、そのように見れば、この世で神に逆らう者は滅びることになるのです。そして、肝心なのはイスラエルの民の失敗は、心の頑なさが原因だったと書かれていますから、神への自分の思いを点検する必要があります。神様に愛され、神様を愛していると思える人は心配ありません。そんな風には思えないという人は牧師と話す必要があるでしょう。問題は、聖書に示された真理を無視して自分の思いを優先する人です。自分勝手に聖書を解釈して自分の考えを優先することにも危険は潜んでいます。一番問題なのは、偶像を拝むことです。昔、ある教会の長老の息子が母親が入院している病室に新興宗教の法被を着て現れたときには、流石に驚きました。兄は、牧師になったのですが、弟は親に反発して新興宗教に入ったのです。弟は、両親が教会から帰ってくると、いつも牧師や教会員の悪口を言い合っていた。そのような偽善に嫌気がさして、他の宗教に走った」と言ったようなことを私に訴えていました。クリスチャンだって、イスラエルの民と同じように罪を犯してしまうことがあるでしょう。しかし、してはならないことをしたら、主を憤らせることだってあるのです。モーセがそうであったように、イエス・キリストもそんな時に、私たちが滅ぼされないように、執り成して祈り続けてくださるのです。それで、恵まれた人生を過ごさせていただいているだけです。願わくば、主を喜ばせる者となりたいですね。(佐久間)
10月29日(月)
あなたは、前と同じように、石を切って板を二枚造り、山に登ってわたしのもとに来なさい。また木の箱を作りなさい。わたしは、あなたが前に砕いた板に書かれていた言葉をその板に書き記す。あなたはそれを箱に納めるがよい。
申命記10:1、2
モーセは十戒の石の板をもう一度造った。前回は、モーセが山上で十戒の書かれた石の板を持ち帰ると、イエスラエルの民が金の子牛を造って踊り狂っていた。それで、モーセは怒り、石の板を砕いてしまったのだ。そして、今回は石の板だけではなく、その石を入れる箱を木で作るように主に命じられたのだ。この出来事は、霊的には大きな意味がある。初めの時の十戒の書かれた石の板は、人間お外に置かれた戒めで、これでは人間は失敗してしまうという結果になった。そこで、今度は木の箱を作るのだが、木は人性を象徴している。ということは、人間の中に神の戒めを入れるということになる。少なくとも、そのように預言していたのだ。それは、また、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ31:33)と明確に預言された。それは、キリスト到来により、本当に実現した。ペンテコステの日に成就したのだ。それは、主イエス・キリストを信じて救われた者が、信仰と祈りによっていただく聖霊のバプテスマだ。木の箱のように粗末な入れ物である人間に、聖なる霊が本当に入るということなのである。(サクマ)
10月30日(火)
あなたはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記11:18
神様の口から出る一つ一つの御言葉によって人は生きるとイエス様はおっしゃいました。それは真理です。申命記にも神様の命令や掟、法、そして戒めが書かれ、それを常に守るようにとの指示があります。これは、誰が読んでも大切なことであると理解できます。さらに読み進むと、今日の聖書箇所が出てきます。これは驚くほど徹底しています。確かに、私たちは神様の命令は守ろうと思っているのです。律法が良いもので守り行うものであることも知っています。それなのに、忘れるのです。どんなに感動してこの御言葉の通りに守り行おう、などと思っていてもいつの間にか忘れてしまうのです。だから、受験勉強や資格試験の暗記もののように、あちらこちらに紙に書いて貼ったり、単語帳に聖句を書いて持ち歩いたり、ICレコーダーに入れて、音声で聴いたり、時には睡眠学習だと言って、寝る枕元で聖書を録音したものを聴きながら寝たりする人も出てくるのです。これが古代のイスラエル人もやっていたのですから、大切なことを覚えることが努力しなければできないと改めて教えられます。わたしは、霊的には真理の霊である聖霊が信じる者の内側から働き、律法の真髄であるアガペーの愛を教え続けているのだと思います。この愛によって生きるように聖霊は働いておられるのです。そのことを決して忘れないように、天の御父は聖霊を遣わしてくださったのです。(さくま)
10月31日(水)
あなたの神、主が良しとし、正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫もとこしえに幸いを得る。
申命記12:28
クリスチャンは恵まれています。もっとも、試練の中に置かれている人は、そうは思えないかもしれません。それでも、主イエス・キリストを信じる信仰には大きな力があることを私たちは知ることになります。信じる者には、神は生きて働き、奇跡も起こることを体験できます。ただ、異教徒のように、いわゆるご利益信仰であれば、何も期待しない方がいいし、得るものがあったとしても小さな幸いにすぎず、最後には大きな災難が待っているでしょう。さて、本題ですが、これは、とこしえに幸いを得て生きる秘訣を教えています。それは、「主が良しとし、正しいと見なされることを行う」ことなのです。それは、やる気になると頑張って行い、しばらくすればすっかり忘れてしまう、というようなことではありません。もっと、霊的で、信仰によることです。生活する全てを内住する聖霊と相談してやっていくようなものです。神に祈ることが無くなると、主は何か大きな問題を与えます。そうすれば、いやでも神に助けを求めて祈るからです。つまり、祈らせようとされているのです。それは、昔はエルサレムに神殿がありましたが、今は無く、新約聖書によれば、私たちの体こそが神殿なのだと書いてあるように、神は私たちの内に聖なることや神との交わりの場を持たれているのです。聖霊があなたの内に満ち溢れるように祈ります。そすれば、あなたは納得し、聖霊との交わりの中に生きようとするでしょう。これができれば、今日のみ言葉の意味がわかるのです。(佐久間)