2019年6月ディボーション

6月1日(土)

恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

詩編136:1~3

 

東京で教会成長セミナーがあり、出席した時の事でした。有意義な素晴らしい講演が続き、疲れてはいたと思いますが、日本では有名な伝道者が前に出てこられて、日本伝道に情熱を持って当たるように鼓舞してくださった後、「皆さんで、詩編136篇を交読しましょう」と言われ、司会者が上の句を、そして下の句の「慈しみはとこしへに」を会衆が唱えることになりました。その時、「初めは小声で、だんだん声を高めて、最後は最大の声量で主をほめたたえましょう」と言われました。そこには100名ぐらいいたと思いますが。そのほとんどが牧師でした。教派も教団も様々な日本伝道を一心に担っている先生方です。そして、詩編が読まれて行きました。私たちは、ただ「慈しみはとこしえに」と同じ言葉を繰り返すのですが、不思議なことにだんだん神様の慈しみが心に満ちてくるのです。そして、黙示録に出てくる天国の情景のように、周りに万軍の天使たちが一緒にいるように、大音声で「慈しみはとこしへに」と、まさに大滝の轟のように聞こえました。そして、神様が私たちのためにどれだけ、慈しみ深く接しておられるのか、理屈を超えてわかったのです。最後は、ただ深い感動が会場を満たしていました。どの人の顔も笑顔で周りの知らない人たちと手を取り合って喜んでいました。私たちはこの世に生きているので、時々、主の慈しみがとこしへに続くものであることを忘れてしまいます。落ち込むようなことが起こればなおさらです。しかし、詩編記者のように、主の良くしてくださったことを数え上げれば、それが全て主の慈しみであったと認めれば、私たちの感情を超えて主の慈しみに満たされるのです。さて、あなたの上の句は何でしょう。あなたに主はどんな良いことをしてくださったのですか。それらがすべて主の慈しみであることを言葉にしてみましょう。あなたは、主に愛されているのです。慈しみはとこしへに。

 

6月2日(日)

バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。

詩編137:1~4

 

想像できるでしょうか。バビロン捕囚によって遠い異教の国へ連れ去られ、屈辱を味わうイスラエルの民の気持ちを。征服者は、イスラエル人を奴隷のように見下したのです。そして、余興のようにシオンの歌を歌わせようとしました。イスラエル人たちの心には、望郷の思いが募り、川のほとりで涙したのです。異教徒たちに主にための歌をうたえと言われても、それはだんじて歌ってはならないという強烈な思いが沸き起こるのです。教会の中で礼拝の時に賛美歌が歌われるのは、古代のイスラエル人たちと変わりありません。その賛美歌を、異教徒に面白半分に歌えと強いられても、私たちはきっと歌えないでしょう。この賛美歌が聖なる方へ献げられる特別な歌であることを自覚しているからです。イスラエルの民は、たとえひどい目にあっても異教徒たちの楽しみに賛美歌を歌わないと強い意思表示のために、柳の木にダビデハープを掛けました。異教徒たちは自分たちへ反抗していると受け止めたでしょう。その結果、ひどい目に遭ったに違いありません。それでも、彼らは歌えなかったのです。この歌は、主への歌であって、自分たちの神様への信仰告白だったのです。神様はこの様子をちゃんとご覧になっておられました。私たちは、現代に生き、信仰を持ち、神様を礼拝します。少し前の戦争中は、それが大変な困難を強いられ、迫害されたのです。当時のクリスチャンは等しく信仰を試みられました。そのような時期は、長くは続きません。しかし、殉教者も出たことを忘れてはいけません。牧師や長老で投獄され、殉教された方々がいたのです。その一人の牧師の奥様が生き残り、最後まで信仰を全うしました。その奥様の葬儀を私がしました。再臨の日、このご夫妻は、きっと天国で再会するでしょう。勝利の凱旋となるのです。

 

6月3日(月)

主はわたしのために、すべてを成し遂げてくださいます。主よ。あなたの慈しみが、とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。

詩編138:8

 

神様は私たちを救うために今も働いておられます。私たちは自分のことですらよくわかっていない者なのです。自分の可能性は想像以上に大きいのですが、いつの間にか消極的になり、可能性すら見ないようにして生きているかもしれません。クリスチャンは、信仰が与えられ、自分の力ではなく、主にゆだねて神様の御力で道を切り開くことを学びます。それは、相乗効果があっていつの間にか積極的に考えることができるようになります。それを側から見ていると、楽観的と映るのです。社会に出て人々と関われば、いつでも自分とは考えの違う人たちに出会います。自分の目的が明確であれば、それを周りの人たちに理解させればいいのですが、人間は自己中心なので、なかなか人の意見を聞くことができないのです。それに、変化を好まないので、相手に何かさせようとすれば、嫌がれら、反対されます。このようなことは、日常茶飯事で、その中で色々学びます。そして、自分を守るために、心の壁を作っていくことになります。この心の壁が有る限り、心からの楽しみは望めません。それで、壁の高さを低くすれば、途端に壁を超えて入ってこようとする人が現れるので、パニックになるのです。人間の厄介さがわかります。しかし、そのような人間がどうやって自由になり、解放されたと言えるのでしょう。主の救いは完全で、そのような人間のことを対象にしているので、自分の外に方法があります。それは、聖霊による覚醒です。イエス・キリストのことがわかるようになるので、自分を守る必要がなくなります。何をさらけ出しても怖くないのです。そこで、キリスト教書籍を見てみるとわかるのですが、そのように解放された人は、自分の住所を明らかにしているのです。誰が来ても平気なのです。それどころか来た人にイエス・キリストの福音を何としても伝えたいのです。自分の力で伝道しようとも思っていないのです。自分に神様が何をされたのかをただ教えたいのです。「主はわたしのために、すべてを成し遂げてくださいます」。このように理解し、納得できるので、自分を隠す必要がないのです。宗教論争をすることもないし、神学論争することもありません。それは、自分を救う力ではなかったからです。自分を救えたのは、三位一体の神様だけだったのです。これほどの奇跡があるのですから、何を心配する必要があると言うのでしょう。聖霊を熱心に求めましょう。 

 

6月4日(火)

神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。ご覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを、とこしえの道に導いてください。

詩編139:23、24

 

罪人の救いを考えてみると、イエスの言葉を借りれば、「悔い改めて福音を信ぜよ」でした。福音は、罪人の義となる無力さを、神が力づくで義とすることを内容としています。さらに聖書から学べば、十字架の贖いの意味を理解し、実際に清めと復活の命をいただいて、神の支配に服することになります。それは、聖化と呼ばれるようなキリストに似た者へ変えられて行く過程として理解されています。そこで、私たちは、信仰の道を極めようとしていますが簡単ではありません。古い人間がよみがえってくるので、成長を実感できません。それどころか、失敗して罪を犯したり、信仰が薄れてしまったり、この世の面白さに心が奪われたりします。これらの背後にはサタンがいます。そのために、信仰が失われてしまいそうになるのです。私たちの救いで私たちに神が求めているのは信仰だけです。その信仰が、油断していれば悪魔にまんまとやられてしまうのです。そこで、滅びる危険があるのに、クリスチャンは意外と無頓着なのです。それは、信仰の道が本当に信じる道だから、ちゅと半端な信じ方ではうまくいかないのです。こう言うと、律法学者のように行いによる義に走る人がいますが、それは最悪の道です。走っても走ってもゴールできない方法だからです。私たちがこれほど、信仰の道をうまく進めないのは、福音を正しく理解していないせいだと思います。そこで、まず、イエス・キリストを知ることを第一の課題とすることは意義があります。安全な方法としては、聖書からイエス・キリストを学ぶことです。そのためには、祈りが重要になります。聖書がただの本ではないからです。イエスの「言葉は、霊であり命である」(ヨハネ6:63)。そのために、真理の御霊が来たら分かると教えています(ヨハネ14:26参照)。この聖霊があなたを助け導きます。あなたの祈りは、今日の御言葉の通りに祈ればいいのです。悪霊は、あなたを支配しようとして思いや思考に働きかけてきます。それで、イエスから引き離されてしまうのですが、そうならないように聖書の御言葉を使ってそのまま祈る方法が効果があるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:16~18)。このように聖書に書いてあれば、クリスチャンなら守ると思うのですが、実際には簡単に忘れてしまうのです。しかし、これほど簡単で効果があるものを他に知りません。いつも幸福に生きたいなら、これだけでも毎日意識して実行しましょう。それだけも、生活は良くなって行きます。

 

6月5日(水)

主よ、さいなむ者からわたしを助け出し、不法の者から救い出してください。

詩編140:2

 

クリスチャンなら誠実に生きたいと思うでしょう。しかし、現実は意外と難しいものです。まず、いろいろな人が自分と関わってくるのです。その多くは、クリスチャンでもありません。ですから、戸惑うようなことが起こってしまいます。感情を傷つけられることもあるでしょうし、悪口を言いふらされて困ってしまうことだってあるかもしれません。しかし、本当に困るのは、さいなむ者です。言葉や態度で精神的に責めたり苦しめるのです。さらに厄介なのは、不法の者です。あなたを平気で破滅させようとします。そのような人たちから目をつけられれば厄介です。神様の助けなしには自力での解決が望めません。そこで、私たちはこのような非常事態には、苦しみながら神様に嘆願することになるのです。できれば、このような目に遭わずに済むように、常日頃から信心深く生活することが肝心です。ただ、交通事故に遭う確率のように、非常に少なくても災いが襲ってくることもあるでしょう。その時にこそ、信仰を発揮すべき時なのです。神様の奇跡を体験できるチャンスだからです。聖書を学んでわかることは、人は恐れるものではありません。特に、あなたには神様が付いていてくださいますから、あなたは大丈夫です。そこで、人間関係で初めから恐れることは愚かなことなのです。アメリカでは、道をすれ違う見知らぬ人から声をかけられたり、笑顔を向けてくれることが多いのです。日本では、知らない人には、素知らぬ顔をして挨拶しない人が多くいます。相手が先に挨拶すれば、挨拶を返す人は少なくないのですが、自分から声をかけることは恥ずかしいからか、まずしないのです。アメリカから帰ってきた頃は、知らない人にも「こんちは」とか「おはようございます」と声をかけていましたが、日本に慣れるとそれもいつの間にかやめてしまいます。残念な気がします。皆んなが笑顔を向け合えば、不幸なことは消えて行くように思います。主の助けがいつでもあなたを守りますように。

 

6月6日(木)

主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって、悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。

詩編141:3、4

 

どんな人も、言葉に気をつけなければなりません。心が弱いと、悪い言葉がいくらでも口から出てきます。まして、信仰を持っている人でも祈りによらなければ、悪の誘惑に負ける危険がいつでもあります。儲け話や、誰かを悪く言うことも、不法なのにそれを許容してしまう強い誘惑など、私たちは自分の理性や力を信じていても簡単に負けてしまうことがあるのです。そうしたことと直面しない限り、人間は真剣に悪の問題を考えない傾向があります。自分は大丈夫と思っているなら、大間違いです。主の祈りの中にも、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りがあります。これが、自分にとって重要な祈りであることに気が付いている人は少ないかもしれません。こうした暗記する祈りは、お経のように、早口になって一気に言い切ってしまおうとするから、後半に出てくる祈りの内容は、頭を素通りするのです。教会小学校がある教会の礼拝に出席する児童たちは、礼拝の中で主の祈りが始まると、初めはゆっくり、そしてだんだんスピードが速くなって、最後は新幹線並みになるのです。それを一年生から六年生までが大声で唱和するのですから、壮観ですが、いつも蒸気機関車が出発するときのようだと感じていました。しかし、マタイによれば、「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」との祈りの言葉は、毎日祈るべき言葉なのです。この祈りを主は聞かれるからです。友達や付き合う人も選ばなければなりません。つまり、悪人とは付き合ってはいけません。だからこそ、この御言葉はそのような悪人との関係を切れない人の祈りなのです。誘惑されても自分は大丈夫と思うことは危険です。ゆめゆめ油断してはいけません。主のお守りがありますように。

 

6月7日(金)

声をあげ、主に向かって叫び、声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。御前にわたしの悩みを注ぎ出し、御前に苦しみを訴えよう。

詩編142:2、3

 

さて、悩みは向こうからやって来ます。避けることはできません。悩まないで、平気な顔をしていられればいいのですが、そうはいきません。サウル王が心を病んで疑心暗鬼になり、嫉妬からダビデが自分に変わって王となると妄想が始まると、正常ではいられなくなりました。サウル王の心は闇に覆われ、ただダビデを殺すことだけにとらわれてしまいました。自分には非がないのに命を狙われ、逃亡生活をおくらざるを得ないダビデは、サウル王のために命がけで戦い、多くの手柄を立ててきたのです。それなのに、突然命を狙われることに恐れ悩むのです。このように、悩みは自分に非がなくても起こりますし、一生懸命に正しいことをしても起こるのです。人間として能力の高い人ほど、悩みは多くその対処に時間を割くことになります。自分が悪いことをしていないとつい無防備になり、自分の言動や態度に気を配らなくなります。それが、誰かにとっては我慢がならないことであるかもしれないのに、自分には悪意がないからと周りの人の気持ちを配慮しないことがあるのです。それが自分に跳ね返ってくるまでは気が付きません。ダビデは、神様に忠義を立てることにこだわります。だから、神様がサウルに聖霊を注いで王としたことから、命を狙う敵になっても、その命を奪うことができる好機が来た時も、決して殺そうとしませんでした。その点では、ブレない人だったのです。それが、ダビデが後に王となることができた理由です。私たちもブレずに生きたいのですが、それはかなりの覚悟がいります。そして、神様の御前にいつも正しく生きようとする決意が必要です。人は、すぐに誤解し、その人の心を反映させて他人も同じ心だと思い込むのです。自分よりも高潔な心を持っている人や、深く自分のことを考えて好意的に配慮してくれるような人のことが理解できないかもしれないのです。だから、私たちは心を鍛え、高潔な心を持つ人に成長したいのです。それは、悩みの対処でもできることです。ダビデは、今日の御言葉のようにしました。もちろん、悩みの時には誰でも主に祈るでしょうが、「声をあげ」というほどには祈っていないのではないでしょうか。「叫ぶ」のです。「御前にわたしの悩みを注ぎ出」すのです。このようにしているときに、他の考えにとらわれてしまうことはないのです。どうしても、主に助けを求める時には、自分の心の悩みを全部吐き出すのです。他のことを考えてしまうような時には、叫んでいないということです。声をあげて祈るのです。主に苦しみを訴えるのです。ダビデは、このような祈りを通して、自分の弱さを克服し、主を知り、最終的には勝利したのです。あなたの悩みもあなたの益となるように解決していただけます。

 

6月8日(土)

御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。

詩編143:10

 

私たちは時々自分勝手にこうすべきだとか、これが正しいと決めつけてしまっていることがありますが、実際には知らないことが多くあるのです。その中の極め付けが神様の御旨です。自分の思い込みで意外と失敗していることがあります。今日の聖句もそのことを教えています。「御旨を行うすべを教えてください」と祈ればいいのです。つまり、勝手に自分で考えてこれが主の御旨だと思っていても間違うことがあるのです。そうではなくて、はじめから「どうすれば主の御旨を行えますか、教えてください」と祈るべきなのです。できないことを主は求めていないからです。主が求めることは難しくありません。何しろ、弱い私が失敗しながらなんとか信仰を守っているのですから、主の助け無しにはうまくいかないのです。主は驚くほど恵み深いのです。そのために、天に帰っても父にお願いして別の助け主である聖霊を送ってくださると約束されました。その聖霊が助けてくださいます。決して立派な信仰者とは言えなくても、この聖霊があなたを安らかな地へ導いてくださるのです。あなたの主はあなたの手を離さないでいてくださいますから、安心して主に任せていましょう。

 

6月9日(日)

主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る影。

詩編144:3、4

 

どんな人も完璧であることはありません。何かに長けているかもしれませんが、全てに秀でているということはありません。自分は劣っていると言う人にも良い所はたくさんあるものです。ただ、試していないだけです。神様は人間を創造する時に、ご自分に似せて造られたと聖書が教えています。ですから、私たちの土台は神様に似ているのです。それだから、どんな人も素晴らしいと言えます。罪が入り込んでから、人間は苦労することになりましたし、死ぬものと定められました。どんなに愛して大切な人でも、死を免れることはできません。人は歳をとったからといっても、死ぬことは恐ろしく、悲しいことです。まして、病気や事故などで突然、若くして逝ってしまう人もいるのです。人間は人を愛することを知っているので、死による別離は耐え難い苦しみです。そのようなはかなさを思って、詩編記者は「人間は息にも似たもの」と書きました。人が死ねば、時間と共に全てが忘れ去られます。「彼の日々は消え去る影」と書かれている通りです。そのような人間をなぜ神様は特別大切に扱われるのでしょう。私たちが人間的に自分のことを神様に何でも話すことが許されているのも、私たちが主の恵みを味わい喜ぶことを期待されているのも、そして、イエス様のようになることを目標に信仰の道を歩めるのも、みな神様の恩ちょうなのです。では、なぜ、私たち人間に神様はそのようになさるのでしょう。主の恵み深さと憐れみ深さに接した人は、きっとそう思うでしょう。だから、今、あなたがどのような状況でも、心配することはありません。主の愛が無条件であなたに与えられているのですから、あなたは大丈夫です。勇気を出してください。信じることは奇跡を生み出します。主を信じましょう。あなたは愛されているのですから、心楽しく生きていけます。過去に縛られる必要はありません。考え過ぎるよりは、主を子供のように信じましょう。

 

6月10日(月)

主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます。

詩編145:14

 

私たちは歳を重ねるごとに、だんだん強くなっていると思っていますが、実際には、どんな人でも倒れそうになったり、すっかりうずくまって動けなくなることがあります。実際に、病気になったり、仕事がうまくいかなくなったり、お金に困ったり、人間関係でつまずいたり、別離があって立ち直れなくなったり、と悲しい経験があるものです。しかし、そのな暗い時でも主はあなたを支え、助け起こしてくださいます。その上、信仰は強くなります。イエス様を友とするなら、孤独に感じることもありません。聖霊はいつでも人生を共に歩んでくださり、信頼できる相棒です。天の父は人間が想像するより遥かに偉大です。その天の父が、あなたを愛しているのです。天の父は、この地上で満たされることのなかった愛情を日毎に新しく満たしてくださいます。人生最悪の日と思える時ですら、あなたは強力な助け手がいて、人間も悪魔も打ち倒して、あなたを助けてくださいます。だから、あなたは考え方を新たにして、自分がイエス様を信じて救われたことがどれほど素晴らしいことか、自覚を新たにして欲しいのです。あなたの心に起こる願いは主が満足させてくださいます。天からの恵みを祈りのうちにいただきましょう。友達や家族を助けたいと思うなら、そのことも祈りで解決しましょう。知恵のない人は、聖書を読んで知恵を探しましょう。毎日、良いことを考え、いつも喜びましょう。すべてのことに感謝し、いつでも聖霊に話しかけ、主の御心にかなう幸福な人生を歩んでください。

 

6月11日(火)

君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

詩編146:3

 

世の権力者に人は助けを求めるが、残念なことにその願いはかなわない。私が神様からそのレッスンを受けた時、私は窮地に陥っていた。人生が破滅するかと思うような状態で、神様にすがっていたが、それと同時にこの世の力ある人に頼ろうとした。彼は、父の友人で喜んで助けると言ってくれたが、彼の力がおよばなかった。結局、彼は問題を解決することはできなかった。弁護士も役に立たなかった。それどころか、敵に寝返ってしまった。八方塞がりになり、「人間には救う力はない」と、ようやく悟った。そして、神様の元に帰ってきた。神様は奇跡を連発した。その度に、ありえないことをされた神様にどれほど、驚き、感謝したかしれない。おそらく、人生で一番喜んだと思う。「飛び上がって喜ぶ」という言い方があるが、あれは本当だった。そして、今日の御言葉を学ぶことになった。この真理を受け入れるなら、あなたの人生は万全の備えができたことになる。少なくとも、権力を持っている悪いやつに媚びることはなくなる。誰も、恐れなくなるだろう。何しろ自分の神様以上の力ある者はこの世界には存在しないのだから。そして、神様はいつだって信じるあなたの味方なのだ。このようにあなたは特別な存在であることを覚えて感謝しよう。今日も良いでありますように。

 

6月12日(水)

主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。

詩編147:10、11

 

5月になると学校行事として運動会が各地で行われました。運動会が大好きな子もいれば、憂鬱になり運動会がなければいいのにと思う子もいます。私の長女は徒競走でいつも一等賞なのに、次女はほとんどビリなのです。これは姉妹の間では大きな問題です。これで人間の優劣が決まるわけはないのですが、こと運動に関しては得意な子と不得意な子は分かりやすいので人から評価されやすいのです。しかし、次女はどこに行ってもすぐに友達を作るのが上手です。私が転勤族だったので、小学校の時に3回も転校することになりましたが、誰とでもすぐに仲良くなれるのです。それは今も変わっていません。それで、フィリッピン人や中国人、ベトナム人と外国人ともすぐにお友達になってしまいます。人それぞれですね。神様は、人間的にすごいと言われる人を良しとしているのではないのです。足が早ければ天国へ入れてやろうというのでもないです。人間的基準では見ていないということですね。それよりも、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人を望まれるのです。私は〇〇が苦手だとか、私はすぐに自分を責めてしまうからダメだ、とか自分に対して厳しくなりがちですが、神様は正反対です。神様はすでに私たちを受容してくださっているのです。私たちは、自分とうまく付き合っていかなければならないので、少しは大変ですが、成長できるし、変わることもできます。神様は、あなたを受けれいているので、それをダメと決めつけてはいけません。問題は、自分の基準が厳しすぎる場合が多いので、少しだけ基準を下げることが肝心です。基準がゆるゆるの人は、逆に少し基準をあげてみるといいのです。足が速いかどうかは、社会人になれば関係がありません。そんなことで悩んでいたことがバカバカしくなります。同じように、つまらないことで悩んでいることは多くあるものです。信仰を持っているのなら、むしろ今日の聖句にある、「主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」この二つに気を配るべきです。これは能力に関係なく誰でもできることです。

 

6月13日(木)

主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。

詩編148:5

 

私たちは被造物です。科学が進歩し、多くの知識が与えられました。ところが、それで人間は、被造物であることを忘れてしまったのでしょうか。人間も発明し、様々なものを作りますがそれが人間のようであることはありません。つまり、命を造れないのです。無人電車が事故を起こした時に、人間だったら絶対に起こさない単純な事故であったことにショックを受けた人は少なくありません。今や世の流れはAI の時代になろうとしていますが、うまくいくのか心配の方が大きいのです。人間やこの世界の全てを創造された神様とは全く違います。私たちは自然の美しさを必要としていますし、綺麗な水も空気も光も生存できる適温も必要です。人間がどんなに美しい家を建てることができても、経年劣化から守ることができないのです。神様の創造の完璧なことは科学が証明しています。それでも、自然のほんのわずかしか科学者は分かっていないのです。もっと科学が進めば、彼らが出会うのは創造主です。完璧な地球を創造されたから、地球は存在し、創造された方がおられるのです。少なくとも人間以上の存在です。しかも聖書によれば、創造主は、ただ命令しただけなのです。言葉で創造されたのです。それがどれほど途方も無いことか理解できる人は幸いです。私たちは神様の存在を信じたので、神様が理解できるようになってきました。そして、「神は愛なり」という真理を被造物の中にも見つけることができるのです。あなたが神様を信じて分かったことは、はじめに神様があなたを愛した、という真理です。そのことがわかったので、あなたは神様を賛美するのです。賛美すればするほど、神様の御臨在が濃厚に感じられるのです。あなたの喜びが賛美することから満ちてくるのです。私たちの合言葉は「主の御名を賛美せよ」であることを確かめることも喜びです。

 

6月14日(金)

主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み、伏していても喜びの声をあげる。

詩編149:4

人間の基本的な問題に自尊心についての正しい理解があります。自己中心的な人は自尊心が低いということが臨床心理学の研究でわかりました。一般には自尊心が高いので自己中心なのだと思われがちですが、実際は逆だったわけです。人間関係がうまくいかない人や他人に対して批判的な人は、自尊心が欠けているか低い傾向があるのです。自分を好きになるといいのですが、自分に寛容になれずにダメ出しを繰り返すので、他人に対しても批判的になりやすいのです。では、自尊心をどうやって満たせばいいのでしょう。クリスチャンはその点で恵まれていて、今日の聖句の通りにすればいいのです。つまり、「主の慈しみに生きる」ことです。主は無条件であなたの自尊心を満たしてくださいます。心理学者は、自尊心を満たしたいという欲求は空腹を満たしたいという欲求と同じぐらい自然なことだと指摘します。あなたは食事を何日食べなくても平気ですか。忙しくて食事を一回抜いただけでも、機嫌が悪くなりませんか。空腹を癒す方法は食べることだけです。同じように自尊心も満たされる必要があるのです。クリスチャンなので自分を捨てなければならないと思っているのにうまくできない、と嘆く人は、自尊心が満たされていない可能性があります。自尊心が満たされた人は、自分のことを忘れて他人の必要に心が向くからです。あなたがまずできることは、あなたを認めることです。できたら、あなた自身を褒めてみましょう。そして、イエス様が命を投げ出すほどあなたに価値があることを声に出して認めましょう。主はあなたに優しいはずです。あなたを尊重して自由を与えてくださっているはずです。あなたは、信仰があるので、いつでも喜んでいることが可能です。あなたは人生を好転させることが主によって可能なのです。あなたの自尊心を満足させてくれる人も大切にしましょう。

 

6月15日(土)

息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ。

詩編150:6

 

今日の聖句は、詩編の最後の御言葉です。交読文として読まれることの多い詩編です。上の句を司会者が読み、下の句を会衆が唱えます。「神を賛美せよ」と。この詩編を読めばわかることですが、古代の礼拝は楽器も使われて、角笛、琴、竪琴、太鼓、笛、シンバル、と多様な楽器の名前が出てきます。しかも、音楽に合わせて踊っていたのです。伝統的な礼拝を静かに行なっている教会では、きっと怒られてしまうでしょう。メシアニック・ジューの人たちと礼拝すると、旗を振ったり、踊り出します。しかも、会衆を巻き込んで座っている人たちにも一緒に踊ろうと誘います。それは楽しいものですが、キリスト教会には馴染みのないものです。やはり、ユダヤ人の方が旧約聖書時代の礼拝を理解しているのかもしれません。文化や民族性など多様性を認めないと現代のようなグローバル化した世界ではやっていけなくなってきました。フィリッピンにいた時には、日曜日の朝のテレビ番組はカトリック教会の礼拝が目につきました。ごく普通の教会の礼拝がテレビ放送されているのです。アメリカの日曜日も同じようにキリスト教の礼拝がテレビで見ることができます。ほとんどが現代的な礼拝形式でしたが、伝統的な礼拝も一つありました。テレビで放映する教会はどこも有名な大教会です。礼拝に出かけないで、家でソファーに座って礼拝をテレビで見ているという人たちも多くいるわけです。私は、以前とは随分考え方が変わってきました。神様を礼拝することがどういうことか理解が深まったのかもしれません。イエス様に救われてからの死ぬまでの人生はおまけのようなものなのです。相変わらず古い人の残りカスのようなものが付いて回りますが、それは過去の記憶のようなものです。だから、だんだん薄れていきます。そしてついには、天に召された時に完全に消え去るのでしょう。とにかく、イエス様が私を救うために、十字架で死なれ、その死で私の死を踏み潰したのです。こうして私たちの内の死を破壊し、取り除いて、主の復活の命を私たちの内に注ぎ込んでくださったのです。私たちの内にあった汚れはイエス様の血潮で清められました。だから、私たちは主と共に生き、天国を目指した巡礼者のような者なのです。いつこの命が天に召されても喜びであり、感謝なのです。「息あるものはこぞって、主を賛美せよ。」 そうです。ハレルヤ。

 

6月16日(日)

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

箴言1:7

 

神様を信じるということは、神様を畏れることです。神様を畏れるということは、神様に服従することなのです。ただし、服従する時に恐怖からではなく、神様の愛ゆえに従順に従うのです。年を取って来ると、若い人たちが無鉄砲だったり、思慮に欠けることが目につき、ハラハラしたりします。確かに、昔は自分も無知であったことを認めないわけにはいきません。高校生の頃には当時学生運動がまだ盛んで、部活にも社会科研究会、通称「社研」というのが学生運動の拠点でした。その頃はまるでファッションのように、マルクスの「共産党宣言」や赤い表紙の「毛沢東語録」を持ち歩いている学生も少なくなかったのです。社会科の授業でもそうした本の紹介が出て来るので、読む人たちもいました。実際には、その頃は無知だったので、意味は通り一遍の知識にすぎませんでした。しかし問題なのは、「神はいない。神を信じない」と息巻いていたことです。それから大人になって、大学で労働法の勉強をした時、先生に恵まれようやく色々な意味がわかってきました。搾取する者と搾取される者の戦い。今だって変わりありません。給料で家族を養える人とそうでない人。ただ生きているだけでは生活できない。憲法の保障があるので、生活保護がある。それを不正にもらう人もいれば、もらうべき人が受給できていない。こうした人間の悲劇や矛盾をマルクスは学んで、解決しようとしたけれど、結局イエス・キリスト抜きでは解決できなかったのです。人間の罪の問題を解決しなければ、結局何も解決できないのです。人間関係で悩む人は多いのですが、相手に認めれられたい欲求からやってはいけないことをしてしまうのが人間なのです。それで、認められないと悩むわけです。それはまるで「みんな私を愛して。なんで愛してくれないの」と叫んでいるようです。実は、愛して欲しければ、まず自分から愛することが肝心なのです。それがうまくできない人は、初めに神が愛してくれたことを認めるところから始めなければなりません。それが今日の聖句です。

 

6月17日(月)

知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えて、裁きの道を守り、主の慈しみに生きる人の道をも見守ってくださる。

箴言2:6~8

 

あなたは誰かに見守っていただいているでしょうか。聖書にははっきり、見守ってくださる方のことが書かれています。私たちは、誰かに期待され、どんな時にも信頼され、困った時には助言をいただき、その道を見守ってくださる方を知っているのです。そうです、あなたの救い主です。あなたが生きたクリスチャンであるなら、今日の聖句の通りに期待できるのです。あなたは、時々自分が誰からも評価されていないのではないかと不安になるかもしれません。しかし、そんなことはありません。イエス様はいつでもあなたを高く評価してくださるのです。それで、あなたが進む道で困難が待ち構えていれば、それを越えていける知恵と知識を与えてくださいます。それは、あなたに信仰があるからです。あなたは御言葉を学び、それを心に留めて正しく生き始めます。それは、思わぬ副産物があって、上よりの力を受けることができるのです。それは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)と書かれていることが実際に起こるからです。ですから、あなたは心がワクワクするほどの素晴らしい人生を歩めます。あなたの手にすることはことごとく祝福されます。どんな仕事でも、あなたは特別なので、周りの人たちが驚くほど祝福されます。そこで、高慢になるのではなく、周りの人たちにその恵みを分かち合うことです。人に親切にすることであなたはもっと祝福されます。出会う人たちを認めて良いところを素直に褒めてあげましょう。相手に関心を持って、好意的に話を聞きます。すると相手から、思いも掛けない好意をもらうでしょう。そこで、相手のことが好きになりますから、相手もあなたを好きになります。人間関係が良くなれば人生は実に楽しいのです。これらのことは、心から行うことが必要ですが、聖霊があなたを助けてくださいます。

 

6月18日(火)

心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

箴言3:5、6

 

「できる限り主を信頼し、あなた自身の悟りにたよるな」(5節、New English V.) 。これは、別訳ですがどうでしょう。翻訳を変えてみると分かりにくいと感じていた箇所がスッキリすることがあります。「できる限り」と「心を尽くして」では随分違う感じがします。どちらがよりしっくりくるかは個人差があります。しかし、こうして訳の違いを比べられると何を言わんとしているのかわかってくると思います。ここに書かれているのは、あなたが信仰を守って幸せに暮らしていく秘訣です。頭の良い人でも時々ありえない失敗をするものですが、それは、「自分の分別」に頼っているからです。主に信頼することがどのようなことか、安易に考えてはいけないのです。6節も別訳で見てみましょう。「あなたのすべての道で主のことを考えよ。そうすれば彼はあなたの道を滑らかにする」この御言葉を実践していけば、すぐにわかることは「主に従う」と言いながら、いかに自分勝手に考え、行動しているか、ということです。イエス様が「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたことは絶対なのです。そこで、自分を捨てるというのは、すべての道で自分のことを考えるのをやめて、主のことを考えることです。自分のことを考えると主のことが考えられないからです。主が自分にどんなに良くして下さるか理解できるようになると、自然とそうなるでしょう。それまでは、何度も失敗し、結局、主に心を向けることができなければ安心できないことを悟るでしょう。主を信頼し、すべて任せると、良い結果に導かれます。それは感動するほどなのです。人生はいたずらに苦労する必要はありません。それよりは、問題のない人生を祝福されて進む方が良いのです。成功の法則が簡単に書かれているのなら、それに従うことが賢明です。

 

6月19日(水)

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

箴言4:23

 

テレビで「忠臣蔵の恋」という番組をやっていて、少し見たが何かモヤモヤが残った。今までにも「忠臣蔵」は何度も見たことがあるが、今回は忠義と言ってもなぜかしっくりこない。主君の仇討のために人生を犠牲にして義を立てる侍たちは、多くの人々に感動を与えてきた。しかし、今回、その感動は無かった。この番組が云々ということではないのだろうが、現代がすっかり変わってしまい。人々の価値観の多様化は凄まじいものがある。だから、主君のために何としても仇討ちするというような極端な生き方には共感できない人たちが大勢出てくることになる。もっとも、江戸時代から昭和にかけての時代なら、社会が一つの価値観でまとまることができたから、忠臣蔵は年末恒例の国民的演目として成立していた。しかし、インターネットが起こした地球規模の変革がとめどなく押し寄せてくると、忠臣蔵が理解できない人たちが大勢いることに気がつく。人間が大義のために命を落とすことが賞賛される時代もあったが、今は理解されないかもしれない。異なった価値観が、あるいは真理が無数にあることを知ったのだ。そのように情報化社会の姿がようやく人々の目に見えてきたのだ。それこそ、弱者を騙して詐欺を働くことが社会問題になって、その犯人たちが警察に捕まると、その若者たちが借金苦から犯罪に手を染めたことが明らかになったりすると、複雑な気持ちになる。それに大学の友達がアルバイトとして誘われて、お金目当てで詐欺を働き、老人たちの老後を奪ってしまうことの重大さに気づけない。償いきれない犯罪を犯す意識が低い。人間が正しく生きることはそうたやすくない。情報化社会では、偽情報や悪意ある情報から正しい情報を見分けなければならない。そのような時代にも、今日の聖句は大きな意味を持つ。人間の価値は何か、忠義に尽くす侍の姿が、本来は尊く感動するはずなのに、今回はそうは見えなかった。現代の会社が社員を守らず、非正規社員も次々に生み出し、ブラック企業という言葉が身近に存在する。そんな社会では、愛社精神を持ちにくいし、会社に忠義を尽くすことがとうに風化してしまった。そして、転職が普通になってきた。だから、どう考えればいいのか戸惑い、人生をかけられるものがわからくなってしまった。さて、クリスチャンは、自分の心を守ることを第一に考える人だ。それは、いまだに信頼できる主がおられるからだ。主に忠義を尽くすことは信仰者にとって憧れだし、誇りなのだ。そして、主は私たち以上に私たちのことを慈しんで最善を尽くしてくださるのだ。その主への忠義こそ、心を守ることにつながる。信仰は、心を守る力なのだ。決して裏切ることのない、忠実な主君であるイエス・キリストに心して仕えて生きたいものだ。

 

6月20日(木)

人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。

箴言5:21

 

子供は親に「見て見て!」とよく言います。それは自尊心を満足するための行為です。しかし、親は忙しく、子供の度々繰り返す「見て見て」にうんざりして、それに応えることをやめます。すると、子供はスプーンを落としたり、ジュースをわざとこぼしたりします。このように子供時代に自尊心を満たすことは重要なことなのです。同じように神の子であるクリスチャンは、「神様、見て見て」と言っているでしょうか。本来、クリスチャンの自尊心は父なる神様に認められることで満たされるはずです。しかし、あんなに親に「見て見て」と言っていた子供が成長して大人になるにつれ、言わなくなります。本当は、褒められたいのですが、大人になるとハードルが非常に高くなったように感じるのです。そこで、何かの競技で優勝するとか、大学を優等で卒業するとか、皆んなからすごいと感心されるようなことでもなければ、見てと言えないのです。そうなると、評価する親からは離れて自由に生きたいと感じるでしょう。では、クリスチャンの場合はどうでしょう。やはり、罪を犯していないか、律法をちゃんと守っているか、礼拝をしているか、祈っているか、等々、絶えず評価されていると考える人は、自然と神様から離れて生きようとするかもしれません。また、神様が絶えず見張っていると考える人は、緊張感から神様から逃げ出したいと感じているかもしれません。確かに、神様は人間を注目しているでしょうが、いつでも裁くために見ているのではないのです。羊が迷子にならないように、危険な目にあわないようにと心を配る羊飼いのように、見守っているのです。あなたは、救われて、新しく生まれた神の子ですから、父なる神様に見てもらいたい、と思うべきです。それは、寛容で慈愛に富んだ父なる神様があなたを豊かに祝福しようとされているからです。そして、あなたにはいつでも喜んでいて欲しいのです。悪魔がこの世の支配者であると豪語するような危険な世界に住んでいるのですから、主があなたを見守ることはありがたいことなのです。そして、危険な暗闇へ続く横道へそれることを防止するにはこれ以上の方法がありません。主に見守られて、あなたの聖なる自尊心は大いに満足できます。ですから、「主に見られていることは感謝だ」と心から思ってみましょう。きっと、生活が良くなっていくはずです。

 

 

6月21日(金)

主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある。驕り高ぶる目、うそをつく舌、罪もない人の血を流す手、悪だくみを耕す心、悪事へと急いで走る足、欺いて発言する者、うそをつく証人、兄弟の間にいさかいを起こさせる者。

箴言6:16~19

 

主の憎まれるもの、心からいとわれるものリストです。つまり、これは絶対ダメというリストです。クリスチャンは大丈夫だと思いますが、念のために、胸に手をあててリストを一つずつ点検してみましょう。黙っているか、口で謙遜を装っていても、目は隠すことができません。心の窓というのは本当です。私が信仰相談を受ける時は、相手の目を見ることが多いのです。それは、心を読んで裁こうとしているからではありません。その人も自覚していない心の声を聞こうとしているのです。主は、神様なのでもっと心を知るでしょうが、どんなに隠そうとしても驕り高ぶる目は隠すことができませんし、悪魔の目に似ているのでしょう。うそをつく舌は、厄介です。私たちの心の弱さなのでしょうが、うそは悪意がなくても平気で口から出てくる人がいます。相手を傷つけないようにとつくうそだってあります。癌になった人に告知すれば、病気と闘う気力を奪ってしまうとわかっている時には、「胃潰瘍だ」とかうそをつくことがあります。それらが問題になることはおそらくありません。問題は悪意が潜んでいるかどうかなのです。このリストは、誰の心にも起こり得るものばかりです。ただ、私たちは恵まれていて、このような人を傷つけ、自分自身を汚していくようなものが発生していないだけで、境遇次第ではどうなるかわかりません。主の祈りで、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」との言葉があるのは、主の憎まれるもの、心からいとわれるものリストが起これば、確実に裁かれるものだからです。罪がよくわからないという人は、このリストが罪なので、深く考えてみる必要があります。私たちは、主に救われたので、罪からも解放されています。それなので、この恐ろしいリストが自分の身に起こらないように注意し、聖霊の守りと助けがあるように祈る必要があります。心がいつでも喜んでいれば、闇に飲み込まれることはありません。すべてのことに心から感謝していれば、悪が入り込む余地がなくなります。絶えず祈っていれば、悪魔の誘惑から守られます。NHKのチコちゃんに叱られるじゃありませんが、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と自分を戒めたいですね。

 

6月22日(土)

戒めを守って、命を得よ。わたしの教え瞳のように守れ。それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。知恵に「あなたはわたしの姉妹」と言い、分別に「わたしの友」と呼びかけよ。

箴言7:2~4

 

あなたは自分への戒めを持っているだろうか。賢明な人は知恵として大事な戒めを持っているものだ。それは近頃話題になっていることに似ている。ニュース番組などで高齢者ドライバーの交通事故から運転免許返納が話題になっているが、実際に田舎では車がなければ生活ができない人たちが大勢いることがわかっている。そこで、緊急ブレーキなどの安全措置の付いている車が脚光を浴びている。この安全装置が今日の「戒め」に当たるというわけだ。心に緩みがあって誘惑に負けそうな時に、戒めが心の中にあれば、緊急ブレーキがかかって大事故から自分を守ってくれるという働きをする。これほど命に関わる重大なことなので、「知恵」とか「分別」と言っている。聖書も、「戒めを守って、命を得よ」と明確に書き記している。本を読むように聖書を読んで戒めとはこのようなことか、ただ読んだだけでは、自分を守るものにはなり得ないので、「指に結び」とか「心の中の板に書き記せ」と特別な言い方をしている。それは、誘惑に負けて取り返しのつかないことになったという前に、必ず自分を抑制する抑止力がなければ意味がないのだ。特に、若い時には、知恵も分別も弱いので危険極まりない。そこで、彼らこそ、戒めを聞き、心に納めるべき人たちなのだ。ただ、そのような戒めを聞いたことのない人は、今チャンスが巡ってきたと思って、命を守っていただきたい。

 

6月23日(日)

わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

箴言8:17

 

この「わたしは」は「知恵」のことです。「知恵」は先に「恋人」あるいは「花嫁」として表現されています。「知恵」は聞こうとする者に答え、教訓や英知を授けてくれる婦人として描かれています。問題は、「知恵」は求めなければ得られないということです。この「知恵」は神が初めに生み出されていたのです。創造もこの知恵が必要だったのです。「知恵」は神の属性の一部になっていて、いかに重要であるかがわかります。さらに、新約聖書では、キリストは「神の知恵」であると語られ、コロサイ1:15~17には、キリストが箴言8:22以降の知恵の表現に重なり、知恵の用語に由来した言葉がキリストの地位と機能を説明している箇所に部分的に使われていることに気がつきます。つまり、「知恵」の先在は、「キリスト」の先在とも、父なる神との関係を含めて重なって見えてくるのです。ヨハネの福音書では、「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(2、3節)と書かれたましたが、ヨハネの中にこの箴言の箇所があったことは想像できます。このように見てくると、キリストを信じること、そしてキリストを求めること、さらにキリストを知ることがクリスチャンに必要であるとする時、「知恵」がそこには存在するのです。ただ、この世の知恵とは違い、救いと命をもたらす知恵であることがわかってくるはずです。ですから、「知恵」がどうしても必要なのです。その「知恵」は求める人が見出すことのできるものであることが今日の聖句にあるので、この根拠から、ぜひ求めて見出しましょう。私たちの疑問、例えば「なぜ私たちは生まれてきたのか」とか、「愛(アガペー)とは何か」、さらには「『罪』とは何か」といった問題に悟りを与えることができるのが知恵なのです。すでに、悟りを経験したクリスチャンもいるでしょう。私たちは、思い込みや自分勝手に考えてしまう傾向があるので、へりくだって「知恵」を求めましょう。

 

6月24日(月)

愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何一つ知らない。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言う。「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ。」そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれる者は深い陰府に落ちる。

箴言9:13、16~18

「知恵」を女性として表現したように、今度は対比すべき対象として「愚かさ」という女が登場します。つまり、「知恵」か「愚かさ」を人間は選択しなければならないということです。人間が人生を良いものにするか、それとも最悪なものとするかは、実に選択にかかっているのです。意志の弱い者は気をつけなれば、せっかく正しい道を進んでいても、彼女のささやきに負けるかもしれないのです。それが、良いもののように見えて、実は死霊が待ち構えているのであって、深い陰府が行先となってしまうのです。愚かさは、だれでも避けたい言葉ですが、聖書は同義語のように「浅はかな者」という言葉も使います。私たちが後悔することがあるとすれば、それは、この「愚かさ」と「浅はかさ」の言葉で説明できるでしょう。自分は賢いと思っている人でも、避けることは難しいかもしれません。失敗しない人間がいないように、自分を過信していると危険なのです。うまい話には気をつけろ、と注意されたことがあるかもしれませんが、これは本当です。世の中にうまい話は無いのです。それを言えば、だれでもそうだと言うのですが、うまい話をする人の前に立つと、途端に注意ぶかい人間ではなくなるのです。人ごととして聞いているうちは、「バカだな」と笑うのですが、当事者になれば、ありえないような話を真に受けてしまうのですから、交通事故に遭ったように運が悪かったと諦めるしか無くなります。さらに進化させた詐欺が、自分は大丈夫と思っている人が何の保証もないことを世間に証明して見せたのがオレオレ詐欺です。結局、防衛法は電話に出ないことしかなかったのです。これらは、相手が悪意ある詐欺師なので、気の毒になりますが、自分がもう少し思慮深ければ、と反省の言葉が出てくるのです。「愚かさ」も「浅はかさ」も女性で表しているのは、男性でないので気を緩めるということと関係ありそうに思えますね。決して、女性が皆悪いという意味ではもちろんありません。箴言はさらにこの先で「愚かさ」を詳しく説明して行きます。せっかく箴言を学んでいるのですから、「愚かさ」ではなく「知恵」を得ることができるように聖書を読んで参りましょう。

 

6月25日(火)

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。

箴言10:22

 

この御言葉は瞑想課題です。長い信仰生活を過ごして振り返るとこの御言葉の意味が本当だったと実感します。クリスチャンは祝福されているのですが、信仰が伴わないとそれは手にできないものです。それで、悪魔は嘘を吹き込んだり、攻撃を仕掛けて悪い感情を刺激します。そのために、主の祝福を認めず、すでに与えられているものなのに、祝福を得るために努力したり、自分がまだまだ信仰の薄い者だと自らを責めたらりします。聖書をよく読んでいないのだろうか、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり」(ガラテヤ3:14)と書いてあります。さらに、「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(同3:7~9)と書いてあります。ですから、自分は主に祝福されている、それはキリストを信じたからであり、クリスチャンになったからです。それで、信仰に生きようと心に言い聞かせるのです。それは難しいことではなく、楽しいことです。「人間は苦労しても何も加えることはできない」とはどういうことか、考えてみてください。今までの自分はどうだったか反省してみるのです。天国に持っていけないもので悩んではいけません。また、主が決められたようにイエス様を信じた人は主が祝福するので、それに何かを付け足してはいけないのです。主にお任せしていればいいのです。それで無責任にいい加減な生き方をすればその責任は問われます。主に祝福された者は、人間を豊かにするのです。それに反するなら、余計なことを勝手にしていることになります。あなたを祝福するのは主なのです。主はありのままのあなたを祝福し、豊かにし、キリストに似た者へと変えてくださるのです。それを可能にするのは、あなたがそう信じているからです。信仰と聞くとつい肩に力が入っていないでしょうか。あなたは今の生活が主の祝福であることを発見することができます。もちろん、試練の中を通っている人はそう思えないかもしれませんが、普通の生活がありがたくてしょうがないと思えてくるのです。主への感謝が口をついて出てくると祝福を実感できるでしょう。あなたは悪魔の嘘のささやきに心を乱してはいけません。あなたは主の祝福を受けています。そこから、人生を始めてください。

 

6月26日(水)

豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている。

箴言11:22

 

これはふさわしくないものの形容です。さて、女性人権運動の闘士なら噛みついてきそうな箇所ですが、聖書なので女性を賤しめているはずがありません。世間では外見の美しさばかりがもてはやされていますが、それだけではないことを考えてみたいと思います。確かに、若い時にはどんな人でも美しさがあります。でも、人間的にはまだまだ未熟です。自分の人生の限られた時間内で、本物の美しさを手にすることができるかどうか、一生をかけた課題なのです。ですから、人生の終盤になって神様を信じてきて幸福だったと思えるかどうか。あるいは、クリスチャンとして、この世のいろいろなものを手放してきて、身軽になっているかどうか、心は磨かれて美しくなれたかどうか、内面からにじみ出る美しさが人を惹きつけるかどうか、こんなことを考えてみると、毎日毎日どうやって生きるかが大切だと思えてきます。つまらないことに一喜一憂するほど愚かにはなりたくありません。人間的な悲しみや寂しさは何歳になってもあるかもしれません。肉体的に弱ってきたと感じてがっかりする日もあるでしょう。将来のことを心配することだってあるはずです。でも、私たちには救い主であるイエス様がいます。これが決定的に大きなことなのです。イエス様にすがりつき、ひれ伏して、一生懸命に祈ったことがあるでしょうか。その結果はどうだったでしょうか。結局、私たちはイエス様を信じて生きてきたのです。それで、わかったことは、イエス様は私たちの信頼を決して裏切らない誠実なお方であるということです。自分の性格などはあまり変わることはないかもしれませんが、それでも、イエス様を信じて生きていくなら、謙遜になれるようになるし、自分で何かに縛られたように頑張ることから解放されて自由になっているし、内住のキリストがあんまりにも優しいので、傷ついた心もいつの間にか癒されているのです。悪魔の執拗な攻撃にあっていても、御言葉の通りにイエス様が盾になって守ってくださるのでピンチがあっても、不思議と乗り切ることができるのです。そんなことを繰り返しているうちに、イエス様を知っているということが知性であると知るのです。信仰に生きてきた女性の美しさは金のようなのです。これは、決して頑張ったことで得たのではありません。全てが主の恵みの結果です。恵まれた女よ、との御声が聞こえていませんか。

 

6月27日(木)

口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。

箴言12:14

 

薬局で待っていると、一人の男の人が入ってきました。薬剤師さんと話していたご婦人はそれに気がつかなかったようで、薬を受け取ると自動ドアーの前に立ち、開けようとしてスイッチに何度も触れていました。実は、男の人が入ってきた時にドアーは開きっぱなしで、ご婦人がドアーの前に立っているのでドアーは閉まらなかったのですが、そのご婦人は開いている事に気が付きません。それで、開いているドアーを開けようと何度もスイッチに触れているのです。見かねて声をかけると、驚いて恥ずかしそうに出て行きました。人間の思い込みというのは見ても見えずで、ドアーが開いていても閉まっていると思うと出て行けなくなるのです。これほど、人間は思い込みの強い考え方をするので、自分の思い込みに支配されて、苦しむことも少なくないのです。そこで、間違った思い込みから自由になる方法を考えてみましょう。イエス様がおっしゃったように、聞いても聞こえずなので、言葉で説得しても思い込みの方を信じてしまう傾向があるのです。今日の聖句は、良い言葉と良い行いの両方から報いを受けるという意味ですから、この御言葉を実行してみるのは良い方法なのです。まず、自分がどんな言葉を語っているのか点検してみます。もちろん、肯定的な言葉を選んで話しているか、愛を語っているか、人にも自分にも寛容に語っているか、明るい言葉、親切な言葉、優しい言葉、正直な言葉、いろいろ考えてみるのです。次に、自分の行いについての点検です。良い行いとは何かとまずは考えてみましょう。イエス様は多くのことを命じています。それらを実行できるように祈ってみましょう。そして、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)と書いてあるので、これも実行しようとあなたは思ったはずです。そすると、相手のことをちゃんと思いやることができます。相手は、どんな反応をすると思いますか、とても喜んであなたをいたわるようになります。聖書の真理はシンプルでわかりやすいのですが、それでも実行する人とそうでない人に分かれます。結果は、言わなくてもわかりますね。このようなことを知恵と言います。

 

6月28日(金)

思慮深い人は皆知識に基づいてふるまう。愚か者は無知をさらけ出す。

箴言13:16

 

さて、箴言には愚か者がよく出てきます。大抵はその反対のものを強調するためです。しかし、実際に私たちも愚か者と言われてもしかたがないことをしてしまうことがあるのです。あとで気がついて後悔しながらも反省して、次に生かせればそれで良しです。問題なのは、愚かなことを繰り返して何ら反省がないという人は、要注意です。思慮深い人に出会うなら、その人のようになりたいと思うはずです。思慮深い人になる秘訣は、知識に基づいてふるまうことなのです。誰でも、冷静になって正しいことは何か考えてみるのです。その正しいことを知ることが知識を得ることです。世界は広くて、いろいろな個性が無限にあるのです。何しろ人の数だけ個性があって、似ている人はいても全く同じ個性の人はいないのです。だから、誰かと比べて悩むようなことは愚かなことです。問題は、自分の個性をつらぬけるかどうかです。テレビに出てくるような有名人は皆個性的で自分らしく生きていることがわかります。でも、みんなと同じであろうと個性を隠すなら、有名人にはなれなかったでしょう。自分の個性を認めて受け入れることがまずは大切なことです。否定してしまえば悩みだけが残ります。それから、勉強が嫌いな人は結構いると思いますが、自分を知ることには興味があります。ただ、自分に対して否定的になると良い結果が期待できなくなりますから気をつけましょう。また聖書を学ぶことは究極の知識を得る方法なので、思慮深く生きる近道です。

 

6月29日(土)

どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。

箴言14:23

 

何もしないで利益があればどんなに楽でしょう。しかし、そんなことは稀で普通は、苦労がつきものです。ところが、苦労すれば利益があるとわかれば、頑張ってみようと思えます。口先だけで夢を語っていても、実行に移さなければ意味がないのです。そこで、ちょっと大変と思えることが目の前にあれば、避けないほうが良いことになります。私は若い頃に大変なことは全部自分のためになると思って、積極的に立ち向かっていくようにしていました。困難を諦めないで乗り越えると、得るものは想像以上に大きいものです。人間力が高まり、自信を持てるようになります。辛いことが起これば、これは自分の益になることが始まったと考えるのです。逃げ出したくなるような大変なことがあれば、逃げ出したくなったり、誰かに頼りたくなるものですが、あんまり厳しい時にはそれもありなのです。無理をして結局破綻して自身を失えば大きな損失をこうむります。だから、その見極めは肝心です。一番いけないのは、口先だけの人間になることです。誰からも信用されなくなります。そのような人生は淋しいものです。大変な仕事も投げ出さずに頑張ってみるのも、信用を得るためです。信用のある人は何でもできます。信用のない人間は何をやっても大変です。だから、苦労には有形無形に利益があるのです。今、苦労している方は、それにも利益があると神様がおっしゃっていると自分を励ましましょう。どんなことも必ず過ぎて行きます。

 

6月30日(日)

柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。

箴言15:1

 

今の時代ストレス社会と言われ、いつの間にかキレルという言葉が普通に使われ、芸人でもすぐにキレルことで人気者になった人も出てきました。逆ギレとか新語もよほど需要が高いのか、普通の日常語になりました。誰でもがいつキレルかわからない社会が良いとは決して言うことができませんし、それだけストレスが増します。情報化社会で情報が溢れていることと無関係ではありません。ちょっと前までは、人格者であることを目標にして自分の内面を鍛えていた人たちがいたはずですが、そうしたことも風化した気がします。こうした状況を憂う前に、イエス様の御言葉を思い出して欲しいのです。あなた方は地の塩であると言われ、世の光であるとも言われました。つまり、誰もがどうすれば良いのかわからずにしトレスをなんとかコントロールして生きているような社会で、今日の御言葉のように実践する人が社会を腐敗から守るということです。また、キレた人は、逆に過剰防衛になり、やり過ぎて相手を傷つけてしまうのです。だから、恨みを残してしまいます。こうした恨みはなかなか消えないのです。深く傷つくとなかなか赦すことができなくなりますから厄介です。キレやすい人は特に今日の御言葉を瞑想課題として聖霊から悟りを得ましょう。人生が生きやすく豊かになると思います。