4が4月1日(木)
わたしの愛の中にとどまりなさい。
ヨハネ15:9
イエス様はあなたに語っています。「わたしの愛の中にとどまりなさい」と。つまり、もっと立派なクリスチャンになれと言われているわけではありません。律法をもっと努力して守れとも言われていません。あなたは、まだまだ足りない、とも言われていないのです。私たちは、この世で教育されてきたので、ついつい主のお言葉よりも、既に身についている考え方で、勝手に自分が正しいと考えたことをやろうとしているのです。でも、静まって主の御声を聞けば、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と繰り返されるのです。つまり、クリスチャンのすべきことは、キリストの愛の中にとどまることだったのです。この一事に心を向けて、実践することが大切なのです。よく、クリスチャンの方々が私は主に愛されているのだろうか、と悩んでいますが、愚かなことです。聖書に書かれていることをどうして信じないのでしょう。私たちは、主に愛されているので、その愛が身に染み渡るまで愛漬けになる必要があります。主に愛されているとわかれば、自分がどのような者であろうとも、不安になる必要も、悩みを抱える必要も無いのです。自分がどうであるかなどコンプレックスに思うことすら必要がありません。それほど、主の愛の中にとどまることが重要なのです。そこで初めて自分が神の子になったと知ることができるからです。主と関係なく、自分勝手に何かになろうとしても意味がありません。そうではなく、単純に主に愛され、そこから動かないことです。これだけで、自由に生きることができるようになります。しかも、主に愛されているのですから、自信満々に生きることが可能となるのです。
4月2日(金)
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
エペソ1:7
私たちは、自分の罪のことを知らずに生きていました。そして、時が満ちて主イエス・キリストの福音に接したのです。そこでも、聖霊が働いてくださり、罪を示されて初めて気がついたのです。罪を知るといてもたってもいられない状態になります。そして、その汚れから清められるのは、キリストの十字架によると悟るのです。そこで、悔い改め、洗礼を受け、クリスチャンにならせていただくのですが、そこで終わったわけではありません。そこから新しく始まったと言った方が正しいのです。それは、キリストの十字架が不十分だったという意味ではありません。十字架の贖いは完全なのです。では、信仰が未熟なのかと言えば、キリストの信仰をいただいていますから十分なのです。何が問題かと言えば、いまだに自己義認の影が消えないのです。それは、自分の内に砕かれていない硬いものが残っているからです。つまり、愛のなさ、傲慢、高慢、貪欲、と悲しくなるほどです。それを砕くことのできるのは、聖霊のみです。そこで、聖霊はクリスチャンに働かれます。それは、一時では耐えられないので、長い時間をかけて行います。砕かれた分だけ、自己義認も消えて行きます。自分が正しい、という思いが消えて行けば、嘘のように楽になるのです。キリストが自分を捨てて、自分の十字架を負って従え、と言われたことは真理です。自分の道を行けば、自分を捨てることもないのです。でも、キリストに従うと決めたのですから、まず自分を捨てというところから始めることになります。聖書に出てくるお弟子さんたちも、それが苦しいとか辛いと言っていません。それどころか、地下牢に入れられても、喜んでいられたのです。自分へのこだわりは、苦しみしか生みません。ですから、キリストを信じて心の楽な生き方を身につけましょう。
4月3日(土)
あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
Ⅰペテロ5:6、7
勧善懲悪と言われるような小説やドラマでは、強くて心優しいヒーローが出てきて、悪党の悪事を明らかにし、最後にやっつけるというストーリーになっています。人のことを思いやり、悪い者から守り、困っているとわかるとわざわざ骨をおって助け、人からはお人好しと言われたりするが、強くていざとなればなんとも心強い人、これが小説などのヒーロー像です。しかし、このようなヒーローが好まれるのは、現実の世界ではそのような人が見当たらないからです。ところが、クリスチャンにはヒーローが実際にいるのです。それがあなたの主なるイエス様です。イエス様はあなたを助けることができます。あなたと一緒にいることが好きです。あなたが心がけることは「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」ということです。そうでないと、神様の恵みがなかなかわからないのです。思い煩いほどばかばかしいものはありません。クリスチャンは、すぐにいっさいを神様に委ねることができます。それは、最善の道です。あなたが心配しても仕方がありませんが、その心配を神様が引き受けてくださるのです。当然、一番良い方法で問題は解決します。そこのことを覚えておきましょう。
4月4日(日)
しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
ローマ4:5
どうしてクリスチャンは神様を信じることができるのか、と問われても、うまく答えることは難しいでしょう。なぜなら、理屈で信じたわけでもなく、何でもいいと闇雲に信じたわけでもないからです。同じバプテスマ・クラスを受けている人たちが、その課程を終える時に牧師の招きに応えてバプテスマを受ける人と受けない人に分かれることがあるのですが、これも不思議に思います。牧師の経験から言えることは、バプテスマを受ける方は、初めから決まっているようにさえ感じるのです。何年も聖書研究をしてバプテスマを受ける人もいるでしょうが、聖書研究を始める前からバプテスマを受けたいと思っている人もいるのです。これらの人たちは、素直にイエス様を信じることができるのです。このように言うと変に聞こえるでしょうが、 疑うことなく自然に信じているのです。そして、聖書の教えでは、今日の聖句のように、信仰が一番重要で、信じることで義とされるのです。それも、不信心な者とあるように、もともとはキリスト教とは縁もゆかりもなく、罪深く生きてきたのに、ある日、神様の招きを受けた時、すぐにその招きに応えたのです。ですから、聖書の御言葉から諭されると、とても素直な気持ちになって認め、受け入れることができるのです。その人の神様を信じる信仰が義と認められたのは明らかです。ですから、バプテスマを受けた方々は、もっと自信を持って生きていただきたいと思います。
4月5日(月)
成功する人は忍耐する人。
背きを赦すことは人に輝きをそえる。
箴言19:11
すぐに怒りを表す人がいますが、それは損なことです。どのような仕事でも、それが家庭の主婦であっても、忍耐がとても大切です。すぐに怒っても何も解決しないばかりか、人間関係まで壊してしまいます。それを完全い終複することは大変難しいのです。自分を裏切る人が出ることがないと良いのですが、結果として裏切られることがあります。その時に、裏切られたと怒ったり、嘆いたりしたくなるでしょうが、そんなことをしても何の益もありません。それよりも、人は弱いのですから赦しましょう。裏切ることがどんなに情けないことか、本人しかわかりません。だから、自分は正しいと言い聞かせるしかないのです。それでも、心が波立っているのを止めることはできません。そんな人を責めても怒ってもどんな益があるでしょう。何もありません。大人は、自分の器の大きさにこだわるべきです。器の小さな人は情けない生き方しかできないからです。そこで、自分の器を大きくするにはどうしたら良いでしょう。確実な方法は、聖書に書いてある通りに、忍耐することです。忍耐ができているかどうかは、背く人を赦せるかどうかでわかります。これは、誤魔化すことができません。人間はどこまでも情けない存在です。だから主は憐んでくださるのです。その憐れみに、どう応えるかが私たちの課題なのです。忍耐は、イエス様がお手本です。主に倣って生きたいですね。
4月6日(火)
わたしは主に求め
主は答えてくださった。
脅かすものから常に救い出してくださった。
主を仰ぎ見る人は光と輝き
恥ずかしめに顔を伏せることはない。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
苦難から常に救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き
主を畏れる人を守り助けてくださった。
詩篇34:5~8
信仰者は、この詩篇が本当であると知っています。私たちは、それほど誇れるような者ではないかもしれません。それどころか、「貧しい者」と書いてあるように、何かしら欠けがあったり、負い目のある者であると言えるでしょう。ですから、主がこのように助け守ってくださる理由は、主が憐れみ深く、慈愛に富んでいるからです。そして、私たちが主を畏れ、信仰を持っているからです。この世は、野生の王国のようです。この世界は、弱肉強食で、ただ良い人というだけでは平和に生きていけるかどうかわかりません。いつ敵が現れ、攻撃を始めるかなどわかりません。長く生きていれば、非常事態が突然やって来ることを経験するでしょう。それでも、信仰者は主にすがり、祈ることができるのです。ですから、今日の聖句が本当だと知っているクリスチャンは少なくないのです。そうであれば、私たちはなんと幸いな者でしょう。主に対して誠実に信仰を持って生きていくこと自体が幸福の秘訣なのです。もし、自分が完全で強い者であったなら、こうは行かなかったでしょう。弱くて、情けない者なので、主イエス・キリストに頼ったからこそ、全能の主が今も生きて働き、祈りに耳を傾け、最も小さな者の叫びにも応えてくださることを知ることができたのです。
4月7日(水)
あなたがたは、以前はくらやみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。ー光の結ぶ実は、あらゆる善意と真実なのですー
エペソ5:8、9
今日の聖句は、クリスチャンが何者であるかを教えています。暗闇と光はついの言葉なのでわかりやすいコントラストが感じられるでしょう。もちろん、暗闇は悪い状態ですね。他方、光の方は霊的に良い状態を言い表しています。暗闇は、この世の支配者に服しているような不自由な状態です。そこでは、肉の欲が暗闇で見えないことから不品行に走り、人を汚してしまいます。一時の快楽を求めても結局空しさに圧倒されます。ですから、放っておけば、暗闇に光が来ても気がつかなくなります。幸い、クリスチャンの方々は、光を見つけたのです。その光こそが主イエス・キリストでした。キリストは、私たちを救いに来られたのです。天の父なる神様があなたを選んで召し出してくださったのです。イエス様は御父に忠実ですから、召された者の元に来て福音を聞いて悔い改め、イエス様を信じるようにと促してくださいました。あなたは、そのチャンスをとらえてイエス様を信じたのです。その結果、あなたはキリストによって光となったのです。そうであるなら、あなたは光の子どもらしく歩みなさい。もう暗闇の子どもではありませんから、自分のことで負い目を感じないで、堂々とキリストを着ている者として歩むのです。あなたの歩んだ後には、善意と真実が残るでしょう。罪によって自分が無価値であると認めたので、新しく生まれさせてくださったのもイエス様です。そこで、あなたは主の目に値高く、価値あるかけがえのない存在となりました。ですから、光の子と呼ばれるのです。この真理をしっかり信じて「私は光の子である」と認めましょう。
4月8日(木)
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ローマ5:8
クリスチャンは、神様の愛を知っている人たちです。神様は今も生きて働かれ、私たちを愛されるので、私たちは恵みの中を歩んでいけるのです。ただ、この歩みは、三つの道が用意されています。一つ目は信仰の従順に至る道、二つ目は聖霊に満たされる道、三つ目は聖霊に砕かれる道です。全ては、確かな新生体験と聖霊のバプテスマから出発します。ただ、どちらも曖昧な感じを持たれている方の方が多いでしょう。これが良くないのは、信仰も中途半端になりやすいことです。なぜ、中途半端がいけないかと言うと、恵みをちゃんと受け取らないからです。例えば、信仰の従順の道は、聖霊に満たされるので、あふれる恵みを流し出すわけです。それは、与えたり、仕えたりすることに現れます。クリスチャンの中には、絶えず恵まれている人がいますが、彼らは主の教えの通りにしているのです。「求めよ」と言われれば求め、「与えよ」と言われれば与えるのです。わざわざ与えることの幸いを本に書く牧師も現れます。神様に対しては、讃美することが顕著になります。人に対しては、兄弟愛の実践が特徴になります。未信者が相手であれば愛の業は伝道になります。これらは、道と言うだけあって、順番に段階を上って行くことになります。二つ目と三つ目は他の機会に書きます。その前に、一つ目も次の段階をいつか御心ならば書こうと思います。ヒントは、信仰充満です。もっとも、そのためには二つ目と三つ目が先行しなければなりません。これらは、聖書に全部書いてありますが、気づかない人が多いのです。御言葉を信じて奇跡を体験しましょう。神様の愛は既に明らかにされているのですから。
4月9日(金)
人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。
箴言29:25
人間は生まれながらの性質も人それぞれですが、成長するに従い勝ち取っていく生きる力があります。そして、人生は同じことの繰り返しのように見えながら、次々と変化するもので、予測のつかないことが発生するのです。そのとき、どう対処するかでその後まで影響が出る場合もあります。ですから、人生を生きるのは大変なことです。それでも、幸せそうに見える人と不幸せに見える人がいるのです。その実情は本にしかわかりませんが、多分に、その人がどのような価値観で生きているか、また自分をどのように考えているかでも人生の明暗が分かれています。そして、信仰が有る無しで、全く人生は異なってしまいます。たとえ、避けることのできない試練があっても、信仰があれば、それは災いではなく益となるのです。そして、日々の生活でも、信仰は役に立ちます。特に、「人を恐れるとわなにかかる」という御言葉は忘れてはいけません。不調に陥ったら、自分は誰かを恐れていないか考えてみましょう。もし、すぐに思い至ったら、危険から脱出するために、主に信頼しなかったことを悔い改めて祈り、主への信頼を表します。そして、わなにかかると自力ではなかなか抜け出せなくなるので、イエス様に助けを求めましょう。聖霊に内面から解放を願い、十字架の御力によって、わなそのものを砕いていただきます。それから、主を畏れ従順であることは、自分の過去からの解放であり、自分の負い目からの解放でもあるのです。これらは、もっぱらイエス様の御力によります。このようなことは、誰にでも起こりやすいので、注意が必要です。相手は、人間ではなく悪霊です。わなにかかるというのは、恐れの霊、不安の霊、怒りの霊、不信の霊、自己憐憫の霊、恨みの霊、イライラの霊、落ち込みの霊のように、連鎖的に次々と悪霊を引き込んでしまう危険があるのです。ですから、人を恐れることに気がついたら、すぐに祈って解決してください。主をいつも信頼していれば守られるという約束がありますから、これも忘れないようにしましょう。
4月10日(土)
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。
使徒2:28
いのちの道は心にまっすぐな道を通すことです。穏やかに、人と比べることもなく、愛に生きようとする思いが自然と湧いてきます。寛容に人と接し、平凡でも満足し、全てのことに感謝できるのです。主がそうであったように、慈悲の心を忘れず、貧しい者を憐れみ助け、報いを求めずに奉仕できるのです。偉くなることよりも自由を尊び、兄弟愛を心がけ、人のために労を惜しまないのです。人の笑顔に満足し、人への思いやりに心を温め、悪く言われても黙っていて、どの人にも公平であろうとするのです。キリストならこんなとき、どうされるだろうかと考え、聖書を読み、考え、祈ります。このいのちの道は、平和に生きる道です。主は、御顔を向けられ、祝福されるでしょう。そして、主を信じるあなたを喜びで満たしてくださるのです。
4月11日(日)
主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも おそれはあらじ
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛す
わが罪のため 栄をすてて
あめよりくだり 十字架につけり
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛す
希望の讃美歌251番1、2節
子供から大人まで、親しまれた讃美歌のうちでもこの讃美歌が一番有名でしょう。誰でもがすぐに覚えられるメロディーにキリスト教信仰がそのまま歌詞となっているのが良いのです。私たちは、人や社会に左右される生き方を捨てて、ただイエス様の愛に応えて生きようと心に決めたのです。残念ながら、この世に在る限り、傷ついたり、辛さに涙することだってあるのです。自分の不甲斐なさに腹を立てたり、社会の矛盾に憤ることだってあるでしょう。自分のことばかりを考えて、隣人を愛せないことも当たり前だと思い、自分が愛では無いことをしてきたことも気づけなかったのです。何より罪を知らなかった。そんな者をイエス様は探し出して、救ってくださいました。そこには、必ずキリストの愛の物語が潜んでいます。だから、私たちは変われたのです。今日の讃美歌には、そうしたクリスチャンのキリストへの愛の思いが素直に表現されています。ですから、私たちはイエス様への信仰をこの讃美歌に託して歌うのです。勇気百倍の不思議な讃美歌です。
4月12日(月)
人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ6:8
クリスチャンがどのように生きていけば良いか考えることがあります。クリスチャンとして恥じない生き方があるに違いない、と考えるわけです。そこで、思いつくことはいわゆるクリスチャンらしくという漠然とした考えです。宮沢賢治の「雨にもお負けず」のような人物像を思い描く人もいるでしょう。もっと聖なる人を演じようと無謀なことを考える人もいるかもしれません。しかし、こうした人間的な考えではうまくいきません。できないことをしようとすれば、すぐにボロが出ます。では、どうすればよいのかと迷ってしまうのです。今日の聖句は、その一つの答えです。①正義を行うこと、②慈しみを愛すること、③へりくだて神と共に歩むこと、この三つです。この三つを心がければ良いわけです。これを自分のものにするには、時間がかかるかもしれません。それでも、この三つを覚えていれば、何か見えてくるでしょう。これは人に見せるためにすることではありません。主が喜ばれる生き方です。そして、これが幸いな人生の指針になるのです。難しく考えずに、聖霊の助けを求めて忘れないことです。
4月13日(火)
このような時にも、見よ
天にはわたしのために証人があり
高い天には
わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友
神を仰いでわたしの目は涙を流す。
ヨブ16:19、20
この世で生きている限り、いろいろと問題が起こります。その問題を一つ一つ片付けながら生きているのです。正しく生きたいと願っていても、周りがそうさせずに振り回されることだってあります。人間関係では、悩まされることもありますが、逆に癒されたり、励まされるこの方が多いでしょう。脳学者の本を読むと、「嫌い」ということがどうして起こるのか研究しているので興味が湧きます。その目次の一つが家族の問題です。もっとも近い関係ですら難しいのですから、人間が悩むのは当然な気がしてきます。さて、クリスチャンになると、そうした人間関係のトラブルがどうなるのか気になりますね。今日の聖句は私たちに大事なことを気づかせてくれます。天に皆さんの弁護をする方がいるというのです。たとえ、あなたに非があり、あなたがが責められることをしたとしても、天で執り成してくださる方がいるのです。それはイエス様です。イエス様はあなたの友と呼ばれても喜んでくださいます。だから、頑張って生きているあなたにある日起こる災いが、あなたを打ちのめすようなことになっても、あなたはこの世の人たちとは違って、天にあなたを心配して、弁護するために立ち上がる方がいるのです。どんなことをがあっても、あなたを支える真の友です。だから、苦しく辛い時、「神を仰いでわたしの目は涙を流す」と書かれた聖句は、あなたのものとなるのです。イエス様が理解してくださるのなら、それで満足です。
4月14日(水)
主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
申命記8:3
これは、申命記8章を読まれると出エジプトしたイスラエルの民に語られていることがわかります。荒野の試みでイエス様が引用したことでも有名な御言葉です。荒野の旅は、過酷で人が生きるような場所ではありませんでした。そこでは、主なる神に頼るしか希望がありませんでした。不毛な荒野でイスラエル人は主に依存して、はじめて生きることを可能にしていたのです。ここでの教訓は、神は選んだ民に対して徹底的な配慮を尽くしてくださることです。また、荒野の旅は、訓練そのものでした。私たちの信仰の旅路にも荒野の経験はあるものです。苦しい苦難の時代です。それすらも、神様の配慮があって実はちゃんと助けられているのです。神の恵みを私たちはあまりにも当たり前のこととしているのです。さらに、荒野で神の賜物を日々受けたイスラエル人は、そのことを感謝して、主に従順に従い仕えることができるかどうかを試みられていました。このように、現代の私たちクリスチャンも、信仰の旅路を行く時に同じような経験をしています。イスラエル人がそうであったように、苦難に遭うときに人間は二つに分かれます。一つは、神に怒り逆らって反抗する者です。もう一つは、砕かれて謙遜を学び、憐れみ深い神に出会い、素直な主に対する服従に至る者です。もちろん、後者が良いのであって、私たちが導かれている道です。それは、「パンだけで生きる」道ではなく、「主の口から出る全ての言葉によって生きる」道です。不思議ですが、この聖書に書かれた御言葉や、あなたに神ご自身が直接語る未言葉によって、生きることができるのです。それは、荒野で、生きるためにマナを食べ続けたような生き方です。他には食べ物がなかったので、主に依存した生き方です。イエスはここで「レーマ」(言葉)を使っています。直接、あなただけに語ってくださる御言葉のことです。これは、人の言葉(自分の言葉が大部分を占める)ではなく、主の御言葉を聞き、従うことを意味しています。生き方の大転換です。祈ってレーマを求めてみましょう。
4月15日(木)
主に信頼し、善を行え。
この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
主に自らをゆだねよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩篇37:3、4
これは、私が理想とするクリスチャンの生き方です。信仰の始まりは主に信頼することです。それも徹底的な信頼です。その上で善を行うのです。善を行うのは実は難しくありません。覚悟を決めていれば善を行う勇気も出てきます。あなたの与えられた場所に腰を落ち着かせ、日々信仰を糧として生活するのです。この世では理不尽なこともあるでしょうし、悪いことも起こるでしょう。それに対して、私たちは主に自分自身をゆだねることを決心しているのです。たとえどうなても主の御心がなりますように、と祈るので、必ず助けがあります。ゆだねることは、自分を主のものとすることですから、忠実な僕、はしためであれば良いのです。そのような主にへりくだった生き方は、信仰を強め、しるしのように、日々主の奇跡を見られるようになります。それは、心から溢れる主への感謝となって喜ぶことができます。何よりも、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」との約束があります。主の恵みは尽きないのです。このような主の支配を知ったことが何よりもの奇跡です。あなたは、クリスチャンです。ですから主にとって特別な存在なのです。そのことを決して忘れずにいてください。
4月16日(金)
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び踊れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
詩篇32:10、11
詩篇を読んでいると、敵が出てきたり、苦しめる者がいたり、と主に助けを求める詩が多くあります。しかし、そればかりに目がいくともっとはるかに大切なことを見逃してしまいます。それは、今日の聖句のような箇所です。主の慈しみに囲まれている自分を想像してみてください。きっと幸せでしょうね。これは、神に従う人の特権なのです。信仰にご利益がありますかと聞かれれば、ありますよと答えたいです。それは、キリストのおかげで、主に信頼する者、神に従う者、そして心の正しい人に生まれ変わらせていただいたからです。決して自分の力で頑張ったからではありません。イエス様を信じて、慈悲にすがって、恵みで与えられた新しい姿なのです。その結果、原因と結果と言うように、慈しみに囲まれているのです。そればかりではありません。クリスチャンがするべきことが書いてあります。主によって喜び踊れ、とありますから、実践してください。私たちは主への感謝が少ない者なのです。主によって喜び踊れと書かれているのですから、それほどの踊り出すほどの幸いが来るということなのです。ぜひ体験したいと思いませんか。そのためには、神に従う人になれば良いのですから、難しくありません。同じようなことが、喜びの声をあげよ、と書かれています。喜びがなければ難しいですが、そうではなくてそうなるほどの喜びが起こるということです。そのうなりたいと思うのでしたら、心の正しい人になれば良いのです。これも、クリスチャンにとっては楽勝です。イエス様の御言葉に素直に従えば良いだけです。思い煩うなと言えば、そうすれば良いのです。それが難しいという人は、聖霊が助けてくださること、そして、「できない、難しい」と言う古い自分はキリストと共に十字架に釘付けにされていることを信じることです。今生きているのは新しく生まれた神の子です。ですから、心配入りません。イエス様を信じているのですから、なんとかなります。試みに、「私は慈しみに囲まれている」と宣言してみましょう。そして、主によって喜び踊る李、喜びの声をあげてみるのです。人前ではちょっとおかしな人と思われてしまうかもしれませんが、一人の時に試してみてください。不思議なことに本当に喜びが湧き起こってくるはずです。それは、あなたの内の聖霊が目覚めるからです。
4月17日(土)
神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め
わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたを待って、わたしのからだは
乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。
詩篇63:2
あなたは神様を求めているだろうか。それも、砂漠で渇き水を求めている人のように神様を求めているだろうか。もし、困ったことが起こったり、苦しみ悩んでいたなら、神様にすがって祈り、問題をすぐに解決して助けてもらおうと力ある主に来てくださいと願うだろう。そんな経験をクリスチャンはするように導かれている。それは、知識で知っているだけの神様ではいけないからだ。実際に神様との交わりを知るべきで、そのためには今日の詩篇記者のように求める必要がある。実は、この問題は単純ではない。困難が生じて、主に助けを真剣に求めて、何かしらの主の御力が現れて奇跡的に問題が解決したとしても、その後はどうなるだろう。主との距離が短くなり、日々の主との交わりが容易になればいいが、実際には、世事に忙しく主のことを忘れて距離が離れていくことになりはしないだろうか。だから、本当に必要なことは、自分の魂が渇ききっている事を知ることだ。この渇きを癒すことのできる水は、主イエス・キリストが与える生命の水で、この生命の水を飲むことで人は初めて魂の渇きを癒すことができるのである。この命の水とは、キリストの十字架の贖いにより、その血によって清められた人に降る聖霊のことだ。聖霊を実感したい人は、今日の聖句をよく読んで考えていただきたい。これほどの渇きを覚えたことがあっただろうか。もし、なければ主に願おう。心から祈ろう。そして、キリストに頼ろう。出エジプトの時と同じように、キリストなる岩から水がほとばしり出るだろう。
4月18日(日)
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ8:31、32
イエス様の言葉にとどまるなら、あなたがたは本当にイエス様の弟子です。これが、クリスチャンの課題です。自分の都合で気に入ったところだけつまみ食いで聖書を読むようでは、この課題を果たすことは難しいのです。聖書は難しくてわからないという人も少なくないですが、真理の御霊が送られてくるので、聖霊ご自身が解き明かし、教えてくださるというのです。ですから、簡単に難しいからと聖書を理解することをあきらめてはならないのです。祈って、何度も読んで、聖霊の助けを求めると、不思議と突然意味がわかってしまうようなことが起こります。また、わからない箇所が、全く別の箇所を読んでいると答えが書いてあることを発見することもあります。このようにして、だんだん意味がわかるようになり、何年も何十年も信仰生活を送ると、さらに深い真理が見えるようになるのです。イエス様のお言葉は特別です。「汝の敵を愛せよ」と言われて、そんなことはできないと思うのは、正直なことで、しかたのない事です。しかし、それであきらめて、そこから離れてはいけないという事です。イエス様のお言葉にとどまるなら、自分の罪深さを正しく知るでしょうし、実際の出来事の中で何かが起こってきます。あなたの自覚の中に、「わたしはイエス様の弟子である」という重大な決意があるのなら、なおさら、主の御言葉にこだわるべきです。そうすれば、人間が知ることのない真理を知ることになります。その真理があなたに自由を与えるのです。人間の弱さゆえにできないできないと悲観的に生きてきた者が、自由になって楽観的にもなれるのです。多くのこだわりからも自由になり、愛せないという思いからも自由になります。さらには、肉に従わざるを得ないと奴隷のようであったことからも自由になります。自分の考えでは解決できない問題からもことごとく自由にされるのです。最後まで、イエス様の弟子であると自由に生きたいですね。
4月19日(月)
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
ルカ6:35、36
初めて聖書を読み始めるとイエス様のお言葉が胸に突き刺さってくることがあります。今日の聖句もその一つでしょう。青年の時には、そうかと受け入れこの通りにしようと思えるかもしれませんが、大人の人たちは無理だと言葉が出てしまうでしょう。架空の敵ならばいいのですが、実際の敵が存在したら、簡単に愛しますとはならないのです。しかし、信仰が育ってくると、主のお語りになった言葉は特別に意味があって、しかもそこに力もあることに気づかされるのです。敵を愛せば、もはや相手は敵ではなくなります。敵を変えることはできませんが、自分を変えることはできるのです。その結果、自体は善い方向へ変わっていくのです。人に善いことをしなさい、と主に言われないと意識して善いことをしようとは思わないものです。しかし、いつも主のお言葉を覚えているなら、積極的に人に善いことをするようになります。いつしか、それが当たり前になります。何も当てにしないで貸しなさい、と言われれば、打算抜きに気持ちよく貸すことを経験できます。そして、これらの結果を刈り取ることになります。それは、たくさんの報いとなって帰ってきます。聖書に書かれているのですから間違いありません。こうしたことは、イエス様を信じた人たちが実際にお言葉通りに実行して、信仰者としての成長を経験し、ますます主のお言葉の重要さに気付かされるのです。ですから、最後の「あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」との命令も心して実現しましょう。そうすれば、天の父があなたにも憐れみ深いことを知ることになります。
4月20日(火)
主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。
詩篇138:8
私たちが主イエス・キリストを信じて救われたことは、実に驚くべき恵みです。その全貌を多くの聖徒たちは理解していません。しかし、信仰の道をただひたすら歩み続けると、その人は主のなさることを理解し始めます。それは、あなたに関わるすべてのことを、主が成し遂げてくださるということです。ですから、この世の人たちのように、今日はついていた、昨日はついていなかった、といった言葉とは無縁で、成し遂げなければならないことがことごとく、主によって成し遂げられていくのです。これだけでも、安心して生きていけますね。このような過分な恵みが実に、永遠にあるのです。かといって、肉に従って放縦にはしれば、聖書に書かれているような不幸の実を結ぶことになります。ですから、信心が大切になります。信仰を育てるのに、一番各自なことは聖書を学ぶことです。一人では限界があっても、主はあなたが聖書を学べるように助けを与えてくださいます。ですから、聖書を学ぶことをすぐに放棄してはいけません。イエス様の譬え話のように、畑に宝が埋まっているようなものなのです。それを知ったら誰でも掘り出そうとするでしょう。あなたは、恵まれていて主の助けが約束されているのですから、それを実現するために、信仰を養い育てるのです。その一番善い方法が聖書を学ぶことです。きっと宝を見つける喜びが待っています。
4月21日(水)
あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
Ⅰペトロ5:6、7
生きていれば、時に悩むこともあります。いつもいつも同じように平和であるわけではありません。信仰者が信仰の道を歩んでいても、恵みとはいえないような事があるものです。それらは、後で振り返れば、すべて神様の御心の内で、信仰の成長には必要な事であったのです。それに、乗り越えられないような試練に遭うこともありません。生活の些細なことですら、私たちには神様の摂理と考えて、みな益となるのです。それでも、思い煩う日には、今日の御言葉を思い出してください。神様に心配していただける幸いを思って、元気を出してください。自分の力が弱っている時こそ、神様が働かれてる余地ができるのです。神様の力強い御手の下にへりくだることこそ、信仰の真髄なのです。神様のあなたの心の内をちゃんと理解されているので、すべてが喜びに変わるように驚くべき神様の御業を見せてくださるでしょう。良い結果が必ず待っていると信じることができれば、心穏やかに過ごせますね。
4月22日(木)
わたしが疲れた魂を潤し、すべてのしぼんだ魂を満たすからでだ。
エレミヤ31:25
聖書を開くと、初めに創世記が出てきます。この書は、順番がただ一番目ということだけではなく、聖書全体を知るためには必要不可欠で重要な書なのです。ここには、神様が人間を創造されたことが記され、神の息が吹き込まれて生きたものとなったことがわかります。つまり、人間は神様との関わりで存在するものなのです。ですから、私たちが疲れたり、悲しんだり、病になったり、苦しみの中に陥ったりしても、それを癒す力が神様にあるのです。特に、霊的に弱った時には、医者でも薬でも癒せません。しかし、私たちは信仰を持って、主に祈ります。そして、信じて待ちます。主の憐れみにすがっているのです。ありがたいことに、主は憐れみ深く、慈愛に富んでいますから、あなたの声をちゃんと聞いておられます。そして、あなたを励まし、あなたに元気でいて欲しいので、最も深い所から命を満たしてくださいます。愛情に飢え渇いていれば、無条件に主は愛を注ぎます。あなたが想像しているよりも遥かに大きな愛です。まるで大雨のように主の愛があなたをずぶ濡れにします。このように愛されることはないというほどに、主はあなたを愛されるのです。ですから、今日もあなたは安心して元気に過ごせるはずです。内側に力が満ちていることを確かめてご覧ないさい。主の不思議を味わってみましょう。
4月23日(金)
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
フィリピ3:13、14
キリスト教のゴールは手近にあるわけではありません。一生かかる覚悟がいります。パウロですら捕らえたとは思っていなかったのです。だから、性急に聖なる者になろうとしてもうまく行きません。これは、マラソン競技に似ています。コツは「後ろのものは忘れ、前のものに全身を向け」ることです。失敗したからといつまでも後悔ばかりではいけないのです。クリスチャンは、何度失敗しても悔い改める事ができます。そうやって、何度も何度も赦されて、ようやくへりくだる者になれるのです。そうは言っても、遅々として信仰に成長しないとか、大失敗をしてしまったとか、落ち込むようなことも避けることができません。しかし、そうした中で祈り、聖書を読み、瞑想して、なんとか神様に近づこうとするのです。神様を正しく知るなら、その後の生き方に芯ができます。いわゆるブレなくなるわけです。マラソン競技と同じと言った通り、精神面と、また賞を取ろうとする意気込みも大切になります。お正月の駅伝の走者のように、風を切って快走したいものですね。
4月24日(土)
牧者が昼間、自分の羊がちりじりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
エゼキエル34:12
私たちはこの地上でいかなることになっても、羊飼いイエスがいてくださるのです。どのような事態になっても、羊飼いイエスは必ずあなたを助けるために全力を尽くされます。そして、窮地に立たされていようと、全能の主はあなたを助けてくださいます。あなたは、不安になることも恐れることもありません。あなたを救い出すために、羊飼いは急いでいます。たとえ敵がいようとも、あなたが招いた災いであろうと、耐え難い病であろうと、救い主に解決できないものはありません。あなたは、祈り、主を信頼して救いを待つことです。心が弱っているのなら、主を讃美するとよいでしょう。力が湧いてきます。あなたが誰にも言えずに一人悩んでいても、主はあなたの魂の叫びを聞いています。ですから、急いであなたを探し、助け出そうとされているのです。主の恵みは尽きることがありません。あなたの羊飼いがイエス・キリストであることを感謝しましょう。
4月25日(日)
キリストが わたしをつかわされたのは、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。
Ⅰコリント2:4、5
伝道は、キリストの十字架の言葉を伝えることなのです。それは、私たちがキリストの十字架の意味を理解した時に救いに導かれ、罪の贖いと呪いからの解放を得たことから明らかです。人の救いに必要なことは、哲学的な難しい言葉ではありませんでした。知的に相手を屈服させるような言葉では人は救われません。ですから、私たちはキリストの十字架の力を見せようと救われた自分を見せたいのです。それができるのは、神の愛、御子イエスの恵み、聖霊の交わりを知ったからです。自分には何ら誇るところがありません。自分の罪をとことん見せられたからこそ、主の十字架の力に救いを見出したのです。そこから、キリストへの信頼が生まれ、信仰となったのです。この信仰は、神の恵みによって与えられたものです。ですから、キリストの何かを勉強したから信仰ができたのではありません。私たちの信仰は、恵みにより与えられたキリストの信仰なのです。
4月26日(月)
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
コロサイ3:23
クリスチャンになると、この御言葉にいつか出会うことになります。あるいは、牧師や信仰の先輩から教えられるかもしれません。いずれにしろ、神様からのチャレンジです。聖書の驚きは、書かれたことを信仰を持って実行すると不思議な恵みとなることです。この御言葉も、読み飛ばすこともできますが、それはあまりにももったいないことです。なぜなら、驚くほどの天の恵みになるからです。「心から行いなさい」とあったように、イエス様への真の思いを確かめると、「主に対してするように」という意識が心から湧き上がります。これは、一時のことで終わらせるようなことではありません。生きた信仰となるように、いつでも神様の支配の中にいることができるように、難しいことをする必要はありません。ただ、この御言葉のチャレンジに応えるだけでいいのです。人だと思うと、感情が邪魔するでしょうが、主に対してするように、心から行うことを意識するのです。初めは戸惑うかもしれませんが、やってみると、本当にあの人はイエス様だったのではないか、イエス様が変装していたのではなかったのか、と考えるようになります。そして、ついに、御言葉の通りになるのです。世界中のクリスチャンがこの通りにしたら、世界から戦争はなくなり、麗しい愛が世界に充満するでしょう。その第一歩を、あなたが始めるのです。
4月27日(火)
知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。
わきまえある者はそれを悟れ。
主の道は正しい。
神に従う者はその道に歩み
神に背く者はその道につまずく。
ホセア14:10
聖書を読んでいると、何を言っているのかわからない箇所があちらこちらにあるので、困惑することがあるのではないでしょうか。その中で、「知恵ある者」という言葉が出てくると、自分には知恵があるだろうかと考え込んでしまうかもしれません。箴言のように初めから知恵が大事だと教えているように、聖書では知恵が大変重要なのです。有名なソロモンが神様に知恵を求めて喜ばれたことも記憶に残っているでしょう。さて、今日の聖句ですが、「主の道は正しい」とあります。道は人生そのものを表している場合もあれば、その人の生きるよりどころでもあります。そして、世の中には色々な人がいるために、どのような生き方が良いのか、何が正しいことなのか、と迷うわけです。しかし、多くの人は、流されるように生きていることが多いのです。それだけに何かあれば、神仏に頼らなければ不安でならないことも理解できます。クリスチャンはそれらとは違って、生ける真の神様を知ったので、生き方も明らかになり、聖書が与えられたので何が正しいかも知ることになったのです。そうなると、神様に従う者はその道に歩むことになります。しかし、神様に背く者はその道につまずくのです。それは、例えば、御利益宗教のようではないので、自分の願った通りに神様がしてくれないと膨れる子供のような者です。神様の深い愛情で罪深い私たちを聖なる者へと変えるために試練をも与えることを理解しないわけです。私たちは、パウロに励まされて、辛い時も悲しい時も、いつでも「主において喜びなさい」との御言葉を信仰で実現させようと心を砕いているのです。その結果はやがて知ることになるでしょうが、平安と恵みがいつも共にあることを悟るようになるのです。主に従わない人は、言っても分からないので、つまずくことになりますが、それすらも主の憐れみです。主に屈服して従順な信仰を持つようにと諭されているのです。主は忍耐強いですね。ありがたいことです。
4月28日(水)
あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。
詩篇119:24
神様は良いことしかできませんから、あなたに対しても良いことをお考えになり、さとしを与えてくださるのです。信仰を持つことは、主を求めて知ることです。知ることができれば、主のさとしを得ることができます。そうであれば当然のこと喜びは絶えなくなります。なぜなら、主はあなたに良いことしかできないからです。でも、人間は罪のために神様に背を向け、自分勝手に生きたいのです。ですから、この恵みを拒み、道をそれてしまうことがあるのです。例えば、タバコを吸えばガンになる確率が高まると聞いても、やめようとしないとか、悪いことだとわかっていてもやめることができないということが何かしらあるのです。それは、とても損な生き方です。神様を知ると今までの考えが一変します。このような幸福になる道があったのか、と驚くことになります。それでも、この世に住んでいるのでこの世のことで心を煩わせている内は「あなたのさとしは私の絶えざる喜びです」と言ったようにはなりません。神様に熱心になることは良いことなのですが、中途半端に信仰を捉えていれば、うまくいくはずもありません。もし、心を主に明け渡して、聖霊が主導して生きることを認めると、この詩篇の御言葉を実感できるのです。あなたは、主に助言を求めることができるようになるのです。主は良い考えを与えてくださいます。これがどれほどすごいことかわかりますか。クリスチャンは、このように恵まれた存在なのです。ぜひ、この御言葉のようになってください。主に熱心になることは良いことです。
4月29日(木)
知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
Ⅰコリント8:1、2
テレビ番組で人気があるのはクイズ番組です。視聴者は自分もクイズに参加して、知識があることで満足感や優越感を感じられるのです。知識があると思っている人の問題は、知識がない人を見ると蔑んだり、見下す傾向があります。ところが、自分よりも知識のある人は多くいるのです。うろ覚えの知識と学習と研究に研鑽を積んでいる者の知識では質が違っています。答えの背景を深く広く知っているのです。ところが、この知識がどのように役立つかという時に、自己満足では意味がないし、人のために役立たないとつまらないものになってしまうのです。愛は、クリスチャンになり聖霊を吹き込まれた人の内にあるアガペーのことです。ですから、神様から来ている愛です。神様の望まれていることは、隣人を自分のように愛することです。そのための知識は役に立ちます。しかし、肉に従うと自己を高めて自分の自由を絶対化してしまう危険を生じます。知識が人を昂らせるなら、他者を危険な目に合わせることだって起こり得るのです。自分の考えは正しい、また快楽をも一定の内に収めることができるとか自分は自由なのだと、弱い者のことを無視して人のつまずきになったり、他者を滅ぼしてしまうこともあるのです。それを防ぐのは、愛によるわけです。自分の知識が人の必要を満たしたり、悩みを解決するためのに役立つなら、それに愛を加えることです。他者への愛は、キリストが示した生き方です。その道を私たちは辿っているのです。私たちが神様を愛しているなら、それは先に神様がその人に愛を示された証拠です。何しろ、2000年も前にイエス様は私たちの罪の贖いのために自己を犠牲にして十字架にかかって死んでくださったのです。それを私たちは愛、アガペーと知ったのです。その愛が私たちを生まれ変わらせました。だから、へりくだりを覚え、自己を誇らず、真の知識であられるイエス様を知ること、つまり主に仕えることでイエス様に近づくことを実現させているのです。その主に仕えることの内に、他者への愛があるのです。
4月30日(金)
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
Ⅱテモテ3:16、17
ここに聖書の効能が書かれていますが、驚くべきことにクリスチャンにとって必要なことが聖書の中にすべて網羅されているのです。日本人に多い考えで、聖書は良い教えの本だと思っている人には残念なことに、その期待には応えてはくれないでしょう。しかし、信仰を持った人たちには神様の霊的な力が働き、その人を変えるほどの霊力が聖書にはあるのです。それだけに、ちょっと読んでわからないとすぐ面白くないからと投げ出してしまうのは実に勿体ないことなのです。聖書自体は、書いた人が確かにいたわけですが、その聖書記者たちに聖霊が働き、霊感された書物になっているのです。古代に書かれましたから、当然古代人の知識の制約がありますし、オリエント文化圏にありましたからその影響もありました。それでも、神様の霊感を受けて選ばれた人が聖書をその人の書く能力の範囲で記録したのです。聖書を通して学び、訓練されるのには理由があって、イエス・キリストを信じて救われ、新生して聖霊が内住すると、その人は聖霊の導きを受けるようになります。その人は神様のために生きる人に変えられているので、神の人なのです。その神の人が当然務める良い働きがあります。それをやり遂げるために十分整えられた者になる必要があり、それを実現するのが聖書の役割なのです。そのように聖書を見直してみると、聖書は全く違って見えてくるでしょう。そして、事実、御言葉が霊感されているのなら、内なる聖霊の助けが必要になるのです。そこで、祈ることから聖書を読むことが始まるわけです。