12月1日(木)
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
コロサイ3:23、24
クリスチャンは、この世でキリストを代表する者と言われています。それだけ、責任が大きいのです。それでは、どうやってこの使命を果たすことができるのでしょうか。それは、今日の聖句に書いてあります。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」とある通りです。この一事を心にとめ、実践することです。これを文字通りに守れば、確かに報いもあります。御国を相続させると約束されています。つまり、天国に入ることができるということです。ありがたいことです。クリスチャンらしく生きようと、頑張る人は大勢いるでしょう。でも、それが何を意味するか理解しておく必要があります。それは、クリスチャンは出会う人を人間としてではなく、主に対してするように行うのです。そこには、誠実な心から行う清さがあります。普通の人は他人を見ると値踏みして、対応を変えていますが、そうした人を見るようなやり方はしなくなります。なぜなら、聖書の教えは、「主に対してするように」とあるので、出会う人の内にキリストを見ているように接するのです。私たちは、キリストに出会って人生がすっかり変わりました。主キリストにお仕えする者となったからです。ですから、クリスチャンは普通の人とは違っているのです。
12月2日(金)
これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。
命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。
箴言6:22、23
私たちは、聖書の価値をまだ正当に理解していないかもしれません。この世の人とは違っても、まだ本だと思っているかもしれません。しかし、クリスチャンに聖書が与えられているのには理由があって、それは、今日の聖句を読めば理解できるでしょう。確かに、聖書には力があります。信仰者にはその意味がわかるでしょう。聖書から人生の意味を教わり、生きる力を受けて、選ぶべき道を示していただいたのではないでしょうか。時に、時の人生は「目の前が真っ暗だ」とつぶやく日だってあるのです。辛いことや心配なことがあれば、たちまち暗くなってしまいます。ところが、聖書から神様は呼びかけてくださいます。まさに「光あれ!」です。主からくる光が心を照らせば、たちまち元気になります。心に力が満ちれば、また立ち上がることができます。聖書は霊的学校です。未熟な信仰の者を教育して熟達した信仰者に育てるのです。聖書以外の信仰書のようなものから何かを学び、励まされることもあるでしょうが、聖書には遠く及びません。聖書を何度も読み、線をひいたり、マーカーで色をつけたり、余白に書き込みをしたりと、自分ならではの聖書を作っていく楽しみもあります。そして、ボロボロになるまで使った聖書は、聖書のどこにどんな素晴らしい宝があるのか理解しているのです。これは、本屋では売っていません。世界でたった一冊の貴重なお宝です。今日も聖書があなたに話しかけてくるので、耳をそば立ててみてください。良いことがありますように。
12月3日(土)
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
ピリピ4:19
今日の聖句を読むと、人生は心配しないでもよいと安心できます。この世の人たちは、キリストを知らないので、あくせくと苦労して生きています。将来の不安を抱えている人はたくさんいます。私たちは、同じようにこの世界に生きていますが、信仰がありますのでそこに違いがあります。私は牧師なのでこの世の仕事をしていませんから、この聖句が真実であると証言できます。「必要をすべて満たしてくださいます」と書かれた通りだからです。何度も何度も、何年も何十年もこの通りであることを体験してきたのです。ですから、クリスチャンの皆さんがお金のことや将来のことで不安を抱えることのないように、主を信じていただきたいのです。あなたは、自分のお財布にいくらのお金が入っているかすぐにわかりますか。小銭も含めて、枚数もすべて主はご存じなのです。そして、財布にいくらあるか気にかけていてくださるのです。清貧であることをクリスチャンに求める人もいますが、それが良いとも言えません。人間が尊厳をもって生きるには、それなりの富も必要だからです。そこで、主はあなたの経済もお考えくださり、心配のないようにしてくださるのです。ありがたいことですね。神様を信頼して賛美しましょう。
12月4日(日)
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。
マルコ2:27
神様は天地創造の時に、第七日目に休まれました。そして、創造の記念日として人間に休むことを定めたのです。このおかげで、人間は七日ごとに休むことができるようになりました。十戒の第四条にも安息日を守るように定められています。イスラエル人は、忠実に守りましたが、イエス様の時代には、律法遵守がいびつになり、その本質を見失うようになっていました。そして、聖書時代にはキリスト教会も安息日を守っていましたが、時の経過で日曜日に変更になりました。それは、神様が決められたことではなく、人間が勝手に変更した結果でした。そのために、安息日のような神聖さもその趣旨も失われてしまったのです。しかし、聖書を読むことのできる人は、ユダヤ教徒のように安息日を休むのではなく、イエス様のお言葉の意味から安息日を見直しても良いと思います。イエス様がユダヤ人にお語りになった、「人が安息日のためにあるのではない」というのは、ユダヤ教ではそうなっていたということです。では、安息日の本来の意味は何であるか、それは「安息日は、人のために定められた」というお言葉にあります。これは、特に大事なところなので、集中して考えてみてください。神様の定めは絶対です。しかも、神様は人間のために必要なことを定めたのです。そうであるのなら、安息日は、今日でも人のためにあるのです。現代人を見ると、毎日忙しくしていて、安息を取ろうとしていないように見えます。週に一度は必ず安息を取る日が必要なのです。これを守れば、健康にもなり、人生は幸福に感じるでしょう。神様との交わりや兄弟姉妹間で互いに愛し合うのも可能となります。現代人は、休むことも必要ですが、上手に休めない人が多いのです。ですから、精神も肉体もすべて休むことができる安息日を特別な日とすることを意識することが大切なことなのです。安息日を教理の問題にしたり、日曜日でも良いとする人たちは、人間がどのように創造されているかを理解していません。特に神様が「人のために定められた」と言われたのですから、それを無視してはいけないはずです。安息日に隠されている恵みをぜひ、味わってください。よくわからない方は、安息日の主であるイエス様に祈って聞いてみましょう。どのような恵みが隠されているのかぜひ味わい知りたいですね。
12月5日(月)
主は憐れみ深く、正義を行なわれる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ。再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
詩篇116:5~7
信仰を持っていると神様の愛がだんだんわかってきます。神様の愛を実感する信仰体験へと導かれるからです。ところが、この世の中は矛盾に満ち、不正を働く者も珍しくはありません。ですから、クリスチャンでも油断していると足元をすくわれてしまいます。そのようなことが行われないように、主は正義を行なわれます。その正義は杓子定規なものではなく、愛の延長でしかありません。そして、神様は憐れみ深いお方なので、あなたのために、いつでも働いてくださいます。神様の情けぶかさは格別で、哀れな人を守ってくださいます。私たちが、仕事や人間関係などで弱り果ててしまうような時も、救ってくださるのです。神様を信じている人は、いつでも祈ることができます。その祈りは、天に届き、神様の良くしてくださる事を味わい知ることになります。信仰はいつでも応えられます。誰が、主は慈しみ深く憐れみに富むお方だと知っているでしょう。それは、困難に直面したり、人生に挫折しそうになった人たちや病気や失業などで失意の中にある人たちです。そんな時、私たちは自分に自信が持てずに悩んでいるかもしれません。しかし、主は生きておられるので、必ず助けにきてくださいます。そして、信仰に報いてくださるのです。ありがたいですね。
12月6日(火)
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
詩篇103:10
神様を誤解している人がいます。神様はいつまでも人の罪を思い返しては、怒り続けていると。聖書を読む読めば、そんなことはありません。「なぜならば、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである」(ヘブル8:12)ちとあるように、クリスチャンが罪を悔い改めて救われたのですから、その赦しは確実にあったのです。ですから、いつまでも過去の罪を気に病むのはおかしいことです。主に赦されたと信じることが信仰です。しかも、幸いなことに、主は憐れみ深いお方なのです。ですから、人間の弱さを理解してくださいます。その中で、罪を赦された者として正しく生きていけば良いのです。罪の大きさで、神様が人を分け、私たちに報いるなら、誰も生きていません。しかし、主は人を憐れまれ、大きな愛で生かそうとされています。ですから、悪魔の囁きに信仰をぐらつかせてはいけません。いつでも、神様の救いは完全であることを覚えましょう。良い神様で本当に良かったと感謝して、後ろを見ないで、前を見つめて良い人生を送ることです。神様の優しさはいつでもあなたを覆っています。安心して元気を出しましょう。
12月7日(水)
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分達のあかしの言葉のゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
黙示録12:10、11
黙示録を読むとわかるように、悪魔は私たちの告発者として描かれています。つまり、悪魔は、私たちが神様に罪を犯しているので滅ぼすべき者だと訴え、その罪の事実を告げていると言うのです。悪魔自身が人間をそそのかして罪を犯させているのに、その人間を神様に訴えて、神様が救おうとしている人間を滅ぼさせようとしているのです。悪魔は人間を愛する神様をも苦しめようとしているわけなのです。しかし、そのような悪意ある告発者をいつまでも放置しているわけではないのです。すでに、預言者を通して語られた通りに、悪魔は退けられ、投げ落とされることが決まっています。悪魔の敗北の日が定まっているのです。そこには、悪魔に打ち勝つクリスチャンの勝利があること、その勝利は、第一にキリストの十字架の血潮、第二に自分達の証しの言葉によっての勝利であることが書かれています。キリストの十字架による贖いは私たちが救われる時に信じました。事実、そのキリストの血によって洗い清めていただいたのです。そして、私たちの勝利は、証しの言葉によるというのです。つまり、私たちはキリストの証人なのです。キリストを証しし、神の恵みによって救われたことを証言するのです。キリストの出来事を語り、キリストは十字架で罪の贖いとなられて、罪と死と悪魔に勝利されたことを証言します。そして、三日目に死を打ち破って墓から復活したことを証しするのです。その復活の命を私たちもいただき、古き人には死にましたが新しい命に生かされていることを証言します。信仰の極意は、死に至るまで命を惜しまないことです。そして、彼らこそが義人なのです。私たちは、どのようになるかはまだわかりませんが、誰一人脱落者とならなずに、最後まで信仰によって生きたいものです。小羊の血はあなたを覆っています。勝利は確実であると信じて、信仰によって生きてまいりましょう。
12月8日(木)
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
ヤコブ1:12
社会人になれると、世の厳しさの洗礼を受け、大人の仲間入りをするわけですが、経験しなければわからないことは多くあります。長く生きれば、色々な人に会いますが、人格者と呼ばれるような立派なに人にはなかなか会うことはないでしょう。しかし、人格者にはなれなくても、一生懸命に生きればそれそれでは立派なものなのです。神様から見れば、どんな人も価値が高いのです。人間とは違って見ておられるのですね。それぞれにこの世に生まれてきた意味があるのです。ですから、人とは比べることはりません。偉くなるから良いというものではないのです。神様から義と認められるかどうかにかかっているのです。しかし、生まれたままの人は義からは遠い存在です。多少の努力でどうにかなるものではありません。そもそも、クリスチャンになれば、「信仰による義」と聞くのですが、それが何であるかもよくわからないでいるものです。それでも、イエス様を信じて救われたのですから、その後もイエス様は救いの行程を歩ませるのです。罪人を義人にする行程です。錆び付いた鉄屑を金に造り変えるようなものです。つまり、人間の常識では不可能なことなのです。しかし、主は私たちに信仰を授け、つまり、私たちが使える武器は信仰のみなのです。この信仰で、主の定めた道を進めば、義となれるはずです。具体的には、試練を与えることです。そして、今日の聖句を読めばわかるように、試練を信仰で耐え抜けば、天国の永遠の命が待っているわけです。では、耐え抜く方法は何でしょう。それは、愛です。神を愛する者になることです。愛は最後まで残ると言われている理由です。
12月9日(金)
どうか、虐げられた人が再び辱められることなく、貧しい人、乏しい人が、御名を賛美することができますように。
詩篇74:21
人間にとって大切なことは、尊厳を守られることでしょう。しかし、貧富の差が生じると簡単に尊厳は踏み躙られてしまいます。毎日の食事を欠かさずに食べることができると思っている人は幸せです。実際には、日本でも食事を食べることが経済的に厳しい人たちがいます。それぞれに事情はありますが、食べることは生きることなので、深刻にならざるを得ないのです。毎日食事をちゃんと食べることができない子供たちがいます。給食費を払えない家の子供たち、毎日同じ服を着なければならない子供たち、シングルマザーの家庭で一人帰りの遅い母を待っている子供たち。それは仕方ないと何もしない社会があります。私たちは、神様に造られたアダムの子孫です。ですから、愛することを教えられなくても知っています。でも、知らない人の話しだと無関心でいることができるのです。初代教会が初期の頃、教会員は自発的に教会に献げ物をして、必要な人が自由に持って行けるようにしました。それは、お金でも食べ物でも着物でも、必要を満たせるものがありました。どんな時代でも持てる人と持てない人がいたのです。貧しい人が困って物乞いをしたら恥ずかしいでしょう。そういう人を蔑む人もいますから、辱められるわけです。皆さんは、聖書を読んで貧しい人たちを助けなさいと書かれていることを読んでいると思います。この世界がどれだけ発展しようとも、貧しい人たちはいなくなりません。それでも、キリスト教会は、そうした人たちを助けようと働いてきました。食べ物を分け与えることは特に重要な働きです。クリスチャンが貧しい人、乏しい人を助け、虐げられている人が再び辱められることのないように奉仕するなら、彼らは主の御名を賛美するでしょう。このような奇跡が二千年も続いてきたのです。「この小さな者の一人にしたことは、私にしたことなのだ」とキリストはおっしゃいました。だから、クリスチャンは小さき者を助けてきたのです。私たちにできることはきっと何かあるはずです。主の御名が賛美されますように。
12月10日(土)
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
詩篇103:11
不思議なことに、御言葉を読んですぐに信じて感心し喜びを表す人と、そうではない人がいるのです。どちらが幸せでしょう。それは、前者でしょう。どうして、このように別れるのかわかりません。イエス様も幼子のような者が天国に入れると言っているぐらいですから、単純に信じられる人の方が良いのでしょう。では、今日の御言葉はいかがでしょうか。天が一体どこまで高いのか想像もつきません。とにかく果てし無く、ものすごく高いということでしょう。それと同じように、主の御恵みが大きいというのです。それは、もちろん、主を恐れる者の上にです。私は、この「主を恐れる者」という人が、初めに話した、御言葉を読んですぐに信じて感心し喜びを表す人のことのよう思います。神様に関しては、このようにすぐに信じる人が恩寵を直接受けているのです。この人は、毎朝、まず神様に感謝しているでしょう。すべてのことが神様の御恵みと感じるからです。そして、聖書は死を眠りと書いてあるので、朝、目覚めると、今日も主が生かしてくださった、と感謝するわけです。主を恐れていることは、祈りでわかります。讃美歌のように神様の御恵みを数えるというよりも、ことごとく神様の御恵みであると思っているので、住む家が与えられていることから、持ち物から、平和であることも、何もかも主の御支配の下にあるからだと認めているのです。神様に愛されているので、心を尽くし、思いを尽くし、精神をつくし、力を尽くして主を愛することが、自分が生きていることなのです。クリスチャンとはそういうものなのです。その人の受ける主の御恵みはとてつもなく大きいのです。信仰がなければとうてい受け取ることなどできないでしょう。ですから、小さな信仰にならないように気をつけましょう。自分の考えで勝手に主の御恵みを小さくしてはいけません。ありのままに、制限せずに受け取ることです。それほどに、あなたには価値があるということです。主の御名を褒め称えましょう。
12月11日(日)
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私の命のとりで。だれを私はこわがろう。たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。
詩篇27:1、3
戦国時代に戦争になると、農民たちは戦闘員として参戦しなければなりません。彼らにしてみれば、いい迷惑です。プロの兵隊と戦わせられるのですから、恐ろしくて逃げ出したいでしょう。実際、一人でも怖気付くものがいれば、その部隊に穴が開き、負け戦になってしまいます。そこで、侍大将は彼らを恐怖で縛るのです。敵よりも自分達の侍大将の方がよっぽど恐ろしい、と思わせて戦わなければ、戦力にならなかったのです。私たちは、霊的戦いに置かれていますが、侍大将などいません。敵は悪霊の軍団であっても、それに操られた人間であっても、恐れません。恐れたら、その時点で負けてしまうから、戦う前に勝敗が決してしまうのです。しかし、今日の聖句を読めばわかるように、私たちには主がついておられるので、恐れなくてすむ理由です。主は命の砦なのです。私と闘うものは、主を敵に回すのですから、勝敗はいつでも私の勝ちです。主にかなうものなどいないのですから。職場でも、学校でも、自分の住む町でも、どこにいたとしても恐れなくていいのです。そうであれば、冷静に堂々としていられます。だから、判断も間違えません。たとえ、脅かされることがあっても負けません。主は、時には私たちの信仰を鍛錬するために、試練に合わせることはあっても敵に渡すことはありません。どのような敵であろうと私たちを脅かすものを容赦しません。ですから、私たちは主を信じているので恐れないのです。
12月12日(月)
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、なんでも与えられます。
マタイ7:11
祈りは誰でもすぐに祈れるのですが、どのように祈るのかは個人によって違いがあります。祈りの賜物が与えられている者は、祈りを教えてもらう必要はないでしょう。聖霊が祈りの教師です。クリスチャンになって、祈りが重要であることはだんだんわかってきます。先輩の祈りを真似したり、牧師の祈りに影響されて、やがて自分の祈りができてきます。それでも、何かが足りないと思う人や、祈りが聞かれているのかどうかわからないと思っている人が出てきます。大切なことは、自分勝手に考えるのはダメです。聖書に書かれたことから学びます。そして、今日の御言葉も、示唆に富んでいます。祈って、意味を考え、主に理解と確信をいただきます。そして、実践することです。祈りの達人になって、歴史に名を残すようなことは必要ありません。普通でいいのです。祈りの達人でなくても、信じる者ならば誰にでも御言葉は有効です。そこで、御言葉を注意深く読む必要があります。「信じて」とありますから、信仰を持っているあなたにはできるはずです。早速試してみましょう。慌てずに、落ち着いて、何を求めるか考えてみましょう。楽しい時間となるでしょう。
12月13日(火)
主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちをご自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊く素晴らしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
Ⅱペトロ1:3、4
自分の信仰の拠り所は聖書であると信じる人は、今日の御言葉をじっくり考えて理解していただきたい。皆さんは、主イエスによって救っていただきました。なぜなら、罪人を人間は救うことができません。神だけが救う力を持っているのです。今日の聖句を読めば明らかですが、主イエスはご自分の神の力によって、あることをしたというのです。それは、「命と信心とにかかわるすべてのすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」と書かれています。私たちを救うのに、必要なものはすべて与えてくださったのです。主イエスが与えてくださるまで、信仰も不完全だったし、無かったという人もいたでしょう。命に関しては、考えもしなかったのです。生きていると思っていたからです。霊的には罪によって死んでいたのに、わからなかったのです。そのような人を救うのは大変困難です。罪人をはい救いました、とはいきません。罪の問題を解決しなければ、命を得ることができないからです。その困難な大問題を解決できるのは主イエスだけでした。ただ、人間の側にもやらなければならないことがありました。私たちはそれを信仰による義と呼んでいますが、簡単に言えば、主イエスが罪を贖い、復活の命を得る道を開かれたので、それを信じて十字架に死に、復活の命に新しく生きることを信じることが私たちの責任です。その命と信心とにかかわるすべてのものを、主が与えてくださったのです。だから、できるのです。では、なぜ、そのように与えてくださったのでしょう。それは、このようにして召し出してくださった方がいるので、その方を認識させるためだったのです。だから、あなたは、主イエスを信じて、罪からの赦しと解放も信じて、キリストと同じ復活の命に生かされていると信じているのです。誰が、自分の救い主であるか、唯一の神であるか分かっているのです。あなたの心配は、キリストのように聖なる完全な者に慣れるのだろうかというものです。何年経っても信仰に成長し、完全になったと言えないと心配になっているのではないでしょうか。ある人は、今日の聖句に書かれていないのに、律法を遵守しようと頑張ったり、人前で聖なるクリスチャンを演じているかもしれません。愚かなことです。あなたがキリストのようになるのに必要なすべてのことはすでに与えられているのです。この世がどれほど退廃しても、影響されずに「神の本性にあずからせていただくようになるためです」。つまり、信じることです。自分の中に既に目指すキリストのようになることが可能となる必要のすべてが既に与えられているということを。あなたにもできるのです。難しくありません。あなたはキリストを信じています。だから、大丈夫です。
12月14日(水)
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
イザヤ12:2、3
旧約聖書には、心に直に触れてくるような文章が多くあります。イザヤ書にも素晴らしい御言葉が綴られています。今日の箇所は、信仰者とはどのようなものであるかをよく表しています。まずは、「神は私の救い」と言い切れることです。このように信じているのであれば、ご利益宗教のように、あれをくれ、これをくれ、と願う対象とは思わなでしょう。何よりも重要なことは、救いなのですから。救いと言っても、いろいろな救いがあります。危険から救ってもうらうこともそうだし、悪い病気になれば命を救って欲しいと思うだろうし、自分の罪を示されたなら罪からの救いが何よりも大切になります。平和であろうと危機的状況だろうが、実は罪の問題に比べれば大したことではありません。罪は、放置しておけばかなず死にます。しかも、地獄へ行くことになります。これ以上の恐ろしいことはありません。ですから、罪からの救いは他に比べることのできない価値があるのです。さて、クリスチャン生活を送っている皆様は、罪の問題は解決済みですか、それともいまだに天国へ入れるかどうかわからないと密かに恐れていますか。恐れは不信仰なのでまずいです。「私は(神を)信頼して恐れることはない」というのが正しい考えです。自分自身の力で自分を救えないことが分かったなら、主の御力で救っていただくことです。自分には力が無いと言う人も、信仰が与えられているので、「主は、私の力」と告白することです。主のことを考えるとどうしても感謝が湧いてきます。主は、罪人の自分を見捨てないで、探し出し、主が私の罪の責を身代わりに受けて罰として死んでくださったのです。ですから、私は何もしていないのです。ただ、主が私たちを愛して、命懸けで救ってくださったのです。ですから、私たちは主を賛美します。「私のほめ歌」なのです。この救いは命の泉のように生きるための水をいつでも与えてくれます。それを汲むことも喜びなのです。水は聖霊です。クリスチャンにはしか飲めない水ですね。面白いことに、例えば溺れている人を救うのはその時一回出会って、救えばおしまいです。でも、主が私たちを救われるのは、その時だけではなく、私たちが洗礼を受けてから死ぬまで続くのです。だから、泉から水を汲むようだと言っているのです。救われて生きる者は聖霊を飲んで聖化して行くのです。しかも、喜びながら生きて行くのです。
12月15日(木)
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
ヨハネ16:27
キリスト教の良いところは、愛の宗教だというところです。まず、神様が愛してくださり、その愛に気づいて愛に癒され、今度は神様を愛する者になれるところが良いところです。罪の性質は自己中心なので、自己愛はあっても、隣人に同じような愛を向けることがないのです。あくまでも自分に都合の良い愛しか知らないのです。それが、無条件に神様に愛されました。神様の愛は裏切りません。信頼しても安心です。神様の愛の力は、私たちを心から安心させ、この世の人々に対して身構えていた固いヨロイのようなものを脱ぎ捨てさせる力があるのです。この心の中のヨロイは幼い時から対人関係で傷つきながらできてきた自己防衛の手段なのです。これを脱げるのは、何があっても愛し抜かれる主イエス様の愛が心に届いたからです。私たちは、主イエス様が誰であるか知っています。主が私たちを愛されたというのは、十字架におかかりになった事実が物語っています。主が愛された私たちが罪によって滅んでしまわないように、永遠に愛することができるように、罪の贖いを自らを犠牲にして成し遂げたということです。ここに愛があります。ですから、私たちは主イエス様は人となられた神様の独り子であると信じています。このように私たちは、主イエス様を愛しています。そして、そのおかげで、天の父なる神様にも愛されているのです。私たちの内に住まわれている聖霊は「アバ父よ」と呼びます。それは、私たちの心の声と重なっています。愛の奇跡が起こっているのです。私たちは、完全な救いにあずかっているのですが、それは、驚くことに神様に愛されているからです。この愛の不思議は、あなたの経験することです。そのために、信仰を働かせなさい。今なら、神様を愛していると心から思えるでしょう。主イエス様、愛していますと何度も言いましょう。聖霊様、愛することは喜びですと喜んでみましょう。愛の奇跡はいつでもあなたによって始まります。
12月16日(金)
あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。
詩篇31:19、20
讃美歌で、慈しみ深き♪~と歌うことが喜びとなるのを知っている方は、一生をかけてそれを体験することになります。私たちには、逃れ場があります。主のみ前に逃げ込めるのです。この世で生きていれば、悪く言われたり、辛い目に遭うこともあります。自分を傷つける全ての者から、主はあなたをかくまってくださいます。私たちは、この世の愚かな争いから遠く離れた者なのです。人は時にストレスの原因にもなります。ですから、主は互いに愛しあえ、と掟にしたのです。それにしても、私たちの舌は厄介です。主を賛美したかと思えば、簡単に悪く言ったり、人を批判したりできるのです。私たちは主イエス様に似た者と呼ばれているのです。ですから、愛の言葉だけを語れたらどんなに素晴らしいでしょう。人を思いやり、励まし、愛することは、私たちの特権です。主の慈しみを味わって、人に優しい者として生きていきたいですね。
12月17日(土)
人はその口の実によって良いものに満ち足りる。
人の手の働きはその人に報いを与える。
箴言12:14
人の言動が良いならば、良い結果を生じる。つまり、その人の才能や生まれや学歴などよりも、その人の心がけ一つで人生は良くなると言うのです。特に、第一には口ですから、自分がどのように話しているか、どのような言葉を選んでいるか、どのような言葉もいったん口から出てしまうと、何かしらの結果を生むことになります。それが否定的な言葉や消極的な言葉であれば、そのような結果がついてくるわけです。その反対に、肯定的で積極的な言葉であれば、そのような結果が伴うわけです。さらに、御言葉を読むと、「口の実によって良いものに満ち足りる」とありますから、想像以上に良い結果が想像できます。例えば、隣人に愛の言葉を語れば、どのような結果になるかは想像しやすいと思います。また、自分を変えたいと望む人はいるでしょう。その場合も、自分がどんな言葉を語っているか注意しましょう。自身のない人は、自信がある人のように語りましょう。うまくいっていないと思う人は、嘆かずに、うまくいっている人のように話すのです。意識せずに自然に言えるようになるまで、意識的に気をつけて話します。人を傷つけるような言葉は決して話してはいけません。人を幸福にする言葉を考えてみましょう。また、自分を幸福にする言葉をいろいろ試してみましょう。「人の手の働き」は自分が何か働くことを意味しています。多くの人が会社で働き、その報いとして給料をもらいます。人のために何か良いことをすれば、感謝されるでしょう。それも報いです。人を喜ばすことをすれば、自分も嬉しくなり報われます。年末に大掃除をするのも、報われる仕事です。このように、良いものに満ち足り、報いを得る生活は幸福だと思います。つまり、幸福は自分次第ということなのですね。
12月18日(日)
けれども、もし私が前にうちこわされたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。しかし、私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
ガラテヤ2:18~20
クリスチャンの特殊性は、一度死んでいることです。特に宗教的には律法によって律法に死んでいるということです。律法という言葉が使われているので、自分の罪の問題で死んでいることがわかります。律法を守ろうとしても、守れない自分、つまり罪人の自分が出てくるのです。律法に従えば、死に値しますから、死ぬ以外に道がないのです。でも、死にたくはありません。もし、罪の問題が解決すれば、死ななくてもよくなります。その問題の解決がイエス・キリストによって実現しました。主イエスは、私たちの罪の贖いに自らの命を差し出し、十字架で死なれました。そして、驚くことに、この十字架に私たちも罪人としてつけられたのです。釘でしっかり打ちつけられたのです。キリストが死なれた時に、私たちも罪人として死んだのです。それが洗礼の時に信仰によって実現しました。ただ、死んだだけではなく、キリストの復活の命にあずかって、私たちにも新しい命が与えられたのです。それは、聖霊が私たちに降り、キリストの御言葉通りに、キリストは私たちのうちに住まれたのです。このような救いを誰が考えることができたでしょう。神の愛は、自己犠牲の愛だったのです。キリストは、私たちが罪に勝利できるように、完全な救いを与えてくださいました。ですから、肉に従うような生き方ではなく、聖霊に従う生き方を覚え、キリストと共に生きるのです。それは、キリストの愛に応え、御子を信じる信仰によって生きる者となったのです。悪魔は、この信仰を攻撃し、滅びへと落とそうとしています。しかし、聖書を与えられたので、私たちは、自分がどのような者とされたのかを知っています。そして、何を信じれば良いのかを示されているのです。信じる者の報いは驚くほど大きいのです。主イエスから目を離さないで、天国への旅路を完走しましょう。
12月19日(月)
異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。
エレミヤ14:22
あなたの神様は、とてつもなく力のある神様です。それは、天候すら自由自在に変えられる力をお持ちだからです。世界中の人が毎日食事をとることができるのは、神様が作物を育てて食べることができるようにしてくださっているからです。一年間に世界中に降らせる雨の水代を計算したら、とんでもない巨額になって、億とか兆とかでは足りませんせん。それほどの巨万の富を自由に与えることのできる神様があなたの主です。そして、あなたの神様はあなたを子供にしてくださいました。イエス様と一緒に相続者にしてくれたのです。その神様があなたに恵みをケチるようなことがあるはずがありません。あなたが必要ならば、大雨を降らせることができる神様が、あなたが経済的に困っても知らん顔するはずがありません。信仰の訓練でお金に困ることがあるかもしれませんが、そういうことは普通ありません。その逆に、必要なお金はどこかから送ってきて、ちょうど足りたというようなことはあります。天から恵みの雨が降るように、経済的にも恵みの雨は降るのです。そのことが分かると、困った人を助ける機会が巡ってきます。その時には、分かりますから、あなたは与えることができるのです。そすれば、あなたの元へ天から富が降っています。与えれば与えるほど、経済は豊かになります。神様の不思議の一つです。ですから、経済で悩まないでください。信仰を働かせて天からのお恵みを感謝していただきましょう。
12月20日(火)
主に望みをおき尋ね求める魂に
主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
哀歌3:25、26
クリスチャンの生き方は、少し変わっている。何か問題が起これば、普通は誰でも自分が誤解されているのなら誤解を解こうと必死になるし、困ったことが起これば誰かに助けを求めて必死になる。ところが、クリスチャンは普通の人がするようにはしないのだから変わっている。その人は、祈る。そして、自分の力ではどうすることもできないと悟ると、黙って主の救いを待つのだ。それがいかに困難なことであるかは実際に非常事態に陥らないと理解できないかもしれない。クリスチャンは主を信じているので、主に望みを置く。もちろん、そのことを主に伝えようと祈るのだ。祈りきると、もう思い悩むことをやめて、黙して主の救いを待つだけだ。不思議なことに、不安は消える。主は、聖書に書かれている通りに、御言葉を守り実行する。だから、幸いを得ることになる。信じてよかったと思えるし、自分を幸福な者だと実感するわけだ。何か問題が発生したら、感情的にならないで、できるだけ冷静に対処し、それでも解決できなければ、一生懸命に祈ってみることだ。確信が持てるまで祈り、あとは黙って待つと、果たして主はどのように助けてくださるのかを知ることができる。その時のありがたさが幸いの中身だ。
12月21日(水)
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
ガラテヤ4:6、7
聖書に書かれていることはすべて信じることができます。その中には、すぐには理解できないようなことも書かれています。すぐに理解できなくても、それだからダメだということはありません。信仰は日毎に成長し、難しくてわからないと言っていた御言葉が理解できるようになることは珍しくありません。確かに、主イエスは、御言葉は霊であり命だと言っていましたから、理性だけでは深い解き明かしができないと感じるのです。しかし、信仰者が祈って聖書に向かい、心に引っかかる箇所を繰り返し読み、真理の御霊の解き明かしを求めると、突然分かることがあります。この真理の御霊を遣わす約束は主がなさりました。その実態はいかなるものであるかと気になりますが、今日の聖句を読むと、「神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」とあります。「奴隷」と書かれているのは、罪の奴隷、死の奴隷、そして悪魔の奴隷だったからです。どれ一つ自力で逃れることができなかったからです。しかし、主イエスが救いに来てくださり、人智を遥かに超えた方法で私たちを救ってくださいました。福音を信じ、主イエスを信じて、霊的には私たちも死に、新しい命に生まれたのです。それは、神の子にしていただいたということです。それゆえに、御子の御霊を私たちの内に遣わされたのです。これで、神の子であることが確実になり、神による相続人となったのです。ですから、御子の御霊と一つになって、真心から「アバ、父よ」と祈ることができます。当然、信仰が必要となります。主イエスの恵みと信仰のみで、この奇跡の救いが実現しているのです。
12月22日(木)
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
慈しみとまことは出会い
正義と平和は口づけし
まことは地から萌えいで
正義は天から注がれます。
詩篇85:10~12
「主は平和を宣言されます」と今日の聖句の前に書かれています。それは、主が怒っておられたからです。聖書を読めば、イスラエルの民が神様を怒らせてばかりであることがわかります。みなさんがピンとくるのは、彼らが主を裏切って繰り返し偶像を拝んだという事実です。それは、主の「激しい憤り」となりました。姦淫の罪と同じだと言うのです。それほど主を怒らせる偶像とは何でしょう。確かに、クリスチャンは仏像のような偶像を拝まないように細心の注意を払っています。しかし、それほど単純なことでは無いようです。例えば、エデンの園で蛇がエバを誘惑した時に、エバは神様の言われた言葉ではなく 蛇の言うことを信じました。その実を食べても決して死なない、目が開けて神のように善悪を知るものとなる。これらのどれが偶像でしょうか。すべてです。まず、神様の教えを否定するような言葉は聞くべきではありませんでした。嘘偽りが見抜けないのは、自分の中に欲があって目を塞ぐからです。そして、「女が見ると、その木はいかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創世3:6)。罪の問題は、人間が神のごとくになりたいと思うことの中に潜んでいます。その理由は、主を畏れていない、ということです。ですから、私たちは罪を示され、悔い改めるように導かれました。主を畏れることを学んだのです。そして、「主を畏れる人に救いは近」いのです。その意味を考えておきましょう。
12月23日(金)
同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。
申命記23:20、21
「同胞には利子を付けて貸してはならない」という律法は、知っているかもしれません。私たちの生きる現代では、借金には利子が必然であることを誰でも知っているでしょう。今日も金利のニュースが流れていましたが、住宅ローンの利子はどうなるのかと専門家が話していました。聖書通りだと、日本人に日本人がお金を貸しても利子を付けてはいけないことになります。しかし、元々の聖書の意味は少し違っています。この利子の話は、イスラエルの貧しい人が生きていくために必要な最低限の借金に利子を付けてはならないと言っているのです。借金はそのような貧しい人しかしなかったからです。一方、外国人には利子を付けてよいことになっているのは、その外国人とは貧しい農民ではなく、貿易商人だったからです。この聖書時代には、商業的な借金はまだ存在していなかったのです。ところが、後の時代になってキリスト教が出来て、ヨーロッパを中心にキリスト教が広まり、キリスト教の考え方が一般化されていく中で、利子を取って同胞に金を貸すことはならない、とされていたのです。しかし、商売をする上では金融は不可欠です。特に外国との貿易のような大きな商取引では金融なしには考えられません。ヨーロッパで経済活動が発展して行く過程でユダヤ人は、当時の利子を取ってはいけません、という価値観の中で利子が付く金融は汚れ仕事だったのです。だから、差別されていたユダヤ人にもっぱらその仕事が任されたのです。ユダヤ人たちは、地中海沿岸を中心に独自のネットワークを築いて、長年の間に築いた金融の経験と知識を生かして、商社のような役割をこなして巨万の富を築いた人も出現しました。そうなると人々は、ユダヤ人が汚れ仕事をする者と蔑んでいたのに、必要に迫られてユダヤ人の金融を利用せずにはいられなくなり、実際に助けられていたのに、金貸しで儲けているユダヤ人を憎むようになるのです。日本でも、士農工商の身分制社会でしたが、大名でさえ商人に金融で支えられるようになりました。ですから、時代劇で越後屋とか商人は悪者と決まっています。金利を取って金儲けする者を嫌う人間心理なのでしょう。さて、問題はどこにあったかといえば、聖書はあくまでも、弱者を助け、自分を愛するように隣人を愛する、という原則を人間の営みすべてに適用しようとしていたということです。それが、キリスト教は貧しい者だけでなく利子を禁じたために、おかしなことになったのです。時々、聖書を誤って理解する人がいますが、私たちも本質を見損なうと、良かれと思って神様の御心とは違ったことを始めるので、注意が必要です。
12月24日(土)
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
ヨハネ16:13
真理といえば急に難しく感じます。哲学のように聞こえ、結局よくわからないことではないかと感じるのです。しかし、ヨハネの福音書では、真理を真実と読み替えると意味が急にわかってきます。「真実の御霊が来ると、あなたがたをすべての真実に導き入れます」と読めば、真実の御霊は、私たちの救いに関する本当のことが理解できるようにしてくださる、と読めてきます。この真実の御霊、あるいは聖霊は、クリスチャンに深く関わってくださいます。その人に霊的感受性があろうがなかろうが、真実をわからせようとされるのです。例えば、ナザレのイエスという人がメシアである、と分かるのはこの聖霊の働きが大きく関わっているのです。聖霊の不思議は、人間にはよくわからないでしょう。しかし、実際にクリスチャンに働きかけて神の子として生きる命になってくださったり、心の中に留まっていて下さったり、話しかけたり、霊感を与えたり、祈りを導かれたり、霊の賜物と言われる特別な力を与えて下さったりします。「聞くままを話し」とあるように、聖霊が信仰者の内に働いて、信仰者も聖霊に語られたことを預言としてそのまま語ることも起こるわけです。しかし、私たちの理解を遥かに超えて聖霊は、私たちの霊的生命となって、信仰によって大きく働かれます。世俗の考えに染まった人には全く理解できない存在です。彼らには聖霊は現実ではなく、教理のように理屈でしかないのです。これは、とても残念なことです。片方では、聖霊の語りかけを聞いたり、不思議を体験している人たちがいるのです。願わくば、聖書を疑わずに、書かれた神秘を自ら体験したいと信仰を表すことも大切です。マリアが天使ガブリエルから語られたことを、信仰で受け止めたように、そして、イエスを身籠もりキリストの母となったのです。
12月25日(日)
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
詩篇34:18、19
正しいから悩みはないだろうと考えるのは間違っています。その逆で、正しいからこそ悩みは多いのです。私たちは、クリスチャンであるから正しく生きなければ、とどこかで思っているのですが、正しく生きることは、そんなに簡単なことではありません。独りよがり、と言われてしまうような正しさは悪いだけではなく人を傷つけてしまうかもしれません。それに、男性と女性では脳が違っているそうですから、お互いの正しいことが微妙に違っているかもしれません。少なくとも、女性が共感を求めて話していることを男性は問題解決を求められていると思ってしまいます。だから、間違ってしまうのです。さて、クリスチャンの問題では、「古い人が死ぬ」という表現でクリスチャン以前の罪人の自分が死んでいなくなることを信仰で実現しなければなりません。もちろん、人間の努力でどうにかなるようなことではありませんから、キリストの十字架に解決の力があると信じてすがることになります。ところが、自己に甘いのが人間ですから、ご都合主義のように古い人を捨てたと思ったら、また取り戻す、といったような状態になります。そこで、神様の取り扱いが始まります。それは、「心を打ち砕く」といった表現がぴったりなことが起こるのです。しかも、神様に困って助けを求めていけばいくほど、自分の罪の問題がはっきりしてくるので、「ああ、古い自分が砕かれているのだ」と理解できるのです。主に悔い改めて、魂が砕かれたことを賛美するようになります。なぜなら、主は砕いたままにはしないからです。その者の真の救いのために必要なので、あえて働かれているからです。それが分かると、試練が自分に益をもたらすことも、信仰のなんたるかがわかり始めるということも、悟れるようになります。ですから、もし、悩みの中にいる人は、主に悩みの本当の意味を教えてくださいと祈ってみるのです。聖霊は、必ず教えてくださいます。自分が認めたくないことでも、心が砕かれて認めることができるようになります。そこに、救いがあります。主はあなたを救うと決めているので、完全に救われます
12月26日(月)
しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。
このディボーションを読まれている方は、今日の聖句に書かれた「恵みによって選ばれた者」です。エリヤは、預言者が皆殺されて、もはや自分一人が残されたのだと理解していました。だから、神にそのまま訴えたのです。すると、神の答えが、今日の通りに与えられました。神に忠実な信仰を持ち続けるなら、その報いは大きいのです。たとえ迫害が起こっても、主はすぐに忠実な信仰を持つ者たちをかくまうのです。皆様は、そのように神に守られています。では、なぜ、神はあなたを選んだのでしょう。決して、行いではなかったのです。あなたよりも立派な人はたくさんいたでしょうし、正しい行いをあなたにお求めても、限界があります。それよりも、神はあなたを愛し、恵みによって救うと決めているのです。どうして、と聞かれても、恵みで、としか答えようがないのです。ですから、この世で、神に愛されている者、と自覚して生きてください。あなたが元気で幸せに暮らすことが神の御心にかなっているのです。だから、今日も笑顔で一日を始めましょう。あなたは、自分が恵みによって選ばれた者、と言ってみると良いのです。きっと、何でも上手く行きます。
12月27日(火)
にわかに起こる恐怖におびえるな。
悪者どもが襲いかかってもおびえるな。
箴言3:25
今年のサッカーW杯は、日本人に勇気を与えてくれました。およそ、対戦型のスポーツや武道では、鍛錬や技術もさることながら、精神力が大きくものをいうのです。つまり、敗戦した選手が試合後にメンタルの弱さで負けたと言うことがあります。今でこそ、技術コーチだけでなくメンタル・コーチも雇うことになっているのです。さて、今日の聖句はずいぶんおかしいと思われませんでしたか。「にわかに起こる恐怖に怯えるな」と言われても、恐怖は勝手に起こり、その恐怖は人を怯えさせるものだからです。自分で怯えようとしているわけでもないのに、「怯えるな」と書いてあります。さらに、今度は、もっと具体的です。「悪者どもが襲いかかっても怯えるな」というのです。襲われたら誰でも怖くて怯えるのではないでしょうか。それなのに、「おびえるな!」と主は言われます。主は、間違わないので、「おびえるな!」と命じられているのなら、「おびえない!」と自分で言ってみましょう。心の内で言っても効果がなければ、声に出して言ってみましょう。それでも足りなければ、叫んでみましょう。信仰によって「私はおびえない」と決めるのです。勝負は、これだけです。決勝に駒を進めたチームのエースがPKを決めて勝利を引き寄せる活躍をしました。その選手が試合後のインタビューに「緊張しなかった。リラックスして蹴ることができたので、得点できた」と語っていました。彼も、今日の聖句を実現していたのです。日本人選手は、PK戦になった時に最初の選手から失敗してしまいました。彼は、「緊張した」と言っていました。そして、他の選手も失敗し、「緊張した」と言っていました。「にわかに起こる恐怖に怯えるな」という聖句を知っていたら、緊張を克服することがきっとできたのに、と思います。どうでしょう。みなさんは、この聖句の力を試してみたいと思いませんか。信仰は、神様の御言葉を疑わずに信じることです。信じた証は、御言葉をそのままに実践することです。きっと、大事な場面で勝利する者になれます。
12月28日(水)
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
コロサイ3:14
あなたの自己像、セルフイメージ、自分とはどのような者なのか、それを主はハッキリと神に選ばれた者、聖なる、愛されたいる者として断言している。神の選びは、間違いがない。あなたは、この世に何のために生まれてきたのだろう。生まれ育ちの環境によっては、自分に自信を持てなくなる人もいる。自分が嫌いで、性格が悪いからうまくいかないと思っている人もいる。しかし、本当はそのような考えは正しくない。どんな性格でも良い人生を送ることができる。しかし、暗闇と聖書に書かれているこの世界では、自己理解がかなり否定的に捉えられているのが現実だ。そのような中、ある日、神があなたを選ばれる。あなたの素晴らしいところは、その神の召命にみごと答えたことだ。何が良くて選ばれたのかはわからない。しかし、主に目以上に確かなものはないから、あなたは主の目に値高い者なのだ。主の招きは本人にわかるように来る。それに、応える者は永遠の命を得る。その価値がわからない人がこの世には多い。そして、人間が勝手に思っていることとは大きく違って、人は主を信じて洗礼を受け、聖霊の注ぎを受け、聖霊の力と信仰でキリストに似た者へと造り変えられて行く。それは、主の御力によって聖なる者とされるのだ。人間の努力では決して到達できない聖なる者に信仰で変えられるのだ。さらに、クリスチャンの素晴らしさは、神に愛されている者と呼ばれることだ。事実、そうなのだから神の愛の力で奇跡的に神の子に帰られるのだ。神を愛することができる喜び。誰にも邪魔されることはない。クリスチャンは、神に愛され、神を愛して生きて行く。アガペーの愛が人の心を良いものへと育てて行く。これもまた、感謝なことだ。さて、そのような神の側からの働きがある一方、クリスチャンの側にも目指すべき徳目があるのだ。それが、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容だ。これらは、聖霊の実としてガラテヤ書に書かれている。つまり、これも聖霊のお働きによるのだが、「身に着けなさい」と命じられているので、信仰で目指すものなのだ。
12月29日(木)
主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。
詩編121:7、8
クリスチャンの人生は主の見守りの中にあります。ですから、人生はより良いものとなります。子供が小さい時に、「見てて、見てて」と自分を見ているように何度も言っていたことを思い出します。私たちは自分に愛情をかけてくださる方に見てて欲しいのでしょう。残念ながら、罪の問題が影をさすと見て欲しく無くなるのですが、本質的には、見守っていて欲しいという欲求があるのです。特に大切なのは、魂の見守りです。これは、誰でもができるというようなものではありません。本来は親や教師などが気にかけるかもしれませんが、やはり、神様の役目なのだと思います。全能の神様が信じる者を気にかけていてくださり、それは、人生の全てに及ぶのです。家を出てから帰るまで、すべての危険から守っていてくださる主。ありがたいですよね。では、見守られている人は、どのように生きるのでしょうか。見ていてくださる主に、見ていて欲しいと願いながら生きるのです。それは、「主のために生きる」という信仰の極意そのままなのです。
12月30日(金)
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ2:10
私たちの特徴は、神の作品であることです。しかも、良い行いをするためにキリストにあって造られた、というのです。そうであれば、私たちはこの世界にあって役立つ存在です。神様が認める良い行いができるのですから、自信を持って生きるべきです。良い行いが具体的にわからないと心配する必要はありません。そもそもの良い行いを主が備えてくださるからです。できないような無理のある良い行いではありません。私たちにとって心地よく、やりがいがあって、しかも自然なので疲れません。人に見せるためだけの良い行いではありません。それでは偽善になるから間違っています。神様の御目にかなう良い行いです。まず、わかりやすく言えば、「祈る」ということも良い行いになります。「礼拝する」ことも良い行いになります。それに、自然と出てくる良い行いは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22、23)です。これらは、聖書には「霊の結ぶ実」と書かれています。つまり、御霊の実のことです。信仰者は、信仰によって生きるので、聖霊がその人の新しい命のように働いて、キリストのような人を生み出しているのです。私たちが神の作品であることを感謝しましょう。
12月31日(土)
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
ピリピ3:9
クリスチャンとは、今日の聖句によれば、「キリストの中にある者と認められ」た人のことです。さて、この世の中で最も嫌なことは、独裁者の支配のもとで自由を奪われることです。聖書は面白いことに、キリストが私たちに自由を与えたと教えています。それは、罪という独裁者によって支配されていたからです。それだけではなく、死からも自由ではありませんでした。クリスチャンはキリストが復活し、死に勝利されたので自由になったのです。悪魔もこの世の王であると豪語しているのですが、確かに悪があり、人々を不当に苦しめています。悪魔は人間を奴隷のように考えているのです。しかし、キリストが来られました。私たちを見つけて救うために、しかしそれは、キリストが罪の贖いとなって十字架にかかられることを意味していたのです。ですから、私たちは罪を悔い改めて主を信じただけで救われるのです。それを、「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義」と言います。そこで、私たちは主を信じることを第一に考えています。それも、ただ信じる義だけではなく、十字架にかかって犠牲となっても愛され続けた主の愛に応えて、主を愛する義なのです。そこで、主によって与えられた自由をどうするかが問われています。私たちは聖霊に従う自由として、そこに信仰を向けているのです。