2月1日(火)
さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。
そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。
ヨブ22:21、26
聖書は誰でもが読むことができます。ですから、聖書を伝道のために人にあげたりするのです。しかし、聖書の質問を受ける時に、日本語の問題なのか、それとも詩的表現や比喩など文学的な問題なのか、わからないと聞く人たちが若い人に増えているように思います。確かに、私も明治時代に書かれた文章は日本語としておかしいと感じてしまうことがありますから、日本語の変化がゆっくり進んでいるのだと思います。さて、その上で、今日の聖句は素直に心に入って来るでしょうか。最後の「神に向かってあなたの顔を上げる」、で心にグッとくるところです。これは、幸福への処方箋です。幸せになりたかったなら、神様と和解して、神様から来る平和を得なさい、と教えています。平和の意味は、神様を全能者として描き、だから罪人の自分を完全に救うことができた、というのです。それが実感として起こるので、神様への想いは格別なのです。神様を喜びとするのは、日本人的に言えば、不思議な言い方です。恐れ畏むというのならわかりますが、「あなたの喜びとし」と言えば、神様が急に近い存在になります。神様が喜びの原因なのです。それは、あなたが経験することです。顔の向きは非常に重要です。うつむいているなら、悲しい、悩んでいる、辛い、失敗した、自信がない、嫌なことがあった、希望がない、と否定的な言葉が連想できます。真正面を向いているなら、強い意志とか、目的を達成しようとしているとか、自分の意思で生きているといった感じでしょうか。人間は、顔の向いている方へ気持ちが向いているのです。では、「神に向かってあなたの顔を上げる」とはどのような状態でしょう。罪人は神様から逃走しているイメージですから、神様へ顔を向けることはありません。それが、イエス様を信じて救われた人は、魂の安らぎを得ます。罪人と罪を裁かなければならない神との関係は、決して平和ではありません。もし、神様と罪人の間に平和が成立するとすれば、それは罪が贖われて、罪人ではなくなった時です。そのことが実感できた時に、不思議な喜びが内から湧き上がります。それが力となって、思わず神様に向かって顔を上げるのです。これが救いです。
2月2日(水)
神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
Ⅰヨハネ3:22、23
この御言葉を読むと、「神に願うことは何でもかなえられます」ということの説明です。「願うことが何でもかなえられる」ということは、すごいことです。そのための条件を見ると、「神の掟を守り、御心に適うことを行う」ことです。そして、その掟とは何か、と説明が続き、「キリストの御名を信じること」、「互いに愛し合うこと」の二つです。これは、十戒と同じです。1~4戒が神を信じること、5~10戒が互いに愛し合いこと、と要約できます。さて、この神の掟ですが、クリスチャンなら内容を知っています。ただ、掟を知っているだけでは守ことができないのです。「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(24節a)と、ありますから、私たちの関心は神が自分の内にとどまっておられるか、どうかということです。神が自分の内側にいつもとどまっておられるかを知る方法も書いてあります。「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった”霊”によって分かります」(24節b)と書いてあります。つまり、それぞれの内側におられる聖霊によって分かるというのです。なぜ、私がいつも聖霊が大切だと言っているか分かりますね。
2月3日(木)
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
ローマ3:27
「人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」。クリスチャンは、ここをよく考えて覚えている必要があります。私たちは、面倒な誇りがいつも人生を小さくし、つまらないものにしてきたのです。こだわる割には、何の役にもたたずに、それどころか損ばかりしてきたのです。ですから、誇りを取り除けたかったのですが、簡単には行きませんでした。それが、クリスチャンは、この役立たずの面倒な誇りを取り除かれたのです。そのことを覚えていないと、教会の中でも問題の人になってしまいかねません。聖書は、取り除かれたのは、どんな法則によってか、といいます。クリスチャンになって何度も聞いた通り、行いの法則ではなく、信仰の法則によってだ、と教えます。行いは自分の力に頼ることであるのに対し、信仰は神様に頼ることなので、その違いが重要になります。つまり、自分を誇っている人は、神様を必要としていません。人から認めて欲しいと思っているし、褒めてもらうことが好きなのです。これは肉の働きです。人から立派だとか良く思われたいというのが、キリスト教の場合では、律法を行うことで満たされるのです。しかし、そもそもの動機が罪から始まっているので、律法を満たすことができません。なぜなら、律法は神様を愛し、隣人を愛することだからです。その愛は、自己犠牲の愛なので、自己愛の愛では達成できないのです。そのような罪深いものであることを認めて、キリストの憐れみにすがることができるほどにへりくだる者は、自分を誇ることをやめてしまいます。そのことがどんなに恥ずかしいことか理解したからです。自分に頼る人は、自分の力以上のものには勝てません。ですから、すぐに挫折します。謙遜になっていなければ、それでも自分の問題を認められないのです。罪の有無は、自分は絶対正しい、という思いから他人を見ているかどうかです。クリスチャンになると、自分が惨めであっても、弱くても、ダメでもいいのです。イエス様が愛してくださったからです。それで、もう十分なのです。だから、イエス様に喜ばれたいと考えるようになります。イエス様が認めてくだされば、それで十分満足し、この世の人間が誰も認めてくれなくても平気なのです。そのような心には主への信仰と感謝があり、自分の誇りが無くなっていくのです。
2月4日(金)
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
マタイ11:29
この世界を見てみると、同じ人間なのに貧富の差や生き方に差があります。幸福な人もいれば、不幸な人もいるのです。そうでなくても、大変なことはいくらでもありますし、ストレスは避けることができません。まさに魂に休みがないのです。では、どうしたらいいのでしょうか。聖書の答えは明快です。今日の聖句を見ればすぐに分かります。「私から学びなさい」と書いてあります。私とはイエス様のことです。ファリサイ派の人や律法学者のような先生はいつの世にも、どこにでもいます。ただ、百害あって一利なしです。重荷を負わされるだけです。それなのに、多くの人たちが、イエス様ではなく、この世の重荷を負わせるだけの仕組みに組み込まれています。それで、疲れ果てているのです。ですから、イエス様の御声に従ってキリストのくびきを負い、主に学ぶのです。クリスチャンは、そうしているはずです。自分勝手に生きることなく、キリストに従い、全てを委ねています。主のくびきは、キリストを信じることと互いに愛し合うことなので、聖霊の助けを受けて実現していけば、魂に安らぎが来るようになるのです。主は心優しいので、私たちの良い教師となってくださいます。あなたに学ぶ気持ちがあれば、あなたは多くの良いものに満たされ、この世の思い煩いから解放されます。主の平安がありますように。
2月5日(土)
言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
マタイ12:36、37
「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(34節)とキリストは言いました。ですから、心の中のことは隠すことができないのです。自分では、隠していると思っていても、自分自身が口から漏らしているのです。しかも、自分では気がつかなかったりします。そう考えると恐ろしくなりますが、幸い、私たちはキリストを信じて救われました。そこで、心が変わったのです。「回心」という言葉がありますが、まさにこの回心を体験したのです。そこで、聖書を読むようになり、御言葉を研究するようになりました。礼拝し、讃美歌を歌い、祈るのです。このようにして、心の倉に良いものを入れています。ですから、良いものを入れた倉から良いものを取り出せるのです。それにしても、今日の聖句を読むと、おしゃべりでくだらないことを平気で言っている自分が急に無口になりそうです。そのようなことでは、クリスチャンは皆無口な人ばかりになるでしょう。でも、それでは証ができません。その人らしく陽気な人は明るく話し、物静かな人は心のこもった言葉を語ればいいのです。不信仰な言葉を不用意に言わないことはクリスチャンなら誰でもが気をつけているはずです。ですから、あまり神経質になることはありません。それよりも、主に良い人にしていただいたのですから、私たちは信仰によって生きています。ですから、日々の生活において信仰の言葉、つまり、それは愛の言葉だったり、励ましの言葉であったり、慰めの言葉であったりします。心に今は、主の愛が宿っているので、そこから言葉が出てきます。その言葉を語る口が私たちの口になったのです。
2月6日(日)
愚者は道行くときすら愚かで
だれにでも自分は愚者だと言いふらす。
コヘレト10:3
漫才にはボケとツッコミがいて、笑いが成立しています。私たちは、このボケが愚者でツッコミが賢者だと単純に考えているかもしれません。落語を聴いていると、確かに愚者とわかる人がでてきて、その者の馬鹿さ加減に呆れて笑っているのです。しかし、聖書の中で知恵の書に書かれているのですから、それほど単純ではないと思います。同じ10章の2節には、「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」と書かれています。これは、同じ心でも、選択次第で賢者にも愚者にもなる、ということを意味していると取れます。つまり、自分の中の愚者に気をつけろと忠告されているわけです。例えば、車を運転している時に、乱暴に割り込みされると、カーっとなって悪態をついているのは、自分の中の愚者の仕業です。大学の教授が住宅ローンを返済できなくなった時、銀行の担当者に相談することなく、家を売ってローンを返済しようと考え、不動産屋に自分の家が一体いくらで売れるかと聞きに行きました。彼は、不動産屋に自分の苦境をすべて話してしまいました。そのために、足元を見られて買い叩かれてしまい、それなら、別の不動産屋に行ってみようと、そこでも同じようにベラベラ話してしまい、同じように足元を見られて買い叩かれたのです。もはや安い値段でした家を売ることができなくなるような人を愚者と言っているのです。お金を貸している銀行は、貸しているお金が返してもらえなくなれば困るので、借りた人と同じようにどうすればいいか真剣に考えてくれます。しかし、不動産屋は、安く買って高く売るのが商売です。どちらに相談すべきか、ゆっくり考えれば、誰でもわかるはずです。ところが、頭の良いはずの大学の先生がしたことは、今日の聖句のままだったのです。銀行に頭を下げることができないほどプライドが高かったのか、愚者になるのは簡単なことなのです。聖書をよく学んで、へりくだった心があれば、賢者の選択ができるはずです。信仰は、きっと助けになります。賢者の心が与えられますように。
2月7日(月)
主を畏れる人は誰か。
主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
その人は恵みに満たされて宿り
子孫は地を継ぐであろう。
主を畏れる人に
主は契約の奥義を悟らせてくださる。
詩篇25:12~14
人生は選択の連続です。それだけに、迷い、間違うことなく正しい道を選びたいのです。その困難さは、人生を通じて続きます。今ある自分の姿は、自分の選択の結果なのです。物事には、原因と結果があります。良い結果にも、悪い結果にも、原因があるわけです。その原因が選択にあるのです。クリスチャンになることも、主の恵みとお導きがありましたが、その招きに応えたのは、あなたの選択です。クリスチャンとは、主を畏れる人のことです。そして、主はその人に選ぶべき道を示されるというのです。つまり、選択で迷うことがなくなり、間違って悪い選択をすることもなくなります。その結果、その人は恵みに満たされて生きるのです。さらに、子孫は主の恵みの継承者になれます。それ以上に素晴らしいことは、「主は契約の奥義を悟らせてくださる」ということです。みなさんが神の言葉として読んでいる聖書は、旧契約と新契約と呼ばれています。旧契約はモーセを通して、イスラエルの民が結んだ契約のことです。そして、私たちは福音を信じて救われた者として新契約を結んだのです。その奥義は、どうしても知りたいはずです。なぜなら、人間の知力を超えているからです。聖霊の助けがいります。主イエス・キリストを知り、十字架の意味を知り、復活の意味、昇天の意味、天のキリストの働き、信仰によって救われた人に聖霊を住まわせる意味、どのように聖化が起こるのか、私たちは何をするのか、しないのか、再臨、千年期、新天新地、霊の体、等、聖書にも書かれていながら悟れないことが多くあります。それが、主によって奥義まで悟らせてくださるのです。聖徒たち、主を畏れよ。ハレルヤ。
2月8日(火)
異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は、教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。
Ⅰコリント14:4、5
聖書時代の教会で常識であったことが、今では禁じられたり、教会の中から無くなってしまったことがあります。その中で、クリスチャンにとって重要な霊的経験が異言を語ることです。現代の教会で異言を語っている教会はほとんどありません。しかし、聖書にはっきり書いているので、信者さんで気がついた人は異言を求めてついに語り始める人が出てきたりします。すると、教会の中に紛争が起こります。異言と認める派と認めない派に別れて、時には教会自体が二つに分裂して、どちらかが皆出ていくことになるのです。このようなことを嫌うために、異言を毛嫌いする傾向が見られるのです。でも、それは悪魔の策略に乗ってしまったためではないかと心配になります。信仰と言っていながら、霊的なことを認めずに霊的体験もしたことがない人がクリスチャンとして増えていけば、せいぜい体裁の良い人間を増やすだけで、キリストに似た者になる人を増やすことにはなりません。聖書は、異言どころか、預言を奨励しているのです。異言は、外国語を話しているので何を言っているかわからないのです。しかし、預言は母国語でつまりわかる言葉で神様の預言を語るのですから、重要な意味があります。教会の中に愛がなければ、そのことを指摘されるでしょう。困っている兄弟がいても、知らんぷりしているなら、預言でそのことが指摘されるでしょう。教会は信仰者の霊的共同体ですから、そのメンバーの一人が霊的に成長することは、教会を造り上げることにつながるのです。その点では、預言の方が異言より優っているというのです(5節)。しかし、異言は、語っている本人を造り上げると教えています。それは良いことです。異言は残念ながら語っている本人でも意味がわかりません。そうなると、異言をあまり語ろうとはしなくなる懸念があります。だから、その意味でも異言を解釈する賜物を合わせて求めることが必要なのです。たとえ、解釈の賜物がなくても、異言自体は自分を造り上げるのですから、異言で祈ることは有益です。異言が語れるか、語れないかは、信仰の優劣や、その人の優劣には全く関係ありません。ですから、異言や預言の賜物を与えられても、高慢になってはいけません。逆に聖霊が直接自分に働きかけているのですから、へりくだった思い出いる必要があります。他の人が異言を話せないのに、自分話せると高慢になった人は、たいてい、悪魔の標的になって、酷い目に遭います。ですから、霊的な賜物は気をつける必要がありますが、消極的になるようなものではありません。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(Ⅰコリ12:31)と書かれている通りです。コロナ時代の今、家にいることが多いので、聖霊に満たされることを求め、異言や預言などの霊の賜物を与えられるように祈ることは良いことだと思います。
2月9日(水)
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛を持って互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つように努めなさい。
エフェソ4:1b~3
あなたが救われたのは、神様からの招きがあったからです。それで、あなたはその招きに応えたので、クリスチャンになりました。これは、説明できなほど不思議なことです。キリスト教では、この神様の招きを重要視しています。牧師になるために神学大学に入る時に、全教授と受験生一人一人が面接します。そこで、必ず聞かれるのが、「あなたは神様の召命がありましたか」ということです。「はい」と言えば、「それはどのようなものですか」とさらに聞かれます。もし、「いいえ」と答えれば、それで不合格になります。神学校の教師たちは、知っているのです。神様の召命がなければ、牧師になってはいけないことを。ですから、「神様から招かれた」ということの意味を考えさせられました。他の教団の神学校では「召命」について一度も確かめられることはありませんでした。ですから、牧師になってから辞められる方が何人もおられました。召命の力も恵みも厳しさも、味わうことになります。一方、クリスチャンも召命という点では同じです。召命を受けて主に献身したのです。ですから、今までと同じ生き方はできません。どのように違うのか、それ答えが今日の聖句です。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」クリスチャンの特徴を挙げる時に、必ず「謙遜、柔和、寛容」が出てきます。今までは、感情を抑制することなど考えたこともなかったかもしれません。感情に振り回されて、最後には後悔することになるのです。どうしてそうなるかと言えば、高ぶっているからだ、と答えが返ってきます。人から「柔和だね」と言われたことがあれば、学ぶことはありませんが、そうでなければ、「柔和」が聖霊の実であることを覚えて、聖霊に従う必要があります。「寛容」も、御霊の実です。「寛容の心を持ちなさい」と命じられていますから、これを無視してはいけません。「愛」は実践するものです。興味深いのは、「愛を持って互いに忍耐し」と書かれていることです。人間関係はよほど機嫌が良いか、相性が良い人でなければ、ストレスが溜まり、うまくいきにくいのです。だから、「愛」が必要です。「愛」にはものすごい力があります。「愛」そのものが奇跡の力なのです。クリスチャンを一言で表せば、「愛の人」です。その後に、「平和」が出てきますが、「愛」と共に聖霊の実です。さらに進んで「霊による一致を保つように努めなさい」。これは、信仰の世界です。人間の力が及ばないことばかりだからです。ですから、このようにしようと頑張って、失敗しても落胆しないでください。あなたの内住の聖霊の助けなしには何も実現しません。そこに焦点を当てて、信仰の世界を開くことを目標にしてみましょう。つまり、御霊の実を結ぶことです。霊的覚醒を祈り求めましょう。
2月10日(木)
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
ピリピ4:13
「やる気ができない」と、言ったことがありませんか。このやる気というのが厄介なものです。「やればできる」と声高に言う芸人がいますが、やる気がなければできないのです。ある時には、やる気があって、また別の日にはやる気がなくなるのですから、厄介です。やる気がなくなると何もできなくなるのです。こうなると、やる気が出る方法のような本でも読みたくなるかもしれません。しかし、本なら聖書があります。聖書には、ちゃんと方法が書いてあるのです。それが、今日の聖句です。目を引くのが「どんなことでもできる」という言葉です。だいたい、やる気がなくなるのは、簡単にはできないような難しいことをしようとする場合にやる気がなくなりやすいのです。しかも、それは、した方が良いことです。いや、しなければならない必須事項です。でも、やらなければ困るでしょうが、やらなくても死にはしません。多くの人にとって、経験があるのが学校の勉強です。親になると子供には、勉強しなさい、宿題をしなさい、とうるさく言っています。自分が子供の時にはしていなかったのにです。なかには親に言われなくても、自分からちゃんと勉強も宿題もやる子供もいます。しかし、少数派です。このように、やる気が起こらないと人間は何もしないのですが、そのやる気がなかなか起こらない人が多いということでしょう。ところが、好きなゲームなどは、親がやめなさいと言わなければならないほど、やる気が出てくるのです。そこで、懸命な人は、好きなことを探しなさい、とアドバイスするのです。それこそが、やる気が起こり、しかも持続することだから、成功するだろう、という考えです。クリスチャンは、人間という点では、今まで考えてきた通りの者でやる気が起こりにくい人が多いのです。ところが、クリスチャンは、新しく生まれた者と言います。あるいは、神の子とされた、と言ったりもします。ですから、良いことが起こっています。クリスチャンはキリストによって強くされるのです。その方によって、どんなことでもできるのです。つまり、むかしのCMで「やる気スイッチ」という言葉がありましたが、そのスイッチを入れるのは、塾の先生ではなく、キリストなのです。キリストは、あなたのためになることなら、何でも実現できるように助けてくださいます。あなたが、何か目標を目指していたり、願い事があるのなら、この聖句を覚えていつでも唱えていましょう。きっと、その通りになります。あなたは、主にあってどんなことでもできるのです。
2月11日(金)
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
ローマ15:13
嫌なことが重なると信仰もトーンダウンしてしまい、つい悪ことばかり考えてしまいがちです。多くの場合、それは単なる取り越し苦労なのですが、まるで悪いことを考えては心配することが仕事のようになる人もいるのです。そのような心配性の人でなくても、望みを失うことがあるかもしれません。そのような時に、この聖句を思い出してください。自分の力で沈んだ気分を引き上げることは難しくても、聖霊があなたを助けて、気持ちも引き上げてくれます。普通に正常な判断ができるように、いつでも良い状態にいられるように助けてくれるのです。結局、私たちにとって必要なことは、喜びと平和なのです。それが、自分の力でなんとかなると思うと、途端に難しくなりますから、聖書に書かれた通りに、自分の神様は希望の神様なのだと言い聞かせてください。そして、あなたの神様は、あなたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たしてくださいます。ですから、あなたは幸福になります。その幸福を認めて感謝することが大切です。心配ばかりしていて人が、聖霊の力で希望に満ちあふれさせてくださるので、気が楽になります。神様を信じているので、このように恵まれるのです。
2月12日(土)
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
イザヤ55:10、11
道の駅が流行っていますが、その目玉は新鮮な地元野菜です。農家の人たちにとって大切なのは、恵みの雨です。これは昔も今も変わることはありません。今朝も目覚めると外は雪がうっすら残っていました。こうした天の恵みは農業をやっている人が一番知っているのでしょう。天の恵みと言えば、私たちにとっては神様が思い出されます。ここにも書かれている通り、主の口から出る御言葉は、偉大な力があります。天地創造の時でも、主の御言葉によってすべてが造られのですから、私たちはその計り知れない御言葉の力を知っているのです。例えば、預言は成就します。黙示録に書かれた預言はことごとく完全に成就します。その預言も残り少なくなっています。終わりに向かっているからです。雨や雪など自然を見れば、無限大の恵みであることがわかりますが、主の元から出てくる恵みです。その主が口を開いて御言葉を発する時に、大いなる力が解き放たれるのです。主は、あなたにも優しい恵みの御言葉を与えてくださいます。時にはあなたを助けるために御言葉を発します。そうやって、あなたを天国に入れようとされています。あなたの力ではなく、主の口から出る御言葉であなたを御子に似せて造り変え、時には奇跡を起こされるのです。嬉しいことですね。
2月13日(日)
慈しみをいただいて、わたしは喜び踊ります。
あなたはわたしの苦しみをご覧になり
わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
詩篇31:8
人間の悩みは、大きな試練や災いに遭うことだけではありません。日常の些細なことでも悩みになります。しかし、一番多い悩み苦しみは、人間関係です。喜びを与えてくれるのも人間なら、苦しみをも与えるのも人間なのです。そして、人間の心が分からないことから、自分の思いや期待を相手はどう思っているのかと悩むのです。そんな時、自分は大丈夫と思っていても、実はそうではないこともあります。しかし、誰にも言えない悩みです。そうした悩みが長く続くと苦しみに変わります。苦しみには長い時間耐えることが難しいのです。ところで、今日の聖句を読むと、神様から慈しみをいただいて、詩篇詩人は喜び踊っていると言います。神様がこの詩人の苦しみをご覧になり、魂の悩みを知ってくださったからと言っています。それだけなのに、この詩人は喜び踊り出すのです。人にも言えぬ悩みを神様が知ってくださったことで、これほどの喜びがあるのです。カウンセラーは神様から学ぶことが多いですね。詩篇詩人は「慈しみをいただいて」と言います。人を思いやることのできる神様は、魂の悩みと言うほど深い問題を慈しみで解決しているのです。そういえば、私たちも「慈しみ深き友なるイエスよ」と讃美しています。つまり、神様は友達のように、味方として悩みを抱えた人に接してくださるのです。ですから、こうすればいい、ああすればいい、という解決策ではなく、まして批判でもなく、その人の抱えている悩みを理解して一緒にいてあげることなのです。それを神様がやってくださるのです。これは恵みそのものです。だから、慈しみ労ってくださる神様。その神様によって、私たちは思い煩う必要がないことを知るのです。いつでも、主に委ねましょう。
2月14日(月)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9
ちょうどオリンピックが開催されていますが、真剣勝負なだけにドラマも起こります。試合なので勝つに越したことはありませんが、必ずしも勝つことだけが良いわけではありません。金メダルを取った事のあるアスリートは、負けたり、失敗した時に、自分の弱さも自分だと認めていると語っていました。これは、クリスチャンが身につけるべき信仰の奥義に通じるものがあります。さすが、世界の頂点に立った事のある人の言葉はすごいと思いました。この言葉は、別の金メダリストとの対談中に出た言葉でしたが、これを聞いて相手の男性の柔道家は、「自分は負けるのが怖い。だから、まだその境地に達していない」と言っていました。私たちは、今日の御言葉の通りに考えます。自分の力で頑張って生きているうちは、勝つ時やうまくいっている時は良いのですが、負ける時や失敗してしまった時に問題が発生してしまいます。弱さを見せるのはカッコ悪いと思っているので、余計に頑張って疲れてしまうのです。そして、最悪に考えて、ダメージを深くすることすらあります。しかし、私たちには主がいてくださいます。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と聖書に書いてあるので、この通りに信じます。そうなると、弱さを恥じることがなくなります。自分の弱さを平気で認めて明るく笑い飛ばすことだって可能なのです。ですから、今、不安感や気持ちが落ち込んでいるような人は、この聖句を唱えて、信じましょう。
2月15日(火)
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
詩篇1:1~3
この詩に詠まれた「その人」に、なりたいなぁと思います。この世の中で不思議なことは、良い人と悪い人がいることです。それは、切羽詰まった状態になれば、盗んでもパンを食べたいと盗んでしまう人と踏みとどまれる人がいるということです。小説『ゼ・ミゼラブル』では、貧しい男が姉の子供たちがお腹を空かせて待っている時に、パン屋の前で良い匂いにつられてついパンを盗んだことから、酷い目に遭って行く話しですが、彼しか働き手がいなくて、彼が牢屋に入れられたら姉一家は飢え死にしてしまう、という状況の話しです。家族が心配で、この男が何度も脱獄するので罪が重くなり、その中でこの男は無情な社会に怒り、傷つき、心を頑なにしていくのです。そして、脱獄して教会で神父さんを通してキリストに出会います。そこから人生がまた、正しい方へ戻って行きます。この人は、いつしか市長になり、多くの貧しい人たちを助ける素晴らしい人になりました。この罪の世で、悪魔が支配者だと勝手に言うこの世界で、人間が正しく生きることは本当にできるのでしょうか。神様は何をしているのでしょうか。そのような気持ちにさせられるニュースが実際に多いのです。しかし、神様はこの暗闇に光を与えました。それが唯一の人間の希望となったのです。その光こそが主イエス・キリストです。罪人であるから、本来救われる者ではありませんが、神様の愛は人間を惜しまれ、罪の問題を究極的に解決し、人間を救うこととされたのです。そして、人間には自由意志を与えました。ですから、強いられて主イエスを信じさせれるわけではなく、自由に選択できる状態で、福音を聞いて主を信じるかどうか決めるのです。その福音を告げるのも天使ではなく、私たちなのです。この詩篇がすごいのは、かつては罪の中にあった私たちが、信仰によってこの幸いな人になれることを教えてくれていることです。人の幸福はこのような生き方の中にあると言うのです。どうしたら良い生活が送れるようになるのか、聖霊の実を結ぶような人になれるか、何をしても栄える人生を得るのは、ここに書かれているように生きればいいのです。決して難しくありません。聖霊に従えば誰でも、結果的に幸福になれるのです。
2月16日(水)
昔書かれたものは、すべてわたしたちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
ローマ15:4
希望は最大の力です。人間は諦めずに挑戦して、何かをやり遂げることを良しとしています。偉大な人たちは、何度も挫折を繰り返しても、諦めずに最後までやり遂げようとして忍耐した人たちです。私たちは、決して偉人にならなくてもいいのですが、自分の人生に何かしら忍耐を必要とすることが起こるものです。そのたびに神様に頼り、祈って乗り切って行くのですが、悪いことが重なったりすれば、たちどころに気落ちしてしまいます。信仰を持っているのですから、こんな時にも頑張れるはずだと思っても、そううまくいかないものです。そもそも頑張ればなんとかなるのでしょうか。そういうものもあるし、そうでないものもあるのです。最近のアスリートを見ていると、皆さん昔と違って、楽しそうです。昔は、悲壮感が漂っているぐらい、真面目に何がなんでも頑張らなくてはならないという様子でした。それが、今は、「楽しんできます」と異口同音にニコニコして選手たちが言っています。リラックスする方が体も心もコンディションが良くなるのを知っているのでしょう。7、8割ぐらいの力の方が一番良いパフォーマンスを生むということを聞いたことがあるのではないでしょうか。私たちも肩に力が入った生き方ではなく、主を信頼してリラックスした生き方をしましょう。絵に描いたような立派なクリスチャンを目指してはいけません。そうではなく、神様は絶対信じるけれど、多少難あり、ぐらいがちょうどいいのです。聖書に出てくるぐらい古い、古代の人間は、とても人間臭くて、失敗もするし、弱さを見せるので、親しみやすいのです。つまり、オリンピックに出てくるような超人ではなく、私たちと同じような人たちが出てきます。その人たちが、どのような信仰を持っていたかが重要です。私たちと同じよなうな人が信仰を持ってどうやって生きていたか、旧約聖書から多くのことを学ぶことができます。そのようにして聖書に親しむと、まさに「聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせる」のです。そして、学ばなければ、損します。旧約聖書を書いた人たちは、神様のお導きで霊感され書いたはずですが、それは、聖書が「私たちを教えるために書かれた」からです。そのおかげで「希望」を持つことができるのです。希望を持っているので、たとえば、「途方にくれますが、行きづまることはありません」と聖書に書いてあるような結果になります。つまり、希望があればなんとかなるというわけです。ですから、聖書から忍耐と励ましを得て、希望を持つ人になりましょう。そして、自分らしく良い人生を生きるのです。
2月17日(木)
神よ、わたしを究め
わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。
ご覧ください
わたしのうちに迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしを
とこしえの道に導いてください。
139:23、24
人間の不思議は、自分のことを自分がわからなくなることです。自分の本心がわからない、例えば、この人と結婚していいのだろうか、この会社にいたいのか、自分は本当は何がしたいのだろう、自分は本当に喜んでいるのかそれとも悲しんでいるのだろうか、といったように自分のことなのに頑張って生きていると、自分の本心がわからなくなってしまうことがあるのです。信仰を持っていても同じです。詩篇記者は、この問題を神様に向かうことで解決を図ろうとしているのです。クリスチャンであれば、天国へ一直線に進みたいのですが、現実の生活の中で周りの人の影響やさまざまな迷い道があります。ですから、信仰の達人でも初心者でも、それぞれに隠れた悩みがあって、それを無視したり、隠したり、正論で自分の気持ちを無視してしまったりすることが起こります。だから、神様に自分の心の深いところまで探っていただき、悩みがあるのかどうか知っていただきたいのです。この詩人のように、立ち止まって神様に祈ってみると、自分の本当の気持ちがわかってくるでしょう。私たちは、信仰によって生きていますが、天国へ一直線に向かっているでしょうか。この世のことで心を煩わせ、迷いの道に入ってはいないでしょうか。いつもイエス様は私たちの助け手ですから、何度も実際に助けていただいた経験があるはずです。ですから、聖書に書かれた通りに、イエス様はあなたと共にいてくださる救い主なのです。イエス様はあなたを愛し、慈しみ、憐れんでくださる優しい神様です。ですから、私たちも誠実にイエス様を愛して、信頼していることが大切です。そして、自分が天国に入るには、イエス様のお導きなしには無理なので、今日の聖句のように祈り、自分の信仰を主に点検していただくことも良いことなのです。多分、気づくことは、イエス様に従うと言いながら、自分のしたい通りに生きているので、主に従うのではなく自分に従っているということです。理想は聖霊に従って生きることですが、そこまで行かずに肉に従うことが多いかもしれません。ですから、時々、立ち止まって信仰の点検を主に願うことは意味があるのです。さらに、天国に近づき、より良い信仰生活が送れますように。
2月18日(金)
あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。
申命記30:6
聖書の中でモーセの五書と言われる創世記から申命記は、やはり特別な書であることは間違いがない。まず、古いことに価値がある。古代人が一体どのように神と出会い、何を約束してどんな生活を送っていたのか、とても興味がそそられる。その古代の伝承が日本語で易々と読めること自体が奇跡である。しかも、これらの文書が神の霊感を受けた預言者の書いたものであって、聖霊の助けを受ければ神の御声に至るというのだから、その価値は飛び抜けている。クリスチャンにとっては、正典であるから守べき尊い神の言葉とも言える。特に聖書の民であるイスラエル人の成人男性は毎日、この五書(トーラー)を研究する義務があるというから、聖書への取り組みはクリスチャン以上である。残念ながらモーセの五書を毎日研究するクリスチャンを見たことがない。さて、この五書は律法とも言われている。神がイスラエルの民に要求した律法遵守は、守れば祝福を受け、破れば呪われるというものだった。しかし、彼らはうまく守れなかった。肉体には割礼を施すことができたが、心には割礼を施すことができなかったからだ。だから、キリストの到来が必要だった。キリストこそが、今日の聖句に書かれているように、心に割礼を施す方だった。キリストによって、初めて心を尽くして、魂を尽くして、神を愛して命を得るようにしてくださったからだ。
2月19日(土)
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名よって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイ18:19
不思議な約束です。主は、私たちの理解を超えて教えられました。ですから、どのような意味があるのか解説を一切しません。そうなると、主を信じた人だけが、ここに書かれた通りにしようとするでしょう。納得がいかなければ信じない、という人には何も起こらないので、せっかくの奥義も役に立ちません。さらに、一人の祈りではなく、二人が心を一つにして求めるなら、どんな願い事であってもかなえてくださる、という極めつけの約束なのです。もし、信仰者の一人が欲や利己心から願い事をしようとしても、もう一人がそのことに心を一つに合わせることはできなくなりますから、利己的な願いはかなわなくなります。そこで、この祈りのポイントは、「二人が心を一つにして求めるなら」という所にあります。そうなると、誰が聞いてもその祈りは正しいと思うような祈りしか聞かれなくなって行くでしょう。それでも、この祈りの約束は、大変大きな恵みなので覚えて実践する価値が高いのです。また、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには」と先ほどより「三人」が加えられています。そこで、礼拝とか聖書研究会、あるいは祈祷会などの最小人数は二人であり、小グループと盛んに教会で言われていのですが、その実際に必要な人数は二人か三人いればいいことになります。なぜ良いかといえば、主がその中にいると約束されたからです。もちろん、個人の祈りもちゃんと聞かれますし、願い事もかないます。そして、一人で礼拝しても、祈っても、聖書を学んでも、聖霊が共にいて導いてくださいます。一人の良さと、二人、三人の良さを主は教えておられるのです。普段は一人で信仰を守っている人には、特に主はそば近くに来られて励ましてくださいます。個人だからこそ、主との個人的な交わりを楽しむ恵みも与えられていることを覚えましょう。
2月20日(日)
憎しみはいさかいを引き起こす。
愛はすべての罪を覆う。
箴言10:12
「憎しみ」の反対語は何でしょう。もし、それが「愛」であったら、どんな意味があるのでしょう。その答えが今日の聖句です。いさかいの原因として憎しみが挙げられています。どのような時に、憎しみが生じるのでしょう。自分に嫌なことをしたら、どうでしょう。その程度にもよりますが、せいぜいその相手を嫌いになるぐらいでしょうか。傷つけられたらどうでしょう。これも程度によりますが、ひどく傷つけられると憎しみが湧いてくるでしょう。特にプライドを傷つけられると憎しみが起こるでしょう。また、赦せないようなひどい事をされたら、容易に憎しみの感情に囚われるでしょう。人間の厄介なことは、ちょっとぐらいでは憎しみにまで発展しないと言いながら、自分より人気があるから、美人であるから、恵まれているからと、つまらないことでも憎しみを覚えるものです。憎しみの怖いことは、聖書にあるようにいさかいを引き起こすことです。そして、自分自身を害してしまいます。つまり、憎しみは良いことが何もないどころか、自分にとって害を及ぼす悪いものなのです。そして、最悪なことは、罪そのものである点です。罪なので、どこまでも悪性で自分も他人も害して止まらないのです。初めに相手が悪いことをしたから、つまり、罪を犯したので、憎しみが生じ、その憎しみがいさかいというもっと大きな罪を引き起こすのです。では、どうやって憎しみという悪から自分を守ことができるのでしょうか。その答えも今日の聖句に書かれていました。「愛はすべての罪を覆う」のです。「すべての罪」の中に「憎しみ」も含まれているので、そして、憎しみから派生するはずのもっと多くの大きな罪すらも覆います。というか、憎しみを初めに止めることができればいいわけですが、それを実現できるのが愛だというわけです。ありがたいことに、クリスチャンは聖霊を注がれています。聖霊は神様なので、神様は愛であるという真理があるのです。たとえ、あなたに憎しみしかなかったとしても、今は聖霊の内住があるので、確かな愛があなたの内にあります。ですから、たとい葛藤があったとしても、赦し、愛することができるのです。愛の一番わかりやすい現れは、赦すことができるということです。
2月21日(月)
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
詩篇34:19
熱戦を繰り広げた冬季オリンピックも閉幕しました。メダルを取って名誉を得た人も、そうでなかった人も、それぞれにドラマがありました。ジャンプの高梨沙羅選手が失格となったニュースは衝撃でしたが、その時、一人泣いていた沙羅選手の前を通りかかったドイツの理学療法士の男性が気がついて、沙羅選手に近づき、かがみ込んで何か声をかけ、手袋を取ってポケットからティシュを出して、泣いている沙羅選手に渡すシーンがテレビに映し出されました。誰もが、気の毒で泣いている沙羅選手に近づけない時に、思いがけない愛を沙羅選手はもらったのです。一番辛く悲しい時に、私たちのそば近くにおられるのは、いつでもイエス様です。悔いる霊を救ってくださるのが私たちの主なのです。そのことがあるので、試練に遭った時も、理不尽な目にあっても、辛さを乗り越えていけるのです。失敗したなら、また頑張って挑戦すればいいのです。36歳のアメリカの女子選手が16年かかって金メダルを手にして、語ったことは、良い成績を残せなかった人も、それまでの努力が重要だから、それは素晴らしいことなんだ、と励ましていました。確かに、立派な人生は、普通の人が一生懸命生きてきたことに尽きるのです。困った時には、神様に祈って頼り、助けられて生きてきたことが、意味があるのです。若い時には気がつかないかもしれませんが、やがて、自分の主は打ち砕かれた心に近くおられるお方だ、とよくわかるのです。だから、明日も大丈夫だろうと心配しないで生きていけるのです。ありがたいことです。主に感謝しましょう。
2月22日(火)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
コロサイ1:14、15
私たちは誰によって救われたでしょう。それは、天の父なる神によってです。それでは、私たちは、何から救われたのでしょう。それは、闇の力からです。闇の力は悪魔に属します。罪人の置かれている場所です。全ての人が罪人である世界です。私たちは、救われる前は、汚れや悪が見えない闇の中に置かれ、その闇を支配する悪魔の力に縛られて生きていたのです。闇の反対語である光はもっぱら神に属すものです。だから、キリストは光として聖書に書かれているのです。善と悪、神と悪魔の戦いが現在に至るまで続いています。悪魔が神にかなうわけはないので、勝敗はすでに見えているのですが、人間の救いという大きな働きがあるために、もうしばらく時間が必要なのです。悪魔は、この世の神であると豪語し、闇の中に身を潜めます。しかし、二千年前に救い主キリストが到来し、闇の中に光が現れたのです。私たちは、このキリストによって救われました。それは、言葉を変えると、御子の支配下に移されたのです。これ以上に安全なことはありませんし、悪魔は私たちを取り戻そうとしても、まずキリストに勝たなければ取り戻すことはできません。そこで、信仰を攻撃し、クリスチャンが信仰を捨てて、キリストに背を向けるようにそそのかすのです。しかし、キリストは御父に頼んで聖霊を信じる者たちへ送られました。その聖霊が私たちの命となって悪魔に打ち勝つのです。キリストの罪の贖いがあったので、私たちは罪の赦しを得ています。だから、私たちは、神の国にすでに生きることが可能なのです。罪の問題を解決し、キリストの支配に服しているからです。ですから、何があっても古い人のように驚いてはいけません。悪いことすら、益に変わりますから、心配は入りません。恵みはいつも変わらず、あなたのものです。神の祝福をすでに受けているので、何をしても栄えます。不信仰になれば、これらをすべて失いますから、決して不信仰になってはいけません。いつでも、恵みを受けた者として行動し、思考し、発言するのです。御子の支配下に移してくださった、とは詩篇23篇のようにキリストが羊飼いのように働かれるということです。あなたは羊なので、キリストに従うことが大切です。過去に縛られずに、自分が神に大いに祝福されていると信じて今日を始めましょう。
2月23日(水)
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
エペソ4:31、32
クリスチャンが優れているところは、今日の御言葉を知って守っていることです。人は、心の優しい人に出会うと、知らずに癒されています。そして、安心して本当の自分をさらけ出すことが容易になります。毎日、リラックスして、楽しく生きたいと思います。それを妨げるものがこの世にはたくさんあります。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなど、いっさいの悪意はコロナのようなものです。これらは、感染しやすいのです。良い人も感染します。ですから、ワクチンが必要で、それが心の優しいクリスチャンです。親切も感染しますから、安心して親切にしましょう。このエペソの手紙は教会宛ですから、クリスチャンがまず悪意を全部捨て去ることが要求されています。これも、自力でしないで、イエス様にお祈りして一緒にみな捨て去るのです。このように順番にやっていけばいいので、最後に赦すことにも挑戦しますが、簡単ではないでしょうから、互いに赦し合うことに着目してみましょう。自分も赦すから、相手にも赦してもらうのです。これも訓練です。自分だけ正しいということはありませんから、赦してもらうことも必要です。これをうまくやれれば、クリスチャンとして輝いていると思います。
2月24日(木)
あなたがたは知らないのですか。競技場で走るものは皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
Ⅰコリント9:24
皆さんは、広島県にある世羅高校を知っていますか。高校駅伝の名門校です。日本が戦後、高度経済成長を遂げる頃、高校駅伝が始まり10連覇したすごい高校です。そうやって、戦争で傷ついた人々に勇気を与えたのです。その後、大都市の私立有名校が人材を広く日本中から集め、さらに海外からも留学生を集めてマラソンランナーを育てるようになります。そうなると、田舎の公立校では歯が立ちません。長く優勝から遠ざかります。その上、若者が都会へ出て行くようになり、過疎化が進みました。そこで、世羅の人たちは、駅伝復興のために立ち上がり、徹底的に考えて街の人たちも協力して、駅伝優勝を目指します。こんな町があるでしょうか。世羅高校の卒業生には、名門青山学院大学の駅伝の原監督もいます。実は、この世羅町にはマラソンの練習のためにできたような山があります。ここを走ると、自然と強いマラソンランナーが出来ます。まさに自然の恵みです。今では、日本中の中学、高校、大学からマラソンの合宿にやってきます。こんなに駅伝に一生懸命な人たちは珍しいです。これはBSで放送されたのですが、観ていてとても感動しました。聖書にも信仰生活を古代のマラソンにたとえている箇所が今日の聖句です。パウロは、一等賞を取るように走れと言います。マラソンならがむしゃらに走って鍛えるでしょうが、信仰者の場合は、天国目指してがむしゃらに走るというわけにはいきません。律法学者やファリサイ派の人のようになって、偽善者と言われるようにはなりたくありません。聖書を読んだり、祈ったりすることも義務となってノルマをこなすようなことになれば、逆効果です。伝道にしても、賜物のある人は教会の10%と言われていますから、パウロみたいにはできないのが普通です。立派な信仰者になって、と考えるのも良いことですが、常識の範囲にとどめないと、トラブルの原因になりかねないのです。聖書を読めば、どうすれば良いのか書いてあります。神様に聞けば、聖書の中からヒントが与えられるはずです。あえて言えば、「神様に近づく」ということです。課題は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」の二つです。英語で言えば、MOTTO(指針としての標語)が前者で、AIM(目標)が後者です。パウロの言葉を信じて、天国に行ってみたら、数え切れない世界中の聖徒たちが勝利の栄冠を被っているのを見て、「あれ、一人だけじゃないの」というかもしれませんが、楽しいことです。
2月25日(金)
実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
伝道5:19
基本的に、すべての人間は神様から富と財宝を与えられ、しかもそれを楽しむことを許されているのです。ですから、自分の受ける分を受けていいのです。ところが、世界を見渡すと、貧困問題がどこにでもあります。日本ですら、最近は貧富の格差がやたらと騒がれています。これは、一体どうしたことでしょう。神様はウソはつかないので、誰かが他人の富を搾取していることが考えられます。この仕組みに気がついた人がユダヤ人のマルクスでした。どうも自分の分だけでは満足しないで、他人のものまで自分のものとした者がいるということです。このようなことが起こるのは、人に罪があり、悪魔が人をそそのかしているからです。もし、人が自分を愛するように隣人を愛していれば、このようなことは起こりません。神様の賜物である富や財宝、そしてそれらを自分のものとして受けること、さらには、富を得るために何かしらの仕事をするその労苦も喜ぶように神様はされたのです。どのような仕事でも、一生懸命に働くほどの喜びはあるのです。しかし、罪はこうした人間の幸福を壊して、破壊する力があるのです。ですから、こうした人間を不幸にする人間の敵は罪であり、悪魔なのです。ですから、救い主イエスは、罪と悪魔と死に勝利し、人をそこから解放するために来られたのです。人間の敵として罪と悪魔だけでなく、死が付け加えられているのは、ちゃんと働いて富を得て、楽しく飲み食いすることで幸せを感じる人間が死んでしまえば、すべてがむなしく消えてしまうからです。クリスチャンが清貧と言い出したり、何かを禁じたり、禁欲を守ろうとしたりする場合がありますが、この聖書の知恵とは反対の考え方です。私たちが神様から愛されているので、神様は富と財宝を与え、これを楽しむことを許しているのです。ですから、自分の分を受けてそれで満足して楽しく生きていけばいいのです。つまり、普通に生きていけばいいということですね。ただ、信仰者は神様の賜物であることを覚えて感謝することを忘れなければ良いのです。
2月26日(土)
絶望している者にこそ
友は忠実であるべきだ。
さもないと
全能者への畏敬を失わせることになる。
ヨブ記6:14
ヨブ記は知恵文学に分類されます。聖書の中で最も古い時代に書かれたと言われるヨブ記は、神と人間の書です。ミッションスクールの英語科の学生によるヨブ記の英語劇を観たことがあります。その頃は、キリスト教もよく理解していませんでした。ましてや、ヨブ記の意味などわかるはずもありません。そして、長い年月が過ぎましたが、今でもヨブ記は難しい書です。さて、今日の聖句はいかがでしょうか。友が出てきます。人間と書くように、人の間、つまりこの社会で生きる人格としての人のことです。社会とあるように自分の周りの人と人格的な関係がある人のことです。簡単に言えば、友がいるということです。この友は、親友でもいいし、会社の同僚や学校のクラスメイト、単なる知人でもかまいません。名前を知っていて、何かしらの関係を持っている人のことです。人間というのは、そうした人と人との関係を持った存在なのです。さて、ヨブの場合は、大変親しくして互いに信頼し合っている友人が登場します。平和な時には、何にもまさる信頼厚い友達です。さて、ヨブ記をご存知の方には、ヨブに起こった災難はよくご存知でしょう。ヨブは、全財産を失い、子供たちまでも亡くし、最後には自分も病魔に犯され、気力も失い、ついには絶望し苦しみから逃れるために死にたいとさえ思っていたのです。そこに友人たちがやってきます。この友人たちは、あまりの惨状に言葉を失い、どうしていいのかわからなくなりました。時が経ち、やっと言葉をかけたのですが、あなたならヨブにどんな言葉をかけるでしょうか。友人は、うめき苦しむヨブのかたわらで考えたのです。そして、ヨブほどの義人がこのような悲惨な目に遭うなど理解できない、到底納得がいかないと思ったのです。しかし、何度も何度も考えた結論は、ヨブの災いは、神が許された結果だ。ということは、ヨブは神に罪を犯したということではないか、そうであるなら、罪を悔い改めて主の憐れみを求めて赦されることだ。それしかない、と結論したのです。ですから、絶望しているヨブに、罪を犯したはずだと責めたのです。だからこそ、今日のヨブの言葉は、心に刺さってくるのです。ヨブは、いくら考えても自分に落ち度はないと思っていました。人としてこれ以上ないほどの誠実を尽くして主に忠実だったからです。だから、自分が悪いからではない、神の何かしらのお考えなんだと思っていましたから、神を呪わなかったのです。しかし、ヨブのような信仰に達していない友人たちは、ヨブの気持ちに寄り添わなかったのです、いや、寄り添えなかったのです。私たちが、覚えるべきは、自分と関わりのある全ての人に、私たちはいつでも誠実であるべきで、一旦、自分の隣人が絶望するような事態に陥った時には、その人が悪いと裁かずにその人を信じて、その人の味方になってあげることです。あくまでもその人に忠実であるべきだということです。もちろん、罪を犯している場合は違います。その人の罪を悔い改めに導かなければなりません。ただ、本当に難しいのは、正しい人が悪者のように酷い目に遭っている時です。憶測で批判したり、本当のことは知らないのに無責任に裁くことは許されません。ただ、自分の人格的価値は、このような時にこそはっきりわかってしまうのです。今日の箇所の知恵は、隣人の神への畏敬を失わせるようないかなることもしてはいけないということです。神を信じている人は、絶望した時にでも神を信じているのですが、それは忍耐という細い糸のようなものでしかありません。ですから、いつ切れるかギリギリのところで神に繋がっているのです。それを切ってはいけないということです。それが、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という戒めを破ると切ってしまうことがあるのです。それを戒めておきましょう。
2月27日(日)
目をまっすぐ前に注げ。
あなたに対しているものに
まなざしを正しく向けよ。
どう足を進めるかをよく計るなら
あなたの道は常に確かなものとなろう。
右にも左にも偏ってはならない。
悪から足を避けよ。
箴言4:25~27
私たちは、クリスチャンなので正しい道を歩みたいと願っています。それは、危険を避けて、悪に近づかない堅実な生き方です。しかし、この世には悪人もいて、悪魔の誘惑もあります。人と人との間には競争もあり、妬みから足を引っ張られることもあるのです。権力のある者が悪に染まってしまえば、その下にある者たちは同じ悪に染まるように圧力がかかるでしょうし、それに屈しない正しさを保てば、権力者の敵になることは避けられないのです。このように、社会で競争する仕組みがあれば、どう生きれば良いのか大変難しいことなのです。箴言は、この世で賢く生きるには知恵が必要だと説きます。しかし、その知恵に従うことは、簡単なことではありません。細心の注意が要りますし努力も必要です。何より、知恵に従う生き方には、豊かで祝福された成功する生を得ることができます。クリスチャンの全員が目指すものです。そして、今日の聖句は実は20節から続いているひとまとまりの箇所の一部です。23節の「何を守るよりも、自分の心を守れ」とあるように、心から始まり、口、目、足と続きます。いずれも「正しい道」、知恵に従う生き方の説明になっています。私たちが失敗するときは、まず目を逸らして、自分に対しているもの(人や出来事など)をちゃんと見ていなかった時に後悔するようなことが起こります。ですかから、自分に都合よく勝手に考えずに、相手を直視し、目を逸らさないことです。まなざしを正しく向けるためには、正しい心が必要です。憶測で勝手に人の気持ちを押し測ろうとする人がいますが、それは危険です。少なくとも、この箴言には反します。真逆と言っていい悪魔に扉を開けるようなことはしてはいけないのです。どこまでもキリストが自分を通して見ているような見方をするのです。また、「足を進める」とは、どのように生きるかということです。選択を誤らずに、悪に向かわず、向こうみずに何も考えずに進むことなく、主の御心を求めて足を進めるなら、常により良い道を歩めるというのです。誘惑はいつでも近くにあるでしょうが、それで右や左に外れてしまうなら、全てを失うかもしれません。そうならないように、知恵を求めて、どうすべきか考えることが必要です。そこにも肯定的な考え方は役に立ちます。
2月28日(月)
魂の苦しみを知るのは自分の心。
その喜びにも他人はあずからない。
箴言14:10
人生が公平なのは、誰にでも苦しみ味わう日があることです。苦労の無い人生が幸せな人生だろうと思っていましたが、歳をとってみると、そうでは無いことがわかります。例えば、苦労は悪いことだけではないことを知ります。自分の甘さや傲慢さを悟るかもしれないし、人の本心を知ることもできます。器の大きな人は少なく、人は自分のことばかりを考えていることも見えてくるでしょう。また、本当に立派な人は誰か分かる経験をすることもあるのです。というのも、見せかけだけの人こそ、立派なふりをしているからです。賢者でなくとも、苦労すると色々なことを学ぶことができるのです。苦労して人間は成長するというのは本当です。問題は、苦労はやっぱり嫌な経験だということです。ところが、それが「嫌な経験」と決めつけていることをやめて、「自分のためになる経験」と言い換えて考えてみることです。私は小学生か中学生の頃に、そのことに気がついて実践してみましたが、自分のためになることを確かめることができたのです。どんなことも、見方を変えただけで、事態が変わってくるものです。つまり、嫌なことだと嫌がっていた時には、苦しみでしかなかったことが、これは自分を成長させるために役立つ経験だと考えを変えてみると、困難でもやり切ることができます。するとその喜びや感動はとても大きいのです。それだけではなく、誰が見ても困難なことを自分はやり切れたとなれば自信が付きます。そして、この経験が後々ものをいうのです。人生がうまくいかないと、ついつい悲観的になりがちですし、否定的に考えるようになるので道が開かれません。しかし、私たちはクリスチャンなので、祈ることを知っています。ですから、主に祈ることです。自分の正直な気持ちを主に祈りましょう。そうすると不安は消え、心に光がともります。「魂の苦しみを知るのは自分の心」なので、自分にしか祈れない祈りがあるということです。それに対して、神様は実に誠実にお応えくださるのです。何かかが起こるのです。その結果、自分にしかわからない大きな喜びを味わい知ることになります。このように、魂に苦しみを知ることは、辛い経験であっても、乗り越えることができるし、神様に出会える喜びもあるのです。