2024年10月ディボーション

10月1日(火)

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、私たちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。

Ⅰヨハネ5:1、2

 

聖書を読んで行くと、明らかにクリスチャンのことが書いてあります。「イエスがメシアであると信じる人」とあれば、それは明らかにクリスチャンのことです。そして、クリスチャンは「神から生まれた者」なのです。さらに、重要なことは、「生んでくださった方を愛する人は」、つまり神を愛する人は神から生まれた他の人をも愛します。教会では、教会員のことを兄弟姉妹と呼びます。同じ神から生まれているからです。そして、神の真理は明確に霊的な原理を教えています。それは、「私たちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供達を愛します」と書かれています。ここでは、律法という言葉を使っていません。つまり、律法はユダヤ人が自らを義とする手段にしてしまったからです。パウロにとっては、自分の罪を明らかにするものが律法だと明言します。そして、クリスチャンも律法については正しい考え方が分からずに苦労しているのです。そこで、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という第一の律法を守ろうとする時に、どうやって愛せばいいのかと少し戸惑うのではないでしょうか。しかし、今日の聖句によれば、自分はイエスをキリストと信じているので、神から生まれた者であり、生んでくださった神を愛する人は、同じように神から生まれた者たちを愛します、と教えています。それは、キリストが与えた新しい掟、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)をも実現するからです。あなたが愛しているのは、神と「神の子供たち」であることを忘れないようにしましょう。

 

10月2日(水)

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

Ⅰヨハネ5:3

 

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』 これが最も重要な第一の掟である。」(マタイ22:36~38)。この聖句は聖書の中でも重要な箇所です。そこで、聖徒たちはこの掟を守ろうとします。つまり、神を愛そうと努めるのですが、神を愛するとはどのようなことか分からないことに気がつきます。そして、今日の聖句を見つけます。ここに答えがあるのですが、文脈を追わなければ意味がわかりません。昨日のディボーションをまずは理解すると、「互いに愛し合う」ことが大切であることがわかります。それは、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(同22:39)と繋がります。結局、キリスト教では、「イエスが愛したように互いに愛し合う」ということが掟なのです。結局、「神を愛するとは、神の掟を守ること」なので、兄弟姉妹が互いに愛し合うことが実に神を愛することになるのです。そして、「神の掟は難しいものではありません」とあるのですから、神の掟を守ることができます。

 

10月3日(木)

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

Ⅰヨハネ5:4、5

 

聖書は、私たちを励ましています。そして、うかうかしていると、この世に飲み込まれそうになる私たちが、クリスチャンになってどのような者になったのかを教えています。決して、負けてしまうような者ではなく、この世に打ち勝つ者になっていることを教えています。それは、「イエスがメシアであると信じる人」は皆、神から生まれた者であり、生んでくれた神を愛する人は、同じように神から生まれた人を愛します。私たちは、クリスチャンになって、自分の記憶しているような罪人ではなく、新しく生まれたのです。その証拠は、神を愛しているからです。そして、神を愛している人は、同じようにクリスチャンを愛します。この世は暗闇で光を認めません。イエスをメシアと認めなかったのです。しかし、福音は世界に広がり、福音を聞いて信じた人が生まれました。この人は、この世に打ち勝つのです。それは、「イエスが神の子であると信じる」からです。その信仰は、驚くべき力があり、この世に打ち勝つ勝利そのものなのです。ですから、この世に惑わされる必要はありません。悪魔の誘惑も信仰によって打ち勝てます。あなたには、その信仰があります。決して疑ってはいけません。信じれば信じるほど、確信が深まります。事実、奇跡を目の当たりにすることでしょう。神が、あなたをそのように生んだからです。

 

10月4日(金)

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

Ⅰコリント2:9

 

クリスチャンの別の言い方が「神を愛する者」です。もともとは、キリストに似た者と呼ばれたことから、クリスチャンという呼び名ができたのです。そして、キリストは神を愛する者でした。ですから、私たちも神を愛する者なのです。そのことをいつでも忘れてはいけません。神を愛する者の生き方があります。それは、目に見える兄弟姉妹を愛することです。それが神の掟なので、神を愛する者は守るのです。さて、このクリスチャンには、報いがあります。それは、何かと聞きたいところですが、今日の聖句を読むと、人間の想像をはるかに超えるものなので、これだと言えないのです。この世の物は全て世の終わりに消えて行きます。朽ちるか燃え尽きてしまうからです。ですから天に持ち帰ることのできるのは、品性だけだと言われます。しかし、信仰を守り通すために試練を通ることもありますから、最後まで主に忠実な者はやはり報いがあります。ただ、それが何かを知ることはできません。楽しみに待つのみです。しかし、あなたが大喜こびすることは間違いありません。天国に入ることだけが楽しみではないのです。 

 

10月5日(土)

愛する者たち、私たちは、今すでに神の子供です。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れなたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

Ⅰヨハネ3:2

 

クリスチャンのことを「神の子供」と呼ぶことは、聖書から正しいことがわかります。それほどのことがあなたに起こっているのです。あなたには実感がないかもしれません。それでも、信仰で自分は神の子供にしていただいたと信じることは良いことです。私たちは、この世が終わることを知っています。しかし、私たちは救われ、再臨の日を迎えます。その時、世界はどれほどの恐ろしい状態になっているのかは想像もつきません。しかし、最後まで信仰を持っている人たちは天使に守られ、空中に引き上げられます。その時、死んで眠っていた聖徒たちも復活します。その時、肉の体ではなく霊の体で復活すると聖書に書いてあります。生き残った聖徒たちは、どうなるのか「後の状態はまだ明らかにされていません」と言うのですから、想像たくましくする必要もないでしょう。神様のなさることは美しいのですから、何の心配も入りません。それよりも「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となる」と言うのです。このことが希望となります。この世界で、頑張ってみても到底キリストに似た者になればいとがっかりしている人は、今日の御言葉を信じて、淡々と信仰の道を歩めばいいのです。それにしても、「キリストのありのままの姿を見る」ことで、私たちがキリストに似たものになる、というはどういうことでしょう。そこに、神様の神秘を感じます。私たちは、いらない心配をしないで、ありのままに信仰者として生きていけば、大きな喜びが待っているということが確実なのです。それで、十分報われます。

 

10月6日(日)

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ13:8~10

 

キリスト教は愛の宗教です。それも、キリストに倣って尊い愛を実践するものです。人間は肉の弱さを持っているので、時に愛を実現できずに悩むことになります。それどころか自己愛の塊であると思い知らされる場面すらあるのです。しかし、聖霊のお導きがあるので、私たちは隣人を愛することを避けることができません。そのための訓練もあります。そして、イエス様の新しい掟が守られることがクリスチャンの第一の目的になっていることを知ります。「互いに愛しあいなさい」とある通りに、愛されることも大切で、自分も愛し、また愛されるという生き方がクリスチャンの目指すところなのです。しかし、律法を守ることの難しさから、律法は守らなくても良いものだと勝手に思っていたのが、実は「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ」という言葉の中に律法が要約されているというのです。つまり、あなたは愛の人になるために主に召されたのです。あなたは、隣人を愛する人なのです。愛するので、愛されます。人を愛せば、愛すほど、人からも神からも愛されるのです。しかも律法を完全に全うできるのです。神はあなたが人を愛せるようにされました。ですから、難しいと思わなくても良いのです。頑張って愛さなければと無理することはありません。あなたは神に愛され、キリストに愛されたので、あなたも愛の人に変わっているのです。そのことを信じていないので、昔のままであるように思っているのです。悪魔もそう思わせようとそそのかすのです。しかし、主の愛があなたを満たしています。あなたは主に十分愛されています。ですから、自分が主によって愛の人に変えられたことを認めればいいのです。そして、隣人を愛することが自分の喜びとなり、それは自分にとって楽しいことで、愛の力を体験することが自分の使命だと理解できるようになります。誰でも愛されたとい思っているので、あなたは多くの人を愛の力で満たし、渇いた心を癒すのです。受けるより与えるほうが幸いなのです。

 

10月7日(月)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

Ⅱコリント5:21

 

「神の義」というキリスト教の専門用語が、よく使われているのに、説明しろと言われれば、すぐには言葉が出てこないかもしれません。しかし、救われた者は神の義を得た者です。ですから、クリスチャンは全員、今日の聖句の恩恵を受けているのです。もっとも、私たちが何かをすれば「神の義」となれるわけではありません。しかし、信仰によって神が義と認めてくださることはあります。行いによる義は無いと言われていますから、信仰にかけるしかないのですが、私たちの問題は罪人であることです。その罪という、目には見えない汚れをどのように清めるかということが最大の悩みですが、それを神は、見事に解決しました。それが今日の聖句です。御子イエスは罪を知らない方です。神は、その御子イエスを私たちの代わりに罪とされたのです。そこに贖罪があって、自力ではどうすることもできなかった問題を御子イエスが、死の犠牲を払って罪の代償を支払ってくださったのです。ありがたいことです。罪を知らないイエス様があり得ないほど悲惨な苦痛を感じてまで、救おうとされたあなたにはどれほどの価値があるのでしょうか。あなたが高価で尊いと主が言われるのは本当のことで、実際に計り知れない価値があります。ですから、罪の呪いを解かれたあなたは、今や堂々と生きればいいのです。あなたの内に愛の泉があるはずです。その愛を自然と流れるままにしていればいいのです。あなたは愛の人に変わります。神の救いは完全であることが、その時わかります。

 

10月8日(火)

人はその口の実によって良いものに満ち足りる。

人の手の働きはその人に報いを与える。

箴言12:14

 

私たちは、口は災いのもと、などと言っては言葉で失敗してしまったことを後悔するのです。何も考えずに口を開いて、失言を繰り返す人は愚か者と言われても仕方がないのです。自分が思ったことを何でもすぐに言ってしまう人は、周りの人たちの赦しがあることをわかっていないか、甘えているのです。そして、大切な人を失ってしまうのなら、その損失をよく考えるべきです。しかし、考えない人は愚か者なのです。そのような人は、気がつくと自分の周りには誰もいないという孤独が待っています。罪人は、このような過ちを犯してしまう危険があることを覚えておかなければなりません。一方、「その逆も真なり」です。自分の口が何をいうかで人生が変わるわけですから、良いものに満ち足りた人生を送るには、「その口の実によ」ると聖書の知恵は教えています。「口の実」とあるので、言葉を発すると、その言葉は何かしらの効果を引き起こします。たとえば、「ありがとう」「嬉しい」「愛しています」といった言葉を聞けば、相手に良い感情が生まれます。もちろん、人は嘘か本当か瞬時に見分けますから、心にもない言葉ではいけません。言う時には心から出なければならないのです。これは、自分に対して良い言葉をかけるのも効果があります。人間関係が言葉で良好になり、自分も自信を持ったり、親切になったり、勇気を持てば、人生は好転します。そして、自分の手の働きには注意が必要です。私たちは、いつでも神様が自分を見ている、と信じていますから、かげひなたなく働きます。つまらない仕事でも一生懸命に働きます。不思議なことに誰も見ていないと思っていても、肝心な人が見ているものです。そうすれば、「報いを与える」と書いてある通り、良いことが待っています。一度始めたことはやり遂げる。そのためには、途中で必ず挫折させるようなことが起こるので、その時に、「人の手の働きはその人に報いを与える」と御言葉を声に出して唱えるのです。今日の御言葉を忘れていなければ、その良い報いを味わうことができます。

 

10月9日(水)

「彼はわたしを慕う者だから

 彼を災いから逃れさせよう。

わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。

彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え

苦難の襲うとき、彼と共にいて助け

彼に名誉を与えよう。

生涯、彼を満ちたらせ

わたしの救いを彼に見せよう。」

詩篇91:14~16

 

神様を信じるとは、今日の聖句のように神様の恩恵の中に生きるということです。その恵みは確かで尽きることがありません。あなたがクリスチャンで信仰が大切だと教えられているのなら、その信仰は、神様を知ることであり、神様を愛することであると理解すべきです。神様への信頼は絶大で、あなたが神様を慕う者であれば、今日の御言葉通りになります。男性か女性かと言った違いはありません。あなたは神様と共に生きることになります。あなたの声は覚えられ、あなたの祈りを神様は楽しみにします。あなたはことあるごとに神様を賛美し、神様のご臨在を慕います。人生につきものの苦難さえ、あなたには神様が助けとなって、逆に名誉に変えてくださいます。あなたの生涯は満ち足り、人生を振り返った時には主への感謝に溢れるでしょう。そして、偉大な神様の救いをあなたは見ることになります。あなたは恵まれた人なのです。ですから、安心してこの聖句の通りになると信じましょう。

 

10月10日(木)

神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいは あなたに触れない。

ヨブ5:19

 

クリスチャンになっても、私たちの人生には時に苦しみが襲いかかります。今日平和であっても、明日は争いが待っているかもしれません。そして、信仰があるので、問題が発生すると色々考えることになります。自分が正しいのか、それとも正しくなかったのか、と。信仰がなかった時には、相手を責めて自己正当化していたでしょう。しかし、信仰者になって、私たちは災いに遭ってもそこから反省し、何かを学ぼうとします。自分自身が高慢であったと知ることは辛いことですが、それを認める信仰があるのです。そして、苦しみの次に待っている成長が嬉しくさえなるのです。このように、クリスチャンになったからと苦しみや災いがこなくなると言うことではありません。しかし、その災いを通して信仰者として成長することが主の御心なのです。主の御目にかなう者となれば災いは必要ありません。ですから、災いから守られるようになります。

 

10月11日(金)

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から降って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに 雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

Ⅰテサロニケ4:16、17

 

人生の目的を再臨と答える人がいます。すごいことですね。そこにはっきり照準が合っているのです。それは、わかりやすい生き方ができそうです。私たちもクリスチャンなので、再臨を信じています。それは、やはり希望です。この地上生涯がどうであろうとも、主イエス・キリストを信じて、信仰によって義となる人生を選んできたのです。その報いは大きいのです。それにしても、現代人は再臨を待望しているのでしょうか。昔のクリスチャンは、再臨への情熱がありました。終末に生きているという自覚がありました。現代は、ダニエル書の預言の通り、新しい知識が増えるとあるように、情報の洪水に飲み込まれているようです。どのような意見も、多くの意見の一つになってしまい、真理という言葉自体が過去の遺物のように意味を失っているかのようです。このような時代に信仰を持って、さらに再臨を聖書に書かれた通りに信じている聖徒の皆さんは、主に選ばれた人たちだと思います。クリスチャンの全てが救われるわけではありませんから、油断はできませんが、「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」と書かれたことを実際に経験するのです。それがどれほどワクワクする経験か、楽しみでなりません。それこそ、高所恐怖症も忘れてしまうのでしょうね。

 

10月12日(土)

あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。

Ⅰ列王2:3

 

この原則は変わることがないでしょう。しかし、その方法はイエス・キリストの到来で、私たちができるものへと変わりました。パウロの言うように、律法の行いでは自分の罪がわかるだけなのです。しかし、キリストの十字架の救済を受けて、悔い改めて福音を信じた者は、その信仰の告白として水で洗礼を受けました。それは、清めたことになるので、聖霊が天から送られてきました。その聖霊によって、イエスの掟が守られるようになったのです。その掟は、互いに愛し合うことだったので、愛により律法の要求が満たされるのです。そして、私たちは聖書の意味がわかってくるのです。今日の聖句で書かれた、「戒めを守り」「モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない」と言うのは、文字通り人間の業では無理があったのです。しかし、イエス・キリストはその障害物を取り除き、新たな道を開きました。誰でも、イエス・キリストを信じて、主の道を歩む者なら、誰でも進ことができるのです。そこには、副産物があって、「あなたが何をしても、どこへ行っても、栄える」のです。これは魔法の言葉ではありません。つまり、真の愛の力は何をやっても成功する力となるのです。罪によって妨げられていた本当の力がイエス・キリストの愛の業によって解放されたのです。主に感謝して、あなたも栄えるのです。

 

10月13日(日)

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国が、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

黙示12:10、11

 

私たちは、イエス・キリストの十字架を信じています。それがどれほど大きなことであるかが、黙示録を読んでもわかります。イエス・キリストが十字架にかけられた時に、誰が人の罪の贖いとなってくださり、神の愛が明らかに示され、悪魔の欺瞞が暴かれ、キリストが見事に勝利を納めてくださったのです。サタンは私たちの告発者であって、日夜私たちを神の御前で訴えている者なのです。そのサタンがキリストの十字架に負けて、地に投げ落とされたのです。救われる者は、小羊であるイエスの十字架で流された血と、自分たちの証の言葉のゆえにサタンに打ち勝ったのです。さらに、彼らには特徴があります。「彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」とあります。中途半端な信仰ではなく、死に至るまでも神に忠実である信仰があったのです。サタンは、敗北したのですが、それでも地上に投げ落とされた後、自分の時が短いことを知り、聖徒たちを攻撃し、この世を悪で苦しめ、教会を攻撃しているのです。ですから、クリスチャンの戦いは、まだ続いています。それゆえに、皆さんは、小羊の血と、自分たちの証の言葉と、主への忠実な信仰によって、勝利者になる必要があります。そのような聖徒には聖霊の助けが必ずあります。

 

10月14日(月)

いちじくの木の番人はその実を食う。

主人の身を守る者は誉れを得る。

箴言27:18

 

あなたは誰を守っているのでしょうか。主人か、家族か、それとも他のものか。いちじくの木は実を結ぶので番人が必要です。忠実に番をしているなら、報奨としてその実を食べることができます。天の恵みは大きいので、一人ぐらいが食べてもどうと言うことはないのです。もし、そのいちじくの持ち主が、ケチで番人に食べるなと命じるなら、その年の収穫は減るでしょう。番人はケチな主人に腹を立てて、ちゃんと番をしないでいい加減に番人の働きをするでしょう。主人が賢明で番人に好きなだけ食べなさいと一言いえば、その年の収穫は安心できるでしょう。いちじくを守る者には、それ相当の報奨が与えられるのです。同じように、主人の身を守る者も褒賞を得ますが、それは誉れを得るのです。昔、江戸城に朝登城する時に、身分の高い家老などを襲う刺客がいました。その時に、一命を賭して家老を守る者がいたら、その者に名のある脇差しなどをその場でわたし、感謝を表しました。しかし、その人が受けるのは、それだけではありません。たちまち、その事件の噂は広がり、忠臣が命懸けで主人を守ったと伝わり、「あっぱれ、これぞ武士なり」と周り中から誉れを受けることになります。このように、「主人の身を守る者」と考える時に、クリスチャンの主人は明らかに主イエス・キリストです。その主人の身を守るとはどのようなことでしょう。死に至るまで信仰を貫くとか、迫害されても信仰を守り抜くとか、そのようなことでしょうか。私たちは、キリストの名で呼ばれていると言われています。それがクリスチャンです。ですから、いい加減に生きることはできません。信仰のある者として、愛に生きることが求められています。キリストの御言葉に忠実であること、生き方でキリストを表し、主に忠実にお仕えすることが、結果として主人の身を守る者と言えるのではないでしょうか。ですから、最高の誉れを得ることができるのです。

 

10月15日(火)

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

詩篇145:18、19

 

ありがたいことに、信仰の達人でなければ、主は聞いてくださらないということはありません。あなたが、主を呼び求める者であれば、「すべて」とありますから、十分あなたには資格があります。さらに、あなたが神様に対して誠実であれば、主はあなたの近くにいてくださるのです。つまり、あなたの祈りは聞かれるのです。あなたが誇れる何かがあるから聞かれるということではありません。あなたの思いが主に届くのです。あなたが主に対して、特別の感情を抱き、信じているからこそ祈りは聞かれるのです。あなたの信仰とは、あなたが主を畏れていることです。そのようなあなたの願いをかなえると聖書に書いてあるのですから、信じて祈りましょう。あなたの緊急の祈りは、いつでも天に叫びとなって聞こえるのです。ですから、神様はすぐにあなたを救ってくださるのです。あなたの神様は良い神様なのです。

 

10月16日(水)

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

ヨハネ14:27

 

キリストのお約束は必ず果たされます。ですから、あなたがイエス様を信じた時から、あなたには特別な保証があるのです。それは、主が平安を残してくださるということです。人間は時々、不安になります。実際に問題が起こっていなくても、唐突に不安がやってきます。今までなら、その不安にやられて苦しむことになっていたでしょう。しかし、クリスチャンになったのですから、今までと同じはずがないと自分に言い聞かせてください。そして、今日の聖句を思い出してください。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」と、主がはっきり言われました。ですから、これは信仰による平安です。主を信じますと唱えましょう。そして、すでに主の平安が私にうちにあると宣言します。主の平安は、世が与えるのとは違います。完全な保証付きです。主が守っていてくださるので、大丈夫なのです。主は、全能者です。ですから、主にできないことは何一つありません。その主が、あなたに平安を残します、と約束しているのですから、悪魔が不安をそっと心に教えれてきても、弾き飛ばすことができます。決して、不安に支配されることはありません。信仰で勝利できます。心を騒がせたり、恐れることは、主を信じていないことになりますから、決してしてはいけません。信仰で勝利できるのです。あなたはイエス様を信じているのですから、その御言葉も信じているのです。そのことを確かめなければならない日が来るかもしれませんが、跳ね除けてしまいましょう。初めが肝心なので、不安になりそうになったら、今日の聖句を唱えてください。主の平安があなたを安心させますように。

 

10月17日(木)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

詩篇103:3~5

 

あなたの神様はどのようなお方でしょうか。今日の聖句に書かれた通りに、あなたにしてくださる神様なのです。これ以上のことが必要でしょうか。私の知る限り、これが人間にとって最高のことなのです。富が増せば、いつでも心配が絶えなくなります。罪に咎は人間の悩みの原因ですが、これは人間には解決できません。そこで、罪人として生きています。それが良いことかどうか考えればわかりますね。私たちは罪と咎の赦しはイエス・キリストによると知っています。ですから、主に購っていただきました。病気では幸福になれませんから、癒しも主からきます。罪人の最悪なことは、死ねば墓から出ることはできないということです。しかし、クリスチャンは復活して、ラザロのように墓穴から出てきます。あなたには恵みとあわれみが生涯ついてきます。主がそうなさったからです。あなたの一生は良いもので満たされる、と書いてあるので信じてください。あなたが今まだ聖句の通りになっていなくても、心配いりません。信じてくださればいいのです。罪人は否定的な考えでいっぱいですが、聖句には「冠」とあるように、あなたの思考の中に主の恵みがあふれます。そしてイエス様の憐れみが満ちてきます。ですから、肯定的に考えるようになります。まず、信じるための思考が変えられます。それを邪魔しないことです。うまい話に聞こえるので、経験上から否定してしまうようになっていますが、信仰はそれを打ち破る力です。信仰は身近で役に立つのです。

 

10月18日(金)

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ローマ10:11

 

私たちはイエス・キリストを信じています。それは人生で最も良いことです。なぜなら、いつでも希望があり、主の助けがあることを信じることができます。今、あなたが何かを始めようとするなら、主に祈るでしょう。そして、確信を得てから始めるはずです。でも、心に平安がなく、確信を持てない時には、きっと主の御心ではないとあきらめることができるのです。何か困ったことが起こったり、悩みがある時には、主に頼ろうと祈ります。そして、信仰に成長してくれば、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」との御言葉が本当であることを知ります。そして、主に信頼する人たちは、必ずへりくだるモーセのような人になります。この世とは正反対ですが、豊かな人生を送ることができるのです。このように、主はあなたの信頼に応えてくださる大いなるお方です。あなたは賛美せずにはおられません。賛美があなたの信仰を奮い立たせます。賛美の中で喜びを得ましょう。