12月1日(日)
あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
Ⅱテサロニケ2:13
クリスチャンの悩みは、自分が聖なる者になれていないのではないかというものです。それで、なんとかしなければと無用な努力をする人たちがいるのです。しかし、聖書には、「あなたがたを聖なる者とする”霊”の力」とはっきり書いてありますから、聖なる者とするのはあなたではなく、聖霊の力によるのです。どうしてか、これだけで聖霊と突っ走って行く人がいますが、実はもう一つ大切な教えがあります。それは、「真理に対するあなたがたの信仰とによって」とあることです。ですから、聖霊だけでもだめだし、真理に対する信仰だけでもだめなのです。実に、聖書は「聖霊の力」と「真理に対する信仰」の二つを両輪のように必要であると明らかにしているのです。ですから、真理は、イエス・キリストを知ること、そして聖書を知ることですから、聖書を通してイエス・キリストを知り、聖書から真理を知るということで、信仰が機能するようになっています。現代の教会は、こちらばかりを強調して、あたかも「真理に対する信仰」一つで救われると思っているようです。ところが、「聖霊の力」という私たちを変える動的な面も必要なのです。ですから、この両方をバランスよく理解していることが大切なのです。どちらかに偏ると、途端にバランスを崩して、何かしらおかしくなってきます。そうならないように、いつでもバランスを取っているかどうかを吟味してみましょう。
12月2日(月)
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイ1:23
12月に入り、今年もクリスマスがやってきます。クリスチャンになってから、何度もこの聖句を読まれたと思います。そして、イエス様のことをインマヌエルと呼ぶことを知ったのです。その名の意味も聖書に書かれていたので、イエス様の意味を驚きと共に知ったのです。それは、クリスチャン人生で何度も思い出す必要のある名前でした。「神は我々と共におられる」。なんと素晴らしいことでしょう。この名から何を学べるかといえば、「我々」と言っていることです。「私」ではないのです。クリスチャンになるというのは、教会の一員となり、キリストの体になるという意味です。ですから、これからは一人ではないのです。この世では、家族がいても、友人がいても、「私」として生きていたのですが、イエスに救われて、私には兄弟姉妹が与えられ、「我々」として生きるようになったのです。それは、神様は教会と共にあるという意味でもあります。人間的に見れば、教会には欠けがあるように見えるかもしれませんが、キリストの十字架によって罪贖われ、信仰によって義とされ、召し出された聖徒の群れと共におられるというのです。「私が」と言って自我に翻弄されて生きてきたものが、自我もろともにキリストの十字架にかかり死にました。ですから、「私」とはもう言わないで、「我々」と言うのです。主の祈りもそうなっていますよね。古い人は「私が」と言って生きてきましたが、新しい人として生きることになって、「神は我々と共におられる」と言えるようになったのです。謙遜にならなければ、決して言えない言葉なのです。
12月3日(火)
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかに優っている。
マタイ10:29~31
私は田舎に住んでいますが、朝早くから雀たちがおしゃべりをしてるのかうるさいぐらいに騒がしいので、何を話しているのか聞いてみたくなります。この雀の価値はいくらでしょうか。たいしたことはないと思われるでしょう。では、人間と比べたらどうでしょう。人間と雀を比べるような人はいないでしょう。比べものにならないくらい人間の方が価値があるからです。イエス様は、誰も雀が死んでも気にも留めないだろうが、天の神様はそうではない、たった一羽の雀さえ、お許しなしには地に落ちないと断言されたのです。これは、あなたの価値がどんなに高く、あなたの一生を神様が支えているということを教えています。初めに創造して後は放っておかれるのではないのです。あなたが産まれてから今日に至るまで、あなたを支え、助けてこられたのは神様です。あなたは、それを認めることなく、自分の力で生きていると思っていたでしょう。そして、だんだん、社会の荒波に揉まれて、自己価値を下げていったのではないでしょうか。神様は変わらないので、あなたの価値は高いままです。このギャップが、あなたの信仰にも悪い影響を与えます。信仰は神様への信頼です。この世界でどんな酷いことが起こっても、恥ずかしいぐらい酷い失敗をしても、神様にとってはあなたは愛すべき人で、大事な大事な人なのです。あなた以上にあなたのことを神様は知っています。あなたの髪の毛の数を神様はすぐ言えます。だから、神様はあなたに関心があります。あなたを祝福したいのです。「神様、私は幸せです」というあなたの声が聞きたいのです。自分なんてダメだと思う日に、あなたはたくさんの雀よりもはるかに優っていると思い出してください。
12月4日(水)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
ルカ6:36
私たちは、聖書でイエスの教えを知ると驚くことになります。この世の人間の常識は、罪人の常識に過ぎなかったということに気がつくだからです。ですから、イエスが「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(6:27)と言われると、そんなことはできないとすぐに反応してしまうのです。それから、クリスチャンはこんな難しいことを本当に守れるのだろうかと首をかしげてしまいます。このような人間が神様のことなどわかるはずはありません。実は、天の父はこの通りに実行しているのです。少し言い換えるとわかります。「神の敵である罪人たちを愛し、神を憎む罪人に親切にし」と神は実際にやっているのです。それがわかったのは、イエスが天の父の意思を人間たちに実際にやってみせるからです。今日の御言葉は、クリスチャンになって、神を知るようになった人に信仰の極意を伝えています。それは、「あなたがたの父が憐れみ深いように」とは、あなたが経験した真実です。それを体験したので、罪人であったのに救われました。天の父が憐れみ深いことを知ったあなたはその父に倣う者となる必要があります。その時、律法を成就する者となっているのです。神の愛は神の憐れみでもあるということです。
12月5日(木)
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対して無頓着でいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、さらに神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。
ヘブライ2:1~4
一行目からクリスチャン全員に対する注意が出てきます。福音は複雑ではありません。そして、聖書も同様に神の啓示なので信仰があれば、聖霊の解き明かしが期待できます。つまり、誰でも信仰を持っている人は神様に聞くことができるということです。そして、神様は何かの方法であなたがたへ語りました。物覚えが悪いというのなら、聖書を読むことです。以前よりはよくわかるようになったはずです。神様と悪魔の善悪の大闘争はまだ終わっていません。クリスチャンだから大丈夫という考えでは危険です。「私たちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません」と言われ、さらに「そうでないと、押し流されてしまいます」と警告されています。青年の時から信仰を持ち、牧師となり、人生の後半まで来て、それまでに、押し流されてしまった人たちが何人いたことか。長老であろうと牧師であろうと関係ありません。余計なことに耳を傾けてはいけないのです。新約聖書を読むとわかりますが、初代教会に異端が入り込みました。すぐにです。しかも、それは霊的な真理を装っていました。パウロにも挑戦してくるような危険な思想でした。キリスト教のように装っていながら、他の宗教なのです。今は、インターネットを通じて、異端思想や間違った教えが溢れています。聖書に耳を傾けて聞いたことにいっそう注意を払わなねばなりません。特に気をつけなければならないのは、「しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物」はイエス・キリストを証ししているのです。福音宣伝のために与えられているものなのですが、こうした力を自分が超能力者になる、自分を高めるものとして求める人たちが少なからずいるということです。このようなことがあるので、現代には霊的な現れは起こらなくなってきたのです。どうして、霊的な力の現れをイエス・キリストを知ることに用いないのか不思議です。聖書に書かれたことに注意を払いつつ、神様に近づいてまいりましょう。
12月7日(土)
神の言われることはすべて清い。
身を寄せればそれは盾となる。
御言葉に付け加えようとするな。
責められて
偽る者と断罪されることのないように。
箴言30:5、6
聖書を読むようになって、「清い」ということを意識するようになりました。清いの反対は汚れているなので、自分のことが気になるのです。現代では、神の御声を聞く人は極端に少なくなりました。それでも、聖書があるので御言葉をいつでも知ることができます。そして、自分に聖書を通して神様がお語りになることを知るようになります。初めは、これは素晴らしい言葉だ、とか、何か諭されたり、真理を発見した、ということが起こってきます。そうなると、自分の考えや思いではなく、聖書の御言葉の真理が自分を守り、まるで盾のようになるのです。そのために、聖書を読む習慣をつけることが大切ですし、何かが心に分かったなら、その御言葉を生活に適用したり、その分かった真理を盾にしてこの世の様々な誘惑や誤謬から身を守ることができます。中には、聖書は難しいからと読まない人がいますが、聖書ほど不思議なものはなく、すべて神の言葉をして信じて大丈夫です。この世には、真理のように見えてその反対に危険なものが溢れています。ですから、聖書を第一にする必要があります。そうでないと、知らない人の書いたものや語ったものを安易に受け入れて、「御言葉に付け加えようとするな」と責められて、偽る者と断罪される危険があるというのです。聖書に警告されているので、私たちは気をつけなければなりません。神の御言葉が清いのは、その御言葉を受け入れ、御言葉を信じる者を清めることができるという意味です。
12月8日(日)
いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方」と。
神はあなたを救い出してくださる。
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。
神のまことは大盾、小盾。
夜、脅かすものをも
昼、飛んでくる矢をも、恐れることはない。
暗黒の中を行く、疫病も
真昼に襲う病魔も
あなたの傍らに一千の人
あなたの右に一万の人が倒れるときすら
あなたを襲うことはない。
あなたの目が、それを眺めるのみ。
神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。
あなたは主を避けどころとし、
いと高き神を宿るところとした。
あなたには災難も降りかかることがなく
天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて
あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
彼らはあなたをその手にのせて運び
足が石に当たらないように守る。
詩篇91:1~12
これがあなたの人生です。この御言葉の通りに信じましょう。
12月9日(月)
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐もって走り続けようではありませんか。
ヘブル12:1
結局、クリスチャンは競争を走り抜くしかないのです。この世で、人間的に生きていけばどんなに上手に生きていこうとしても、気がつけば重荷が圧迫しています。この世のしがらみです。不思議なことに、それを大事に手放さないでいるのです。人間の常識と非常識が信仰に悪い影響を及ぼしているのです。私たちにとって、お手本になるような立派な人は、聖書に出てくる聖徒たちです。彼らのことを学び、考え、見習い、その信仰姿勢に共感して、同じように信仰の勝利者になろうとするのです。世俗の中には、私たちの模範となるような人はいません。世俗の競争に足を踏み入れれば、気が付かぬ間に飲み込まれてしまいます。私たちは、いつも危ない状態にいることを忘れてはいけません。悪魔の誘惑に耳を貸せば、取り返しのつかないことをするか、あっという間に転落してしまいます。ですから、クリスチャンになった日から、私たちは信仰を持って走り出したのです。これは競争であると聖書は教えています。勝利の栄冠を受けることができるように走るのです。これは、実際にマラソンをするわけではありません。競技に集中しなければ勝てないと教えているのです。それは、この世に目を奪われて脱落してしまわないようにという警告です。どうすれば正しい信仰者になれるのか、信仰に成長しキリストの身丈へと成長でするにはどうすればいいのか、麻の衣を着るにはどうすればいいのか、新エルサレムに入るにはどうすればいいのか、こうしたことに集中して、信仰の道へと進むことを競争と言っているのです。ですから、この競技に勝つ秘訣を聖書に求めると、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けよう」とありました。互いに励まし合い、支え合って見事にゴールしたいものです。
12月10日(火)
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
ルカ11:13
クリスチャンが神の子と呼ばれているのは、ただの気休めではありません。神様のご計画にあることなのです。そこで、今日の聖句の意味が見えてきます。人間の中で悪い者でさえ、自分の子どもには良い物を与えることは理解できます。ましてや良い父なら、なおさら良い物を子どもに与えるでしょう。では、天の父と子に当てはめてみると、やはり、父は子に良い物を与えるのです。この前提で、クリスチャンが聖霊を求めると、聖霊が与えられることになります。それなのに、なざ、現在の教会でクリスチャンが聖霊を求めても与えられないと言うのでしょうか。とても、不思議です。聖書に、「どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と書かれていれば、なおさらです。ここだけ見ますと、聖霊を受ける条件は、「求める人たち」です。善行を積み重ねたわけでもなく、義人と認められたからでもなく、断食祈祷を続けたからでもないのです。聖霊をいただけるのは、ただ求めたからです。そうなると、どこかで現代人は疑いの心が働いているのでしょうか。聖霊を求めながら、心のどこかで求めても聖霊をいただけないと思っているのでしょうか。この聖句からだけ考えれば、あとは天の父と親子であると言うことでしょうか。「天のお父さん、聖霊をください」と心から願えばいいのでしょうか。早速、試してみる価値はあります。天の父から良い物をいただけると理解していることが大切です。自分には何かもらえるなどと考えてはいけない、そんな資格はないから、と自然に思っていないでしょうか。子供の心を取り戻して、お父さんから聖霊を願っていただきましょう。
12月11日(水)
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。
詩篇5:12
「正しい者」とは、どのような人のことでしょう。クリスチャンは正しい者でしょうか。私たちは、クリスチャンになってから、正しく生きようと強く心に思いました。今までとは違う、清い生き方をしなければと意気込んだでしょう。しかし、問題は、「正しい者」になろうとしたのに、果たして自分は正しい者になれたのだろうか、と不安になることです。さすがに、長くクリスチャンでいれば、聖書の知識もいろいろと身についてきます。そうなると、「肉」とパウロが指摘する私は死ななければならない、とストレートに言われます。しかし、イエスの十字架は、私たちの肉を一緒に釘付けにすることができると言うのです。これ以上ないありがたい話です。自分に罪を犯させ、汚れていく根源なのですから、イエス様に願って肉を十字架に取って欲しいのです。そうすれば、楽勝と思っていたのですが、ガラテヤ書には、自由にしたことが示され、呪いからも自由になり、今度はその自由をどうするか選びを間違わないように教えています。そこに肉が出てきます。そうです。未だ肉は生きて働いているのです。そのために、肉をまた選んでしまう愚かな選択をしてしまわないようにと警告されています。それは、聖霊に従うことで回避できるのです。以前はできなかった、聖霊に従うことがイエスの十字架のおかげで自由にされて選べるようになったのです。このように、聖書に書かれた通りに信じていけば、「正しい者」となれると言うことです。これは、信じる信仰によるのですから、イエス・キリストを信じていけば良いのです。あなたの受ける報いは、主が祝福してくださること、そして、主の愛であなたを囲みます。これこそ愛の盾です。これは、大盾で囲むように、あなたを守ります。このように、信仰を持っているあなたに主の約束は成就します。
12月12日(木)
あなたがたは、あなたがたの神、主の子共である。
申命記14:1
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネ1:12
クリスチャンは、どれほど自分が神の子であるという自覚を持っているでしょうか。あなたは、いかがですか。決して、高慢になるために神の子を名乗るわけではありません。神の子になると言うことは、天の国へ入るためです。この世の人間の歴史が閉じられることが決まっていて、神の子に定められた者は天の都へ入るのです。また、地上生涯でもただの人間として生きるのではなく、イエス様が模範を示されたように、福音を告げしらす者として生きるのです。イエス様を信じて罪から贖われ、解放され、神の子にまでしていただける幸いを告げるのです。そして、神の子ならではの愛をこの世に満たすのです。すでに救われたのですから、過去に縛られてネガティブに生きることはありません。もっと、信仰を表して、幸せに生きることができます。それは愛に生きることです。愛に生きるとは、神のためにキリストのために生きることです。決して自分のために生きるのではありません。ここが一番変わったことです。そのように生きていけば、ゴールは天の都です。
12月13日(金)
あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。
Ⅰペテロ1:22
なぜ、聖書を読み、その意味を知り、真理を悟り、それを信じ、とクリスチャンはこうしたことを必要としているのか、よく理解していないかもしれません。その答えは、「たましいを清め」るためです。文字にしてみると、何か難しく感じますが、真理をイエス・キリストと捉えれば、もう少しわかるかもしれません。もちろん、聖書の御言葉に真理を求めることも正しいことです。魂を清めることが必要なのは、「偽りのない兄弟愛を抱くように」なるためなのです。思い出してください。イエス・キリストは新しい掟を残して行きました。それは、「互いに愛し合う」ことでした。私たちは、罪人であったのですから、そんなに誇れるような者ではないのです。肉に支配されていたときには、肉欲に負け、誘惑されれば罪を犯していたのです。罪は、愛を破壊することなので、どうしても傷ついてしまいます。それでも、イエスに出会い、救っていただいたのです。神に背を向けて逃げていた罪人は、イエスのおかげで、ようやく神に向かって近づこうとするようになったのです。神の想像した人間は、神に愛され、神を愛し、と愛し愛される関係だったのです。ですから、新しい命を与えられ、愛に生きる者とされたのです。それなのに、古い自分に引き戻されて、邪悪な心が出てくる危険があります。そこで、それを防ぐために、魂の清めが必要なのです。魂が清まれば、過去の罪や苦しみの記憶から浄化されます。そうなれば、どんな人に対しても、愛が生まれるのです。教会の中でできないことは、この世に出ても何もできません。ですから教会で訓練するのです。聖書、「互いに心から熱く愛し合いなさい」と教えています。
12月14日(土)
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
ローマ7:4
私たちは、救われてクリスチャンになりました。ですから、救いの後のこともちゃんと理解しておきたいのです。クリスチャンになったのだから、正しく清く生きてください、と言われても、それだけではどうしていいのかわからないからです。それでも、教会の先輩などから話を聞いたりして、だんだん、こんなものなのかと生きています。しかし、聖書で確かめなければ確かなことはわからないのです。今日の箇所も大切な御言葉です。私たちがよく聞く「キリストの体に結ばれて」いるというのです。そのために「律法に対しては死んだ者となっています」。さらに、あなたは復活したキリストのものとなっているのです。そうやって、私たちが神に対して実を結ぶようになるというのです。パウロは、同じ言葉を専門用語として、理解されている前提で話していますから、それらを組み立てて全体像を早く見つけることです。私たちの力でキリストの体に結ばれることなどできませんから、これは明らかに神様がキリストを通して実現する救いの方法なのです。
12月15日(日)
強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
申命記31:6
クリスチャンは、一見弱そうなイメージがあります。しかし、人生を生きて行く時に、勇気を出して頑張らなければならない場面に遭遇することが多々あります。クリスチャンとして、正しいことを行う時、正しいと思うことを言わなければならない時など、勇気が必要です。それだけでなく、主に試みられているのではないかと思える時に、特に敵がいる時には、「強く、雄々しくあれ」と鼓舞されています。学校や職場でも、また、映画のトラさんのように、「男はつらいよ」と言いたくなる時にも、「彼らを恐れてはならない。おののいてはならない」とある通りに逃げ出してはいけないのです。主と共に前進しているのなら、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束があります。いつでも、忍耐強く生きているクリスチャンも、戦う時には、「強くあれ、雄々しくあれ」が合言葉です。生ける神様が約束されているので、あなたは勇気を出して、敵を恐れずに勝利できます。これが、あなたです。ですから、安心して、主の助けを期待しましょう。
12月16日(月)
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
ヨハネ10:4
パレスチナの羊飼いのお話はよく聞きます。環境の悪い地で、羊飼いの苦労が語られますが、面白いのは、羊飼いは羊の言葉が話せるということです。それは、高い声のような動物のような声というより音だというのです。今日の聖句は、イエス様を羊飼いに例えています。ご自分の羊がいるというのです。羊飼いと羊の関係は、親密で狼のような獣から、泥棒や強盗まで、羊の敵に羊飼いは戦いを挑み、ことごとく追い払うのです。羊飼いは行くべき場所を知っています。羊は方向音痴で自分では安全な所へ辿り着けません。羊はただ一心に羊飼いに頼ります。羊飼いは、そんな羊を名前で呼び、ケガの手当てまでしてくれます。羊飼いはイエス様を表していますから、私たちは、毎朝、羊飼いのイエス様に起こされ、目的地の草地へとイエス様が先頭を歩き、先導してくださいます。羊たちは、そのことが嬉しくてなりません。私たちも、毎日、祈り、イエス様の後をついて行くのです。イエス様の声がわかるというのは、真理か偽りかを見分けることができます。イエス様の教えを聖書から幾度も繰り返し学んでいるので、イエス様の御声を聞き分けることができるのです。私たちを命懸けで守ってくださる強いイエス様に今日もお従いしましょう。
12月17日(火)
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
エペソ5:8
過去には人間であれば、いろいろな暗闇があったはずです。それでも、あなたは主イエス・キリストに出会い、その福音を信じて救われました。その救いの力を過小評価位してはいけません。あなたの思いや考えを遥かに超えて、神様はあなたを祝福してくださいました。あなたは、よく理解できているでしょうか。今日の聖句は真理であり、あなたに適用されています。あなたは、どう考えているかわかりませんが、真実は、この通りなので、過去に縛られることなく、あなたは光の子として生きてください。あなたは、もう罪人ではなく、神の子なので、光の子と呼ばれています。あなたは、いつでも正しく生きることができます。あなたは、人々を光で照らすことができます。人間は暗闇の中ではできることが、光の中では恥ずかしくてできないのです。ですから、世をよくする力が光にあることを理解できると思います。そして、あなたは、その光の子なのですから、堂々と生きてください。誘惑に負けずに、いつでも神様の側にいて、勝利者になれます。明るい心で、イエス様と一緒に生きて行くのです。
12月18日(水)
悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
詩篇32:10
悪者とは誰だろう。その人は、心の痛みが多いと言う。では、私たちには、心の痛みはなかっただろうか。長く生きれば生きるほど、心の痛みは残っているはずだ。あなたが幸せなのは、かつてのあなたがどんな人であったかは関係なく、悔い改めてイエスを信じたななら、罪赦されて、生まれ変われる。当然、悪者ではなくなり、良い人と呼ばれるようになる。聖書があるので、どうすれば、主に信頼する者となれるのかを調べることもできる。そして、悪者がいかに割に合わない、絶対になりたくないものであることを実感を持って理解する。では、賢明なあなたは、「主に信頼する者」になろうと決心したのではないだろう。それは、「恵みが、その人を取り囲む」と祝福の約束があるからだ。あなたは、日毎に悪者の記憶が消え、悪者への誘惑を断ち切ることができるようになる。主が自分を探して見つけ、招いてくださったことを知っている。それにちゃんと応えて、信じたこと。そして、洗礼を受けたことが悪者からの決別を意味していた。教会には自分のために祈ってくださる兄弟姉妹がいる。たとえ、弱くてもキリストがいて、兄弟姉妹が支えとなっている。主を信じて、目が開かれれば、恵みが自分を取り囲んでいる意味がわかるようになる。そして、そうであれば、いつでも恵みに手を伸ばすことができる。これほど、恵まれた人生はないと毎日、主への感謝が止まないだろう。これが、クリスチャンなのだ。
12月19日(木)
主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。
御言葉をあるがままに理解させてください。
詩篇119:169
何十年もキリスト者として聖書を読んで生きてきました。牧師となってさらに、聖書を学び生きてきました。そして、聖書が大切だと言いました。聖書は、旧約聖書1502頁、新約聖書480頁の合わせて一冊の本ですが、読むたびに思索を与え、子供には子供に理解できるように、大人には大人に理解できるように、心を照らします。光が心に入ると、たちどころに暗闇は追い出され、御言葉が心の思いとなります。意味がわからないと言えば、わかるまで気になり、祈ることになります。その答えは、突然に天からやってきます。普通の本は一度読むか、途中で読めなくなるか、それもとも初めから読まずに本棚に飾られているだけです。でも、愛読書なら何回も読むでしょう。では、聖書は?通読することの難しい本です。しかし、聖書には、人間のすべてが書かれています。小説家はそのことに気がつき、小説を書くために題材を聖書に探します。ありふれたキリスト者の一人として、私は歳を取り、聖書の読み方がだんだん変わってきました。「御言葉をあるがままに理解させてください」と願います。詩篇記者は、「わたしの叫びが御前に届きますように」と書きましたが、この祈りがどうしても神に届くようにとの信仰が叫びとなってしまったと言うのです。ともて強い思いが叫びとなるのなら、それを試してみる価値があります。御言葉をあるがままに理解させてください。この叫びが、聞かれたなら、どんなに素晴らしいでしょう。そして、聖書に書かれた祈りなので、これこそ御心にかなう願いとなって、必ず聞かれます。ぜひ、試してみてください。
12月20日(金)
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
Ⅱコリント9:8
クリスチャンは、肉に罪が宿っていることを知り、人間の行いによっては義となれないことを知りました。神の憐れみにより、キリストを通して救いの業がなされ、悔い改めて福音を信じて義とされるのです。さらに、クリスチャンの特権の大きさに驚かされます。それは、今日の聖句に現れています。あなたが、信仰によって生きるなら、あなたは人生において、「常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者と」なれるのです。どうしてそうなるのかと、不思議に思うかもしれません。才能の問題や、置かれた環境や、人間的な様々な問題だって、あるのですから、こんなにうまくはいかないのではないかと疑問が湧いてくるでしょう。しかし、この約束は、裏付けがあるのです。聖句をさらに読むと、このようになるために「あらゆる恵みをあふれるばかり与える」と言うのです。もちろん、不信仰ではこうならないでしょうが、あなたが何かしらのコンプレックスを持っていても、ハンディキャップがあると思っていても、関係ありません。これらの恵みをあふれるほど与えることを約束されるのが神様だからです。あなたは、この恵みをそのまま信じて受けるべきです。そうすれば、神様のために生きることができます。この世の常識に縛られて生きる人には、決してできません。ですから、信仰によって、とクリスチャンの常識を選択しなければなりません。これほどの特権を肉を満足させるためには使わないからです。そうではなくて、聖霊に従うために使います。そうすれば、神様のために生きることができます。それ以上の喜びを知りません。信仰の世界へあなたは召されたのです。
12月21日(土)
しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』
Ⅰサムエル16:7
見てくれが良いからと言って、中身も立派と決まっているわけではありません。容貌もカッコもいいのに、中身は空っぽということだってあります。神様は、人間と違った見方をされます。つまり、その人の本質です。聖書では「心」とあります。人間は、勉強して出世することには頑張りますが、心を磨き、品性を整え、人として心の清い者になろうと励むことはありません。容貌を整え、美容整形までして、外見には気を配るのに、心を美しくしようとはしません。神様は、そこを見ていると言うのに、神様はいないと言い切る人が多すぎます。そのうち、後悔することになるでしょうが、それでは遅いのです。クリスチャンの皆さんは、神様に内面を見られていることを知っていると思います。清い心を求めて今日も元気に過ごしましょう。
12月22日(日)
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。
使徒2:28
クリスチャンでよかったと心から思うことがしばしばあります。病気や困ったことがあれば、クリスチャンの誰かが祈ってくださる。心にかけてくださるだけで、ありがたいと思います。日本人でクリスチャンになること自体が珍しく、神様が救ってくださったと不思議に思います。それまで考えたこともない「いのちの道」を知らせてくださったのは、神様の憐れみによるのでしょうが、人生の目的が変わりました。「御顔を示して」とは、聖書に中では神様が祝福されることを意味しています。神様の方から働きかけてくださらないと、私たちは不信仰の中にながくいましたから、神様への感性が鈍くなっているのです。そこで、神様が私たちのためにしてくださった恵みも気がつきません。しかし、クリスチャンになると、神様の恵みがだんだんわかるようになります。それが圧倒的なので、目が開かれると驚きでしかないのです。神様を信頼していれば、神様は愛なので、愛の御業が信じる人へ働いてきます。この世ではあり得ない、良いことが自分の人生に現れてくるのです。それは、その人がどんな時でも神様を信頼して信じることができるようになるからです。「私を喜びで満たしてくださる」という御言葉は本当です。この御言葉の通りに、あなたの人生が喜びで満たされますように。
12月23日(月)
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ローマ4:5
人間は聖書では罪人と言われていますし、正しい者は一人もいない、などと厳しく指摘されています。ですから、誰でも同じようなもので、頑張って真面目に立派な振る舞いを心がけていても、善行を積んでいると誇っても、完全ではないのでどこかで神様から不合格をつけられるでしょう。ですから、救いは恵によるのです。本人の功績にはよらないということです。「何の働きもない者」と聖書に書かれているのは、神様は人間の小さな過ちに、いちいち目くじらを立てて、叱責しているような小さな神様ではないのです。人間がどんなに頑張っても、神様の標準、つまり律法を守ることは困難なのです。ですから、律法を守れるような完全な人間がいれば別ですが、普通の人間ならば、律法違反者となって、神様に義と認めていただけず、逆に不義と裁かれてしまいます。ですから、そんな人間を救うには、今日の聖句のように神様が救いの道を作られて、この福音を信じることで救いを可能とするしか方法がなかったのです。これは、神様の愛であり、憐れみなのです。ここから、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェソ2:8)。さらに、「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(同)とある通りなのです。このことを決して忘れてはいけません。自分の力でないのです。神の賜物ですから、私たちは謙遜になって、主に忠実に仕える者として生きていくのです。
12月24日(火)
しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
Ⅱコリント2:14
私たちは、何もしていないようで実は「キリストを知る知識のかおり」なのです。私たちが生きているだけで、意味があるのです。私たちがクリスチャンであると信仰を持っているなら、導かれてキリストによる勝利の行列に加えられるのです。つまり、一人で頑張らなくても良いのです。神様の導きに従順に従うと決めていればいいのです。そうすれば、必ず一人ではできないようなキリストの働きができるようになります。それも、自身が一番楽しみながらそうなるのです。神様が願いを起こされれば、それは必ず成ります。ですから、ワクワクすることばかりです。キリストによって救われた証人がこの世で、何もせずに生きているはずがありません。ですから、自分で何かしようと焦ることもありません。神様はあなたの思いを知っていますし、あなたにして欲しいことがきっとあります。あなたは、主を信じているので、誰よりも忠実にその働きを成し遂げるでしょう。もしかすると、あなたは気がつかないうちに、主の御用を務め、「キリストを知る知識のかおり」となっているのではないでしょうか。喜び多い一日と成りますように。
12月25日(水)
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
エフェソ3:16、17
このように、私たちに求められているのは、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者と」なることです。もちろん、これを目標としても自力ではできないことなのですが、そのために必要な過程があって、それも難しいことではないのです。まずは、御父が「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強め」ることです。そして、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」ることで、目標を達成できるようにするのです。このように書かれているのは、この目標を達成することが全てのクリスチャンに必要だからです。この目標を達成することが、全てのクリスチャンの悩みを解決することになるはずです。というのも、私たちは自分の内に愛がないと感じる時があるからです。愛が根底にあって、それで愛し合って生きていくことが律法に適っているので、愛の問題は大きいのです。実際には、愛じゃないことがどんどん出てくるのがこの世の現実です。その中で生きるクリスチャンも影響を受けます。それでも、信仰があるので何とか持ちこたえているのですが、勝利者となるには、もっと何かが必要だと感じているはずです。そして、その答えが、今日の聖句なのです。ですから、この通りになることを祈り求めましょう。
12月26日(木)
「彼はわたしを慕う者だから
彼を災いから逃れさせよう。
わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え
苦難の襲うとき、彼と共にいて助け
彼に名誉を与えよう。
生涯、彼を満ち足らせ
わたしの救いを彼に見せよう。」
詩篇91:14~16
詩篇91篇は「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ」との呼びかけから始まります。この有名な聖句を読むと、クリスチャンは神のもとに身を寄せて隠れている人のことだとわかります。つまり、この詩篇は、神を信じている者がいかに優れた神に守られ、頼り甲斐のあるお方に、自分自身をあずければ、確実に守られ、助けられることを確信させます。それだけではありません。私たちの信じる神は、全能なのです。ですから、人間の力ではどうすることもできないような人間を襲ういかなる災害、災い、疫病、悪魔の攻撃、敵の攻撃、こうした命の危険すら感じる時の完全な保護者なのです。そして、信仰は、この素晴らしい神を信じて、信頼することなのです。自分の人生を主に信頼してゆだねることができるのなら、その報いは大きく、驚くほどなのです。この信仰者は、主を愛し慕っています。ですから、災いから逃れさせてくださいます。神の名を知るとは、神をよく知っているということです。このような人は信仰的にも社会的にも高く評価されるようになります。このような信仰者が神に祈り呼び求める時、神は必ず答えてくださいます。最悪の事態、苦難が襲っても、神が共にいて助けてくださいますから、大丈夫です。彼あるいは彼女には、ありがたいことに名誉が与えられ、生涯、を満ちたらせてくださいます。神の救いを見せようというのですから、再臨の日を楽しみに待つことができます。