2024年7月ディボーション

7月1日(月)

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

ヨハネ36:26

 

わたしたちの希望はイエス・キリストにあります。この地上で、日々の生活はそれほど楽ではないでしょう。時には、自分が見捨てられたと思いたくなるような経験もするかもしれません。主の御名を呼んでも、応えてもらえない日があれば、なおさら、孤立して孤児のような気持ちになるかもしれません。キリストが天に帰る時、弟子たちを地上に残してこなければなりませんでした。彼らには大変なことが待ち受けています。キリストを信じているゆえに迫害され、苦労するのがわかっていたのです。それでも、そうするしかなかったのです。弟子たちは、孤軍奮闘よくやりました。彼らの力は、天から降ってきた聖霊でした。つまり、約束の聖霊を本当に送ってくださったのです。そして、聖霊はキリストと同じもう一人の救い主でした。ですから、キリストを信じている人には、聖霊がいつでも一緒にいて、決して一人にはしないのです。ですから、不思議な助けがあり、自分が諦めなければ、道はいつでも開けて、困難を乗り越えることができます。聖霊はあなたに誠実で、信頼できる愛のお方です。ですから、あなたの助けはすでにあなたのもとに来ているのです。

 

7月2日(火)

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

Ⅰペトロ1:5

 

私たちは、自分の非力を感じている者です。それでも、この世で起こるどんなことにも耐えられると知っています。それは、主イエスへの信仰によります。事実、これまでも人から見れば、大変と思われるようなことも無事に乗り越えてきてきます。もう少し言えば、大変なはずのことが大変と思わずにやってきたのです。それは、全て主イエスのおかげなのです。私たちは、「神の御力によって守られて」います。その中で信仰生活を送り、いつも主に助けを求めてきたのですが、実際に助けられて今があるのです。ですから、主への感謝が心にあります。この先も、信仰によって、私たちは生きていきます。そして、聖書に記された終わりの日を向けるでしょう。それは、生きてか、眠りについてかはわかりませんが、はっきりしていることは、救われるということです。終わりの時に、その救いの意味を知ることになります。神様が用意しておかれた救いです。それが現れるのです。あなたは今も主を信じています。その信仰が最後の救いをいただける理由なのです。主イエスは、必ずもう一度現れます。救いを実現するためにです。ですから、地上の試練もきっと主に助けていただきながら、無事に乗り切っていけます。主を信じることの喜びは、最後の救いが現れた時に爆発するでしょう。これ以上の喜びはないという歓喜が待っているのです。そのことを楽しみに、信仰生活を明るく過ごして行きましょう。 

 

7月3日(水)

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

Ⅰコリント13:12、13

 

昔の鏡は、今と違ってぼんやりしか映りませんでした。まさに「おぼろに映ったもの」にしか見えなかったのです。クリスチャンも、神様を信じ、イエス様を信じていると言いますが、直に見たことはありません。しかし、いつでも主のことを考え、祈り、信じて生きています。そのために、聖書を通して神様を知り、イエス様を想像して見ているのです。しかし、それは、実物を自分の目で見たこととは違います。それこそ、見ないでも信じているのです。しかし、預言者は顔と顔とを合わせて見ることになる、と言っています。つまり、再臨の主と会えるということです。ですから、クリスチャンには、信仰と、希望と、愛、この三つがいつまでも残るのです。再臨の時に、キリストと共に新エルサレムへ入るのです。それは、この地上生涯がどのようなものとなろうと、信仰と希望と愛があれば、乗り切ることができるという意味です。信仰だけでは厳しいのですが、希望があれば試練でも乗り切れます。さらに、キリストのように生きたいのなら愛が必要です。信仰が弱った時も、希望が消えかけた時も、愛があれば持ち堪えることができます。愛は奇跡を生むからです。ですから、この三つが揃っていれば、天国の入場券を手に入れたようなものです。このことを覚えて、クリスチャンとして堂々と生きて行きましょう。

 

7月4日(木)

しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

Ⅰテサロニケ5:4~6

 

「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」。その通り、わたしたちは突然やって来ると知っています。しかも、その日は教えられていません。人々が油断している時に、突然やって来るのです。その油断している状態を寝ていると表現しています。そして、クリスチャンは光の子なので、暗闇ではなく、光に属する者なので、寝ることがないと言っています。目を覚ましているようにと昔から、言われてきました。再臨はクリスチャンにとっての最大の希望なのです。人間的には、一体いつ来るのか少しでも知りたいと思うでしょう。確かに、時のしるしをイエスは教えました。また、ダニエル書や黙示録なども世の終わりのタイムスケジュールを大まかに記しています。しかし、その日時はわからないのです。そこで、眠った信仰ではなく、目を覚ました信仰を意識する必要があります。さらに、「身を慎んでいましょう」と聖書に書かれているので、油断なく再臨を待望していることが望ましいのです。

 

7月5日(金)

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

ガラテヤ6:7、8

 

私たちは、自分の「蒔いた種を刈り取る」と聖書と同じような言葉を使います。大抵は、何か失敗してしまったような時に、自業自得と同じような意味で使います。自分がそもそも原因を作ってしまったので、その悪い結果の責任を取らなければならないといった時に使います。クリスチャンは、神が生きておられることを知っています。しかし、人が神を信じているのなら神はその人と共にいます。ですから、神を信じているのにこんな悪い結果になった、という考えはおかしいのです。「人は自分の肉に蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」と書いてある通りなのです。それを神のせいにしてはいけません。よく考えてみましょう。「自分の肉に蒔くのか、霊に蒔くのか」どちらが正しいでしょう。聖書は、「肉から滅びを刈り取り」、「霊から永遠の命を刈り取ります」と書いてあります。つまり、私たちの生き方は、「肉に蒔く」か「霊に蒔く」かのどちらかになるから、気をつけるように促しているのです。そのようなことを考えずに生きていれば、「肉に蒔く」結果になりやすいのです。最後に裁きがありますが、それは自分が肉に蒔いたのか霊に蒔いたのか、そのことが反映されるのです。クリスチャンになっても、そのことの意味を理解していない人がいます。肉の自分を十字架にかけなさいと言われているのは、滅びを刈り取らないためなのです。

 

 7月6日(土)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ローマ4:5

 

人の救いをこれほど明確に教えている箇所はないでしょう。教会でも「信仰による義」という言葉を使って人の救いを教えます。ですから、信仰が大切であると思っているでしょう。ところが、今日の聖句を読むと誰もが驚くことになります。それは、立派な信仰がなければ救われないと勘違いしている人にも目からウロコが落ちるような驚きがあります。「何の働きもない」というのは、律法を正しく守れないというほどの意味です。そして、驚くのは次です「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら」とあるからです。律法学者やファリサイ派の人がいかに見当違いであったかがわかります。また、クリスチャンでも真面目に律法を守ろうと努力する人たちにとっても目が開かれる言葉なのです。クリスチャンになっても、自分が義人になったとは到底思えずに、不安を覚える人は少なくないはずです。ところが、ここでは、「不敬虔な者を義と認めてくださる」と言われていますから、自分はダメだと思っているクリスチャンは、ハッと胸が突かれます。こんなダメな自分を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるというのです。クリスチャンは、救われたので、これからは正しい人として生きようとしています。しかし、義人と呼ぶには、いかにも未熟なのです。人間的にも小さくて、およそ敬虔な人とは言えないのです。それでも、そんな自分を主が義と認めてくだると信じられるか、と問われているのです。それで、「信じます」と信じるなら、その信仰が義とみなされるというわけです。なんとありがたいことでしょうか。疑わずに、信じて、この恵みによる救いを感謝しましょう。

 

7月7日(日)

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

詩篇103:3~5

 

人間を苦しませ、悩ませ、悲しませるものは、咎と病と死です。私たちは色々なことを我慢したり、耐えてきました。忍耐が大切だと知るまでに、すでに忍耐してきたのです。しかし、罪や咎は私たちの大切な深いところをむしばみ腐らせます。病は生活を簡単に破綻させます。その苦しみは二度と味わいたくないと心に刻まれます。そして、人として何も成し遂げることもできずに死を迎えるなら、むなしいものです。ところが、ある日、救い主がいることを知ります。その名はイエス・キリストです。イエスは、今日の聖句に書かれた通りにしてくださいました。つまり、咎、病、死から救われたのです。その方法は、神の愛でした。福音を聞くまで知らなかった愛です。それは、驚くことに十字架に現れた愛なのです。十字架に磔になったイエスのことは知っていましたが、それが私のためであるとは知りませんでした。関係が無いと思っていたのです。しかし、そんな恩知らずの者のために主は十字架で苦しまれ、卑しめられて死んだのです。それが、私を救う唯一の方法だったからです。神の愛を知りました。神は、あなたを愛しておられ、罪があるうちはできなかったことを、イエスの十字架によってまず罪を贖い、そして、信仰を与え、「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる」のです。神は愛なり。あなたは、この神の恵みを知ったのです。では、あなたは、神にどうやって報いるのでしょう。神のため、イエス・キリストのために生きるのです。それは、神を愛することなのです。

 

7月8日(月)

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。

箴言25:13

 

戦国時代、籠城した敵に使者を遣わすことがありました。今も、イスラエルがハマスとの戦いで、使者が遣わされ、停戦交渉が続いています。使者を遣わす者は、行き詰まりを打破したいと思っていたり、停戦を実現したいと思っていたり、何かしらの難しい交渉を成功させるように、使者を遣わしているのですから、それがうまく行けば、遣わした者の喜びは大変大きかったのです。同じように、クリスチャンである私たちも神の使者なのです。一人一人にそれぞれの使命があります。それは、信仰生活の中でだんだんわかってきます。主に導かれてきっと悟るでしょう。そして、それはあなたにしかできない使命なのです。あなたは忠実な使者になれます。罪深い人間の世界では、人間の愚かさばかりが目につきますが、今年の夏も猛暑となると言われているように、その原因が人間であることを度々報道されています。しかし、それを認めないで地球温暖化を防ぐことをしないばかりか、加速させる人もいるのです。このような愚かな人間がいることで、今までの生活が送れなくなり、水や食べ物が枯渇し、奪い合いによる戦争が起こると予言する専門家もいます。世の終わりは近づいていると誰でも考えるでしょう。そのような時に、神はどうしているのでしょう。忠実な使者を遣わしたのです。さて、私たちは、箴言のように主の心を生き返らせることができるでしょうか。「夏の暑い日の冷たい雪のようだ」と言われるのでしょうか、奇跡を起こすことを期待されているのでしょう。地球人口の三分の一のクリスチャンがそれぞれ主に忠実な使者になれば、大きな奇跡を生むことができるのです。そのことを覚えて、自分の使命は何か主に祈って聞いてみましょう。

 

7月9日(火)

主の使いは主を恐れる者のまわりに陣を張り、彼らを助け出される。

詩篇34:7

 

主の使いは霊なので、目には見えません。しかし、霊の目が開かれれば確かに見ることができます。終末のクライマックスで、迫害や暴動が起こります。その時、生かされているクリスチャンは、逃げ惑うかもしれませんが、神の保護はあります。さらには、追い詰められて逃げ場を失った時には、今日の御言葉を思い出してください。その通りに、天の軍勢があなたを取り囲み、陣を張り巡らせるのです。主の御使によって、あなたは最後まで守られ、助け出されるのです。このことは、何も終末の最悪な場面だけのことではありません。あなたが酷い目に遭うことはないと思いますが、万が一、あなたに攻撃を仕掛けてくる者があれば、天使たちは、あなたを囲んで守ってくださるでしょう。ですから、あなたは心配しないでください。いつでも、主を信じて平和に暮らしてください。あと、どれぐらいで再臨が来るかは誰もしりません。それが明日なのか、10年後なのか、30年後なのか、誰も知らないのです。それなので、イタズラに恐れてはいけません。自分は、主イエスを信じているので、大丈夫だという信仰を持っていてください。天の万軍があなたを力づくで守ってくれますから。

 

7月10日(水)

恵みと慈しみを追い求める人は

命と恵みと名誉を得る。

箴言21:21

 

人間の願い求めるものは、まずは命です。命がなければ何を得てもむなしいからです。さて、健康で命の心配がなければ、豊かな生活を求めるのです。つまり、何をやっても成功するとか、出世するとか、良縁に恵まれ幸せな家庭を築き、家庭も平和であること、健康や経済的にも恵まれるなどです。さらに、人間の欲は尽きませんから、一番手に入りにくい名誉を得たいと願うのです。このために、世の人々は思い煩い、競争し、ライバルを蹴落とし、時には悪に手を染めるのです。愚かなことです。彼らの得たものは墓まで持って行けませんし、気苦労が重く背中にのしかかってきます。一見幸せそうですが、破綻の予感はいつも消えません。自分の力を過信すればすぐにつまずくからです。では、クリスチャンは、どうでしょうか。聖書が教えるのは、まず、「恵みと慈しみを追い求める人」と条件を示しています。その人は、「命と恵みと名誉を得る」というのです。大変興味深いことです。ここでの「命」は「永遠の命」です。「恵み」とは、信仰を持って神を礼拝し、天からくる平安の内に生きることです。神を愛しているので、この人には恵みがとどまるのです。この人は、自分だけ良ければいいという利己的な考えを決してしません。それよりも、恵みと慈しみを追い求める人なのですから、隣人への愛を忘れない人です。この世の人々は皆罪人で滅びに向かっているので、イエスの救いを伝えたいと願っています。そのためには、忍耐深く、神の愛とイエスの恵みを自分の存在で表そうとします。それは、聖霊が自分の内にいて、そのように促すからです。貧しい人や困っている人にも優しく手を差し伸べます。自分に与えられた才能や賜物を使うように、聖霊に導かれますから、奉仕は苦になりません。人との関わりで一番喜びを得るので、誰かのために奉仕することも楽しいことになります。このようにして、クリスチャンは、最後には名誉を得るのです。クリスチャンの人生は、「恵みと慈しみを追い求める人」と覚えていましょう。素晴らしい人生になります。

 

7月11日(木)

あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また”霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。

コロサイ1:7、8

 

キリスト教会の原型である、初代教会の様子が聖書からうかがい知ることができます。それは、教会にとって何が大切なことなのか、もちろん教会とはキリストを信じる人の群れのことです。人が救われる時、大概は人から福音を聞き、学ぶことによるのです。福音を伝えるものは、求道者のために働くのですが、それは、求道者のために「キリストに忠実に仕える者」であり、「”霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人」と言われています。このことは、私たちにも大切なことです。私たちも福音を伝える者だからです。その人は、二つの特質があるのです。一つは、伝道することが「キリストに忠実に仕える」こととなっている。二つ目は、「”霊”に基づく愛を知らせる」ことです。つまり、キリスト教は愛の宗教だとよく言われますが、それはヒューマニズムではありません。人間の愛ではなく、神の愛が人を癒し、慰め、救うのです。その神の愛がクリスチャンに聖霊が内住することによって現れるのです。ヒューマニズムの愛では人を罪から救うことができません。十字架でキリストが表した愛だけが罪人を救いへと導くのです。その同じ愛が、福音を伝える人から流れ出てくるのです。

 

7月12日(金)

人の霊は病にも耐える力があるが

沈み込んだ霊を誰が支えることができよう。

箴言18:14

 

「霊」とは、私たちの霊のことです。それなのに、私たちは自分の霊を良く理解していません。体のことなら良く知っています。目に見えるから、実感があるのです。それでは、霊はどうかといえば、目に見えませんから普段は考えることも意識することもありません。しかし、人間には心があると言っても誰も否定しません。つまり、目には見えないのに実感できるものがあるのです。ですから、霊もあります。聖書によれば、アダムを生かしたのはチリで体を造り、その鼻から神の息(霊)を吹き入れたのです。ですから、霊は

私たちにとって創造主と結びつくものなのです。ここから創造力が出てきます。ところが、罪が入ってきて悪いことが起こりました。それは、罪は霊を覆って閉じ込めようとするからです。罪を犯せば犯すほど、何十にも霊を覆っていくので、外側の覆いは硬くなってしまうのです。それでも、霊は生きていますが弱ってきます。肝心なことは、霊には「病にも耐える力」があるということです。そこで、悪魔は人の霊を落ち込ませようと攻撃してきます。一旦、深く落ち込むとなかなか自力では上がってこれません。それは、とても苦しいことなのです。しかし、聖霊は天から降ってきて、霊を閉じ込めている硬くなった覆いを砕きます。そうなれば、聖霊と人の霊は、同質なので、一つに交わることができます。このことも重要なことなのです。人間にはできなくとも神にはできるのです。

 

 7月13日(土)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

エフェソ1:3

 

私たちは、福音を聞いて信じて救われました。それは、恵みに満ちていました。罪を悟り、悔い改めへと導かれ、イエス・キリストの十字架に出会えたのです。このように、自力で救われることのない罪人であると分からせ、回心させてくださったのは、主イエス・キリストの恵み、父である神の愛によるのです。そして、クリスチャンになることができました。主は、あなたのために、「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」。

この事実を、どうしてかクリスチャンはすぐに忘れるのです。そのために、あらゆる霊的な祝福を認めないので、損をしているのです。この世で、あなたは不安や恐れを感じる必要がありません。なぜなら、天の霊的な祝福で満たしていただいているからです。天の霊的な祝福が地上では無効になるとでも思っているのでしょうか。そんなことはありません。それよりも、地上のどんな祝福よりも遥かに優れた祝福なのです。ですから、あなたは、いつでも主を讃美したくなるはずです。あなたが否定的に考えなければ、あなたに願いが生じ、かつ実現に至るのです。あなたの手の業はことごとく成功します。あなたの思いは天と結び合い、正しい良い思いが湧いてきます。あなた自身、神様をまだまだ理解していないので、この世の力に迷いやすいのですが、神は忍耐して、あなたを聖なる者にしようと働いておられます。今日の御言葉を信じましょう。そして、この世で何か不足があると信じないように、いつでも必要なものは全て満たされると信じましょう。

 

7月14日(日)

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

エフェソ1:4

 

聖書の中には、私たちの理解を超えた言葉が出てきます。今日の箇所もその一つです。そもそも「天地創造の前に」と書かれていますから、私たちは戸惑うわけです。パウロが生まれたのは、天地創造から何千年も後のことです。それからさらに二千年後に私たちは生まれました。もちろん、天地創造の前の記憶などありません。それなのに、「神はわたしたちを愛して」おられたと言うのです。私たちの存在は神様の思いの中にあったのか、霊的な存在としてあったのか、まったくわかりません。もちろん、神様ですから私たちを遥かに超えた存在なので、私たちが分からないのは当然なのですが、気になるのは「キリストにおいてお選びになりました」と書かれていることです。つまり、皆さんは人間として生まれてきてから、選ばれたわけではないということです。遥か創造以前に選ばれていたのです。では、何のためにか? それは、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと」選ばれたのです。このように、書かれているのですから、皆さんは、自分のために好き勝手に生きようとはできないのです。クリスチャンになってからは、どうすれば聖なる者になれるかと悩まれたかもしれませんが、心配することはないことになります。罪を犯して汚れた者となっていたのに、「汚れのない者にしようと」「キリストにおいてお選びになりました」というのです。確かに、キリストを信じて罪赦され、汚れも清められたのです。自分の力ではありませんでした。全てキリストのおかげなのです。このように、私たちの理解を遥かに超えた神様の愛があり、救済があるのです。それに応えるには、神様を愛するだけでいいのです。

 

7月15日(月)

いかに幸いなことか

主を神とする国

主が嗣業として選ばれた民は。

主は天から見渡し

人の子らをひとりひとりご覧になり

御座を置かれた所から

地に住むすべての人に目を留められる。

人の心をすべて造られた主は

彼らの業をことごとく見分けられる。

詩篇33:12~15

 

「主を神とする国」と聞けば、それはイスラエルだと言うでしょう。願わくば、日本も主を神とする国となることを祈ります。さて、この詩篇は、驚くべきことを私たちに示しています。それは、「人の心をすべて造られた主は」と書かれている箇所です。体を地のチリから造られたことは知っています。神の息である神の霊を吹き入れたことも知っています。そして、生きたもの、つまり魂ができたこともわかります。しかし、心を主が造られたことは知りませんでした。自分の心が神に筒抜け状態なのです。私たちが何を考えているのか分かるのです。心は嘘をつけません。本心が神に見えているのです。それなのに、人間は愚かにも神に偽るのです。無意味なのに。ノアが救われたのは、「無垢」だったからです。無垢とはいかなる状態のことかと考えますが、馬鹿正直のことだと考える人もいます。皆さんは、どう思いますか。心を造られた神に直通で何もかも伝わってしまうのですが、それでもノアは清かったのでしょう。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ17:9、10)。「実に、人は心で信じて義とされ」(ローマ10:10)とあるので、信じると言葉で言うことで義とされるのではありません。ここでも、心なのです。つまり、自分の思考や意思で、と言うことではなく、心が信じているかどうかなのです。悪いことを考えたり、悪意を持つようなことはいけないことですが、それは心を守るためなのです。真心から主を信じ、心で主と繋がっているものであることを忘れないようにしましょう。

 

7月16日(火)

昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

ローマ15:4

 

毎日、聖書を読んで瞑想するような時間を持てたなら、信仰の安定感は増します。この聖書の不思議ですが、「すべて私たちを教えるために書かれたのです」。聖書は確かに古代のイスラエルで預言者や使徒によって書かれたのですが、現代人にも、そして日本人にも十分役に立つのです。世の中には、まだまだ知らないことがたくさんあります。新しい思想や価値観が勝手に押し寄せてきます。しかも、新しい技術や自分たちの知らないことが普通に周りを埋め尽くして行く、進んだ情報化社会に生きているのです。情報の得かたが変わり、スピードが増し、高齢者は置いてきぼりになっています。世界は一体どこへ向かって行くのか? これは、高齢者だけの問題ではなく、若者でも昭和がいいとレトロブームになっているのです。そのような終末の様相が深まった時代に、神の与えてくださるのは、依然として聖書のみなのです。色々な人がいますから、本を読まない人もいます。そこで、聴く聖書というCDが出て、これが良いという人が結構いました。どのような形態であっても、中身は変わりません。訳も複数ありますから、読み比べてもいいですね。聖書の言語で読みたいという人には、日本はあまり恵まれていませんが、入門書はいろいろありますから、少し触れてみれば、外国の古い書物であることを感じられると思います。要は、自分に合った方法で、無理なく長く聖書を自分のものにして行くことです。なぜ、そんなに聖書にこだわるかといえば、「それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためのです」と聖書自身が答えています。信仰を持って生きて行くには、必要なことなのです。信仰、希望、愛の三つがクリスチャンには大切なのです。その二番目の希望を持つために聖書を読むことが必要なのです。

 

7月17日(水)

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

エフェソ1:5、6

 

大変興味深い聖句です。あなたがクリスチャンであれば、関心をもって読むべきです。「イエス・キリストによって神の子にしようと」定めていたというのです。私たちの心配は、クリスチャンになってもなかなか聖なる者にならないと思っていることです。そこで、一部の人は行いに頼ろうとします。聖書に明確に行いによる義は無いと書いてあるのにそうするのです。これらの人たちは、今日の聖句を理解していません。ここには、「あなたの行いよって神の子にしよう」とは書いてありません。そうではなく、「イエス・キリストによって」と書いてあります。つまり、あなたでは無いのです。あなたを神の子

とするのはイエス・キリストなのです。だから、信じてください。あなたの人生にイエス・キリストが深く関わってくださり、色々なことが起こります。時には、困ったり、苦しんだりするでしょうが、その度に神に頼り、祈ってきたはずです。そうやって、イエス・キリストがあなたを神の子にしようとされているのです。これが、神の定めなのです。それでは、何の功績もない者がどうして、神の子にしていただけるのでしょうか。それは、クリスチャンはイエス・キリストの出来事を知っているので、十字架の意味も復活の意味も知っています。それが、自分を罪から贖い、完全に救う唯一の方法であったと理解しているのです。そのためにイエス・キリストがどれほどの犠牲を払われたか、涙を流すほど悟ったはずです。この神の愛を私たちは讃美するのです。イエス・キリストの恵みを褒め称えるのです。このためなのです。

 

7月18日(木)

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

エフェソ1:7

 

わたしたちは、信仰による義が大切であると言いながら、その実際をよくは理解していません。アブラハムの実例が(創世記15章参照)あげられますが、ピンとこないのです。アブラハムは高齢で子をもうけることができなかったのです。しかし、全能の神は子孫に言及し、数えきれぬ天の星のように子孫を増やすと約束します。「アブラハムは主を信じた」(同6節)とあります。主が語られたことを信じるのに、「主を信じた」と書いてあります。「主はそれを彼の義と認められた」(同6節)のです。そこで、今日の聖句もアブラハムのように信じるのです。つまり、あなたは「主を信じた」となるのです。「イエス・キリストによって神の子にしようと・・・お定めになったのです」。これは、具体的には、今日の聖句に書かれてあります。御子の血によって贖われ、罪を赦されたのです。その後に、「これは、神の豊かな恵みによるものです」とあるのは、人間は自分の罪からの救いに何もできない、ただ御子の犠牲によったのであり、人間が主を信じるだけで、主のお語りになったことが完全に成就するのですが、それを「神の豊かな恵み」と表現しているのです。ここで、あなたは、アブラハムのように信じられないようなことを信じたのです。その信仰で神の言葉が成就することが正しいので、義と認められたのです。

 

7月19日(金)

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。

エフェソ1:8、9

 

私たちは、クリスチャンなので、ここに書かれ通りの体験をすでにしているのです。旧約聖書時代の人にとっては、預言でしかなかった救済が、今やイエス・キリストによって成就したのです。それは、神の側が一方的に犠牲を払う救いでした。そして、一見、イエスが十字架で処刑され、敗北したように見えたことが、今やその真実の光景が見えるようにおおいが取り去られたのです。つまり、十字架こそが救いのしるしであり、キリストが十字架で勝利してくださったのです。それが私たちを救うたった一つの方法でした。神はイエス・キリストにおいてその救いを実現してくださったのです。ですから、誰でも悔い改めて、イエス・キリストを信じると告白し、イエスの御名によって洗礼を受ければ、救われるのです。聖霊が注がれ、新しい命が与えられます。キリストの復活が、再臨の時の聖徒の復活を保証しました。ですから、たとえ眠りについても生きるのです。神の御心を感謝しましょう。

 

7月20日(土)

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

エフェソ1:10

 

アメリカの大統領選挙が連日報道されていますが、トランプ氏が暗殺未遂事件を契機に、分断ではなく連帯を訴え始めました。世界中が影響力の強いアメリカの分断を危ぶんでいました。それは、伝染病のように世界に広がり、世界が分断して行きそうな不安が広がっています。今日の聖句は大変興味深いものです。なぜなら、「キリストのもとに一つにまとめられます」とあるからです。人間の歴史は、罪の歴史であり、それは分裂の歴史でした。古代から、バビロン、メディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマと世界の覇権を狙う国々は、広大な地域を征服して行きました。まさに王のもとに一つにまとめようとしたのです。しかし、それらは、結局成功しませんでした。今も、グローバルと言われて、世界は一つとなってきたはずなのに、戦争が起こり、分断が鮮明になり、自国ファーストを声高に言う者が現れると、それに倣うように、あちこちで同じ自国ファーストを唱えはじまえました。貧富の格差も広がり、日本のような国でさえ、経済格差は広がる一方です。このような世界が一つにまとまるのは無理なように見えます。しかし、キリストの到来により、神の計画がわかるようになりました。そして、救済計画はキリストによって進められ、罪人が救われる秘密もあらわになり、「時が満ちるに及んで、救いの業は完成され、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられます」。つまり、文字通りに一つになるのです。国と国の対立も民族と民族の分裂も、すべてなくなります。皆一つになるのです。差別もなくなり、つまらない対立もなくなります。これが、失楽園以来、人間はできなかったのです。それが、キリストにおいて実現するのです。その時を私たちは楽しみに待っているのです。

 

7月21日(日)

してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

ルカ11:13

 

人間の悪い父親ですら、自分の子供には良い物を与えるのだから、天の父はなおさら求める人たちに聖霊をくださらないわけがない、という聖句です。そこで、私たちは天の父に聖霊を求める必要があります。それも、熱心にです。ところが、そうはなっていません。そもそも、「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と書かれているのです。これを見て、バプテスマを受ければ自動的に聖霊が降ってくるのだと思っている人もいます。実際には、本人が自覚できないような聖霊であれば、意味が弱いのです。天の父からの賜物なのですから、とんでもなく良いものが与えられるということです。それは、神の霊でした。別の助け主と言っても良い力ある方です。そうです、別のキリストなのです。ですから、その人の内に別のキリストが降ってくれば、その人がキリストのように変えられていくという意味が分かります。それほど重要なことなのです。それで、そのうちに聖霊を受ければ良いと後回しにすることができません。ですから、聖霊を求めても得られないのは、自分の問題だろうとあきらめてしまう人もいます。それは、おかしな話で、天国への切符をあきらめるようなことです。悪魔は、聖書を読まさないように、祈らないように、そして、聖霊を祈り求めないように、と働いているのです。それほど、人が救われるのに重要なことなのです。今日の聖句では、あなたを励ましています。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」と。ですから、聖霊を求めて祈りましょう。

 

7月22日(月)

キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

エフェソ1:11、12

 

初めのクリスチャンであるイスラエル人は、旧約聖書の民でもありました。全てはキリストによって始まり、そのことを理解した人も少なかったのです。しかし、約束の聖霊がぺンテコステに降り、離散していたユダヤ人に福音が広がり、異邦人へと福音は拡散して行こうとしていたのです。それは、驚くほど短時間に起こりました。ヘブライ語を話すユダヤ人、ギリシャ語を話すユダヤ人、そして異邦人へと福音は確実に広がったのです。そして、2000年が過ぎて現在に至りました。私たちは日本人クリスチャンです。数は少ないですが、私たちも、神の選びによって福音を知り、信仰が与えられ、神の賜物を与えられました。そればかりでなく、再臨を経て、御国へ入ることができるのです。私たちの場所がそこにあるのです。私たちは神の栄光を知るものとして讃美するのです。今はまだその全貌を理解していません。想像もつかないのです。ただ、聖書に書かれた通りになるのだろうとおぼろげに見ているのです。神があなたに用意したものがあります。それは、今は理解できないでしょうが、その時が満ちれば自ずとわかります。私たちは、どこまでもイエス・キリストに希望を置いているのです。そのことがどれほどの祝福となるか、想像もできないほどの大きな喜びです。ですから、主への従順を忘れずに従って参りましょう。

 

 7月23日(火)

しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。

ヤコブ3:8~11

 

ヤコブ書の3章1~12節には、「舌を制御する」と見出しがついています(新共同訳)。この箇所を読む人は、心当たりがありますから、苦い思いが湧いてくるかもしれません。わかっているのに、舌を制御できないのです。いっそ無口になったらいいのだろうか、と考えても、生まれつきでなければそんなことできるわけもありません。誰でも、舌で失敗した経験があるはずです。問題は、それが実は人間関係の中でしばしば気づかずに舌で失敗しているのです。たった一言で失脚した政治家はいつの時代にもいます。舌のせいで友達を失うことだってあります。それどころか人を裁いてしまうので、人を傷つけてしまうのです。それなのに言い訳をして、自己正当化を図るので罪が重いのです。相手が悪いと言おうとすれば、必ず言い過ぎてしまいます。それも罪になります。自己を正当化する気持ちが強いと、黙っていられないのです。クリスチャンなら「赦す」という方法を知っています。でも、自己犠牲の愛が無いとそれができません。クリスチャンが成長したいと言いますが、実は、黙って赦すなら、こうした場面で成長できるのです。しかし、いつまでも変われないのは、舌を自由にしているからです。必ず、チャンスを与えられています。愚痴を言う前に、神様からのチャンスを台無しにしていないかどうか、反省しなければなりません。主に服従している人は、辛くても赦します。何日も苦しまなければならないかもしれませんが、それでも最後には赦して解放されます。主がくださった命の水はその人の内で泉となり、甘い水しか出てきません。それを舌で汚してはいけないのです。これは、信仰に成長したいという人には、避けて通ることができません。自分を甘やかしているとやがて悲哀を見ることになります。

 

7月24日(水)

時宜にかなって語られる言葉は

銀細工に付けられた金のりんご

聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは

金の輪、純金の飾り。

箴言25:11、12

 

今日は、美しい言葉から想像してみましょう。本当に賢い人は、時宜にかなった言葉を語ることができます。人に当たり前のことを注意したり、叱ったりすることは、とても嫌なことです。それを言われた人はもっと嫌になるでしょう。しかし、賢い人は時宜を見分けられるのです。この時に言えば、相手にとっても助けになり、その人は言ってくれた人に感謝します。これができない人は、相手から嫌なことを言われたと恨まれるのが常です。しかし、愚かな人は相手のことを本当に考えていませんから、何も深く考えずに思ったことを言ってしまうので、相手を怒らせることになります。それなのに、自分は悪いとは思わないのです。相手が悪いと思ってしまうので、失敗から何も学ばないのです。それに比べ、賢い人は相手を思い遣っています。ですから、その人の気持ちを考えて上手に語ります。それに、人に聞く気がないのにいきなりここが悪い、こうすべきだ、何が正しいかを言っておかなければ、とたたみかければどんな人も怒らせます。ですから、いつ言うべきなのかが大変重要なことなのです。結果は正反対に出ます。銀細工に付けられた金のりんごを思い浮かべてみてください。このような美しい表現がぴったりの教えが、「時宜にかなって語られる言葉」なのです。さて、もう一歩進んでみます。クリスチャンとして自分は、聞き分ける耳を持っているかどうか、吟味してみましょう。自分に対して批判めいたことを言われると、すぐに頭に血が上り、逆上してしまうようではクリスチャンと言えなくなります。イエス様は、決してそうしないですよね。クリスチャンとはイエス様のようだという意味なのですから、そこをいい加減にしていては祝福されません。ですから、聖霊は聞き分ける耳をその人が持つことのできるように働きます。そして、それを身につけるようになります。そうすると、次に「賢い懲らしめ」を聞くことになります。人を傷つけるような暴言のことではありません。そのようになる前に、すでにいくつも語られているのに、気がつけなかったのです。いくら言っても、聞き分ける耳がなければ、理解してもらえない憤りから相手もとうとうキレて暴言を吐くことになります。これでは、クリスチャンとして何をしてきたのだろうと悲しくなります。人間が成長するためには、自分の足りなさ、未熟な部分を放置していてはいけないのです。そのような人間のために、主は人を遣わして、賢い懲らしめを与えられます。自己を正当化する人には何の意味もなしませんが、主に砕かれてへりくだる人には、金の輪、純金の飾りとなります。ここにも愛があるのです。耳に愛が飾りのようについているので、聞くことが愛として聞こえるのです。こうなりたいですね。

 

7月25日(木)

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

エフェソ1:13

 

私たちは、「キリストにおいて」とあるように、全てがキリストによるのです。私たちは、キリストを信じます、と告白し、日々刻々とその告白が真実であるかどうか、それが変わったかどうか、変わったとしたら、それはどう変わったのか、信仰による成長と捉えることができるのか、と問われています。「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き」とあるように、自分の聖書を持ち、聖書を読むようになりました。さらに、キリストを知ることは、聖書の御言葉を知ることだ、と理解し、読むことの意味が変わりました。そして、福音を聞きました。それは、救いをもたらす福音でした。ですから、私は救われたと告白できます。さらに、信じることを教わり、「信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。つまり、聖霊が私たちが救われたことを証明する印鑑のように、働かれたのです。聖霊なしには、聖書もわからないし、神様を知ることもできません。聖霊は私たちの新しい命となって、霊である神様を理解させてくださいます。この世を見て信じれば、肉に戻り、聖霊の促しで祈り、神様へ近づくなら、神様も近づいてくださいます。しかし、この世で生きる私たちは、仕事や日々の生活に疲れ、肉の目に見える世界を信じるようになり、霊的な神の国を見失うのです。それでは、クリスチャンとしての成長も、キリストの御前に立つことのできるように備えることもできません。そこで、霊的覚醒が必要で、聖霊のバプテスマを求めることが赦されています。聖霊のバプテスマは誰でも信じて求める者に与えられます。ですから、誰でも、公平に与えられます。天の父が与えたいと思われているからです(ルカ11:13参照)。霊的に目覚めて聖霊に満たされた生き方をしたいですね。

 

7月26日(金)

この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

エフェソ1:14

 

なぜ、私たちが聖霊を受けているかということは、意外に言われていません。そのために、あまり気にもかけていないように見えます。しかし、聖書にははっきり書かれていて、「御国を受け継ぐための保証」とあります。クリスチャンが全員天国へ入るとは言われていません。ですから、私たちは油断してならないのです。かといって、行いによる義はないという教訓がありますから、気をつけなければなりません。まずは、聖霊で証印を押される、ということは神の印を受けることです。黙示録ではこれが重要なことであることは明らかです。そして、贖われるということは、キリストの命の代価で買い取られるという意味です。それは、あなたは自分自身のものではなくて、神のものとなったという意味です。ですから、神のものとして生きなければなりません。それは、堅苦しい難しいことを要求されるという意味ではありません。その逆です。聖書には「神の栄光をたたえることになる」と書いてあるように、霊的に新しい人として成長していくのです。最も肉の人もついてくるので、昔のままだと思う人もいます。しかし、内なる人という言葉があるように、贖われて、罪の赦しと清めを受けて、聖霊がその人の内に入ることができるようになり、新しい命に生きていると言えるようになっています。そこで、その新しい自分に聖書を読んで聞かせてみてください。どのような効果があるかは、聖霊にどれほど覚醒されたかにかかっていますが、良い方向へと向かうはずです。その結果、神に近づきます。神に近づくので、神も近づきます。そこで、この人は、神の栄光を見ることになります。ですから、賛美する者となるのです。それは、喜びにあふれることなので、私たちは自分が神のものとなったことを知ることになります。 

 

7月27日(土)

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。

エフェソ1:15、16

 

キリストの新しい掟を守っている教会には美点があります。その一例が今日の聖句です。「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること」です。クリスチャンになれば、簡単にそうなるわけではありません。今までの生き方が残っているからです。品性においては、だいぶ改善の余地があります。それを補うのが信仰なのですが、それまで正しい信仰を知りませんでしたから、急に信仰と言われてもよくわからないのです。教会では、幼子のようにな信仰と言われるので、余計に戸惑うばかりです。しかも、どうも、教会用語があって、普通に話していても実はキリスト教特有の意味があるのです。ですから、慣れるのに時間がかかるのです。ましてや、品性は聖霊の実であることを忘れてはいけません。クリスチャンと未信者の違いは、聖霊を受けているいないかという点です。ですから、正常な信仰を持っていれば、聖霊の実を結ぶようにできているのです。そのためには、エフェソ1章にすでに出てきた福音を理解することです。救いの仕組みを福音として教えられたのですから、そこから外れてはいけないのです。福音を信じて御言葉を学んでいけば、「主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛している」ということになるのです。それがならないというところに問題があります。聖霊の働きを知らないのです。人のことを悪く言ったり、裁いたりすると「互いに愛し合いなさい」という主のご命令に逆らうことになります。それで、祝福を求めても難しいわけです。生活に問題があるのなら、自分自身を反省し悔い改めることが必要になります。クリスチャンは聖徒を愛して生きるようにできているのです。それは、信仰があるから実現するのですが、聖書を通して何をどう考えるかを知ることが必要になります。そして、律法を学者やファリサイ派が誤用し、汚したようなことにならないように、福音をよく理解することと聖霊に助けていただくのです。そうすれば、聖徒たちを愛する者になれます。

 

7月28日(日)

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、

エフェソ1:17

 

クリスチャンの特権は、「知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし」てくださることです。信仰生活を送る時に、私たちは難しいもののように信仰を考えてしまう傾向があります。罪人の救いは、本人は自分を救えないので、すべて神の恵みによるのです。この肝心なことを忘れてしまうと道を誤ります。罪の赦しだけではなく、天国に入るのに必要なことはすべて神の恵みとして用意されています。その中で、興味深いのが「神を深く知ることができるように」してくださることが含まれています。よく考えてみれば、イスラエルの民が偶像を拝んで罪を犯したのは、神をよく知らなかったからです。事実、モーセや預言者たちは神を知っていました。それは「知恵と啓示の霊」を与えられていたからに相違ありません。新約聖書で驚かされるのは、イエス・キリストの功績で、イスラエルの民とは違って、「知恵と啓示の霊」をクリスチャンは誰でもいただけるようになっていることです。その特権を生かさない手はありません。自力で神を知ろうと頑張っても無理であることを知っている人は、試したからです。しかし、それは「知恵と啓示の霊」によるのですから、今日の聖句を根拠に、神に祈り求めるのです。そして、確かに「知恵と啓示の霊」をいただきましたと、信仰を表します。それで、「神を深く知ることができるように」と祈ってください。良いことが期待できますね。

 

7月29日(月)

心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いていいるか悟らせてくださるように。

エフェソ1:18

 

「心の目を開いてくださるように」とは、17節にかかっています。つまり、知恵と啓示の霊を与えられて、神を深く知ることができるようになった上に、心の目も開いてくださるように、とパウロは執り成して祈っています。これらは正常なクリスチャンに起こる特権なのです。そもそも、「心の目」など考えたこともないという人はいるはずです。人間が大人になるまでに受けた教育や環境、あるいは影響力を与えた人など、生まれつき持っていたものとは別に、後から人格形成に影響を及ぼす要素はいろいろあります。例えば、子供の頃は素直で良い子と言われていたのに、悪い環境で育ち、成人になった頃にはギャングになっていたといったことが実際に起こります。もちろん、同じ環境にいても後に立派な社会人に成長することもあるのですが、その場合には誰かが愛し続けてくれて、自尊心を健全に保ってるように、励まし続けてくれたような場合です。クリスチャンになって一番良かったと思えることは、自分をありのままに受け入れることができるようになることです。それは、天のお父さんが無条件に愛してくださり、イエス様が憐れみ深く接してくださるからです。聖霊は運命共同体のようになって一緒に生きてくださいます。この恵みすら、心の目が開かれないとわからないのです。さらに、私たちは神の招きによってクリスチャンになりました。でも、どのような希望が与えられているか分からない人が多くいます。皆さんは、聖なる者と呼ばれています。実際には、ピンと来ていないかもしれません。ただ、神様がキリストを通して聖なる者としてくださったから、聖なる者なのです。その聖なる者が受け継ぐものがあります。それは、人間には理解できないかもしれませんが、クリスチャンであるあなたには、悟らせてくださる可能性があります。祈り求めてみるといいですね。このようにクリスチャンは、霊的に覚醒するといろいろと分かってくるのです。そうなれば、この世の生活ではなく、神の国のことを考えるようになります。

 

7月30日(火)

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

エフェソ1:19

 

クリスチャンである私たちは、いつくかの疑問を持っているものです。その一つの回答が今日の聖句なのですが、ただの回答ではありません。疑問は、神様は信仰者に一体何をしてくれるのだろう?という疑問です。それは、救いに関して、洗礼を受けてクリスチャンになれば自動的に天国へ入れるのだろうか?どうも、そのような気がしない。やはり、何かクリスチャンらしく聖なる者になるよう、信仰者自身が頑張る必要があるのではないか?しかし、どんなに頑張っても、うまくいっている気がしない。月日がたてば、なんとかなるかと思っていたが、そうでもなさそうだ。私の救いのために神様は何をしているのだろう。ただ、天から眺めて、その信仰を採点しているだろうか? あるいは、世界に戦争があるが、世界中の多くのクリスチャンが戦争が終わるように祈っているのに、一向に終わらない。イスラエルがパレスチナへの攻撃をやめないために、一般人や子供たちが死んでいる。神様にどうやって祈ればいいのか分からない。やはり、イスラエルのために祈るべきなのか? このように人間的な疑問はいくらでも出てくるのです。それに対して、神様は何もしていないのではないかと思えている人は少なくないだろう。しかし、神様は人間より賢いし、正義であって、正しいことしかできないお方です。人を憐れむことができます。確かに全能ですが、神様は人間に自由意志を保証しています。ですから、勝手に干渉することはしません。賢明な親が子供に対して過保護にならないように、上手に育てるのに似て、私たちを尊重しておられます。その上で、私たちが気が付かないだけで、想像を遥かに超えて、神様は良くしてくださっているのです。生活のこと、仕事のこと、子育てのこと、信仰生活のこと、人間関係のこと、気象のこと、およそ人間が関係する全てに神様は絶大な働きをなさっているのです。ただ、人間は知らないだけです。ですから、信仰者、それを悟るべきなのです。そすれば、もっと正しい判断ができるようになります。そして、神様に対して絶大な信仰を働かせることができるのです。 

 

7月31日(水)

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

エフェソ1:20、21

 

私たちは神と御子の違いをあまり良くは知らないのです。神は圧倒的な力に満ちています。それは人間には理解もできません。何しろ、私たちを救う方法を考え、その影響も含めて万事を支配して、キリストを私たちを救うために遣わしてくださったのです。それは、救いの業をキリストに行わせるためでした。キリストを死者の中から復活させられたのは神です。すごいのは、ここで終わらないことです。天において御子イエスを御自分の右の座に着かせたのです。それは、イエスを信じる者が、そして、福音を聞いて信じる者が救われるためです。信じる者のために、キリストは神に執り成します。そのために神の右の座に置かれているのです。クリスチャンでも執り成しは必要だからです。さらに、神は御子に、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれました。そればかりか、この世ばかりか、来るべき世のあらゆる名前の上に、つまり存在した全ての人間の上にキリストを置かれたのです。王の王、主の主、と賛美を受けるに相応しい方は、このイエス・キリストだけなのです。そのことが、再臨の後に聖徒たちは目の当たりにしますし、今もその通りと信じているのです。神の力が人の救いのためにキリストを通して現れ、十字架、葬り、復活、昇天、そして天の神の右の座に着くことも、全て私たちの救いに不可欠なことなのです。そして、再臨が成就します。そこで、私たちは主イエスの真の姿を仰ぐことになります。楽しみですね。それにしても天の父なる神の御力は偉大ですね。