2024年8月ディボーション

8月1日(木)

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

エフェソ1:22、23

 

教会といえばチャペルのような建物を思い浮かべる人は多いのですが、聖書で言っている教会は神に召し出された人の集まりです。神の救済計画は遠大でその全貌を人間は理解できません。しかし、聖書に啓示されたように、それは福音として世界に鳴り響き、時を経て今日にまで広がり続けています。その福音は神の救済計画の主要部分なのです。さらに神は福音を聞き、悔い改めてキリストの御名によって洗礼を受けた人で教会をお作りになりました。建物でなかったので、クリスチャンが誰かの家に集まって礼拝する、家の教会で始まったのです。それは救済計画の中にあり、キリストを頭として、各人がキリストの体となっているのです。そのために、クリスチャンは聖霊が内に存在しています。聖書の教えは、「キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは・・・皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」(一コリント12:12、13)。教会が強いのは、イエス・キリストが満ちている場であるからです。わたしたちは、このようにキリストの体として生きているのです。たとえ、住むところが離れていても、主の召集に応えたクリスチャンは、体として自分の役割が定まっています。ですから、キリストによって一つになっていればこの世でも勝利し、天の御国へ帰還できます。さらには、教会によって健全に成長できるのです。

 

8月2日(金)

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

エフェソ2:1、2

 

福音を考える時に、今日の聖句にある人は自分であることを知っているかどうか、認めることが福音を知るスタートになります。クリスチャンにとっては、すでに自分のことだと知っています。その上で、もう一度考えてみましょう。まず、クリスチャンになる前の私は、「自分の過ちと罪のために死んでいたのです」。聖書の難しいところですね。生きていたのに死んでいた、というのですから。これは霊的に死んでいたということですね。肉は生きていたのですが、肉の中に罪が宿っているので、それが過ちや罪を生み出しています。それは、何とかしなければならないのですが、自分の力では何もできません。そこで、神様に頼ることになります。すると神様は悔い改めへと導き、福音を信じることで罪の赦しへと導いてくださいます。さて、今日の御言葉はさらに以前の自分がどうであったのか示します。「この世を支配する者」「かの空中に勢力を持つ者」「内に働く霊」、これらは皆同じものを指しています。それは、悪魔、悪霊のことです。「罪人」と「不従順な者」は同じ意味の言葉です。そして、私たちは、聖書によると、この悪霊に従い「過ちや罪を犯して」生きている状態だったのです。とても恐ろしい状態だったのです。ですから、「イエス・キリストを信じない」と未信者に言われても動じることはありません。悪霊が言わせているのですから。まずは、救われる以前の人間の状態を覚えていましょう。

 

8月3日(土)

わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

エフェソ2:3

 

私たちが福音を正しく理解するためには、まず自分が罪人であることを理解する必要があります。クリスチャンになって振り返れば、今日の聖句の通りの者であったのです。クリスチャンになる前には、そのようなことは認められませんでした。自分は正しいという思いが強くありました。しかし、聖霊に触れられ、自分の罪を示されてキリストが十字架についた意味がわかりました。それなのに、クリスチャンとなって、日が経つともとに戻ってしまったような気になるのです。それは、罪にキリストの十字架が決定的に勝利したことを信じることがいつの間にか弱っているからです。肉の生き方はよく知っています。普段は忘れていても、思い出そうとすれば思い出してきます。こうして悪魔の罠にはまってしまう危険があるのです。一人だけでは、危ないなのです。そこで、神様は教会を与えました。それは、以前にも触れたように、召し出された人たちの集まりのことです。私たちは、誰と教会を形成するのは知りません。しかし、主は私たちを結び合わせて行きます。主は、信仰に未熟な人も、教会で信仰の力に目覚めさせようとされます。互いに愛し合うことが必要なのは言うまでもありません。このエクレシア(教会)で私たちは、集められた人と一緒に成長します。今は良い時代ですが、まもなく誰もが終末だと叫ぶ日がきます。その時も、主を頭とした一つの体として乗り越えていけるのです。神様の御力が必要なのですが、必要な時には必ず与えられます。ですから、聖なる生活へと導かれて行きましょう。

 

8月4日(日)

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、ーあなたがたの救われたのは恵みによるのですー。

エフェソ4、5

 

キリスト教は、天の神がどれほど深く私たちを愛しておられるかを明らかにするものです。私たちは、この地上ではこれほどの愛され方をしたことがありません。ですから、よく理解できないのです。それでも、神の愛を知ることが救いを正しく理解することなのです。なぜなら、「その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし」たのです。罪は決して軽いものではありません。聖書が罪のために死んでいた、と言っているのですから、霊的には死んだ者だったのです。そのことの損失は想像もつきません。神の造られた被造物世界をほとんど理解していません。自然科学のようにわずかでも知ると、その知識を用いて地球を汚してきました。産業革命以降、だんだん加速度的に地球を壊し始めたのです。その結果は、恐ろしいものです。地球温暖化で大変なことが起こっていると連日報道されていますが、私たちは暑い夏を経験して実感するわけです。しかし、これからどうなるかなど、想像もつきません。このように、罪は目に見えるほどに満ちてきました。もし、神が愛でなかったなら、御子イエスの犠牲愛がなかったなら、罪は断罪され、滅ぶばかりだったのです。それなのに、私たちは救われました。神の愛のおかげです。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とは、真実です。私たちがどんなに清く正しく生きようと努力しても、それで罪を清めることなどできはしないのです。神が私たちを義とすることができるのは、罪にも、死にも、悪魔にも勝利されたキリストを通してであって、そのことを恵みというのです。あなたを救った、その恵みを考えてみましょう。

 

8月5日(月)

キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

エフェソ2:6

 

クリスチャンになるということは、神の憐れみによって、神に愛されるという神聖な経験です。ですから、その意味は大きく、罪からの救いも、罪人自身が罪から自分を救うことはできないので、イエス・キリストに100%頼ることになります。イエス・キリストの救いは十字架に象徴的に表されていますが、それだけではありませんし、また罪の贖いだけではなく、その後のこともあったのです。それを今日の聖句は教えています。「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」と書かれている通りに救いは、復活、天の王座に着かせる、つまり神の家族になって、天に住むということです。ここで、「天の王座に着かせてくださいました」とあるのは、キリストを信じることの中に含まれていることなのです。つまり、クリスチャンになってすぐに天に移されることはありませんでしたが、やがてその時になれば天に入れます。しかし、キリストの救いの完全には、すでにそこまでやり遂げているのです。問題は、それを受け取る私たちの側にあります。信仰によってすべてを受け取っているかどうかです。信仰による義そのものなのです。キリストが私たちに完全な救いを与えてくださったのですが、それは信仰で受け取るものです。私たちがあまりにも弱く不信仰であれば、天国へ入ることはできないでしょう。しかし、信じる者には、一つ一つ成就していくのです。また、霊的にも重要なことで、キリストと共に十字架に罪人の私が死に、キリストと共に復活し、聖霊を吹き込まれて新しく生きるのです。さらにキリストと共に天の王座に着かせてくださったと信じて、全てキリストがしてくださったことですが、それを信仰で受け取るのです。

 

8月6日(火)

こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

エフェソ2:7

 

今現実に救われているのなら、それはキリスト・イエスの功績によるのです。神は、キリスト・イエスにおいて私たちに、信じる信仰のみで救われる道をつくられたのです。それは、神の愛から発した慈しみによるのです。そうとしか、説明がつかないのです。なぜ、罪人が罰せられることなく、キリストが罰せられたのか、しかも、キリストの死が私たちを救ったのです。十字架で処刑されれば負けにしか見えません。それなのに、キリストはその十字架によって罪と死と悪魔に勝利したのです。私たちがキリストを信じて救われるのは事実です。その仕組みは神の領域で全ては到底分かりません。ただ、言えることは、私はイエス・キリストを信じて救われたという事実です。さらには、この世にとどまらずに、来るべき世に、さらなる驚きが備えられているのです。神の限りなく豊かな恵みが、地上生涯を終えた後に、新しい世に現わされるのです。私たちが想像もできないほどの神の恵みが待っているのです。

 

8月7日(水)

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

エフェソ2:8

ここだけを見ると、救われることは簡単なことのように思えます。大部分が神の恵みによっているのです。私たちの分は信仰です。それで救われるのです。式に書けば、神の恵み信仰=救い、となります。ところが、クリスチャンになってみると、初めこそ新鮮で聖なる者として生きるという意気込みがありますが、月日が流れると、現状の自分に満足できなくなってきます。何かしなければならないと思えてきます。初めは勝手にクリスチャンのイメージを演じてみるかもしれません。信仰書を読んであれこれ調べたり、有名な説教者や牧師の講演会に出たりして、自分の信仰を高めようとするのです。それでは、他力本願なので、自力でもと長時間の祈りや断食祈祷なども試してみるのです。その次には、宗教書を読み、聖霊に満たされる経験を知り、自分でも求めて聖霊に満たされる経験をするかもしれません。しかし、ここでも霊的高揚感はせいぜい二、三日程度で消えてしまうのです。およそ、良いと思うことは一通りやってみて、結局何も変わらないことにがっかりするわけです。それから、律法を守ろうとすれば、あまりにも数多くて中途半端で終わります。安息日を守ろうとしても、ユダヤ人ではありませんから、その本当の守り方は分かりません。ただ金曜日の日没から土曜日の日没までもは、休みの日と決めても、中身は日曜教会とあまり変わりません。曜日が違うだけで、どう違うのだろうと考えてみれば、何やらおかしな方へ進んで来る気がしてきます。聖霊のバプテスマが現代では消えて、教会でもその実態を知らず、宗教としてはまずいことになっているのですが、では、聖霊のバプテスマを実際に認めている教会や実践しているという教派が著しく素晴らしくなっているかといえば、そうでもないのです。もちろん、聖書に書かれていることなので、重要なことなのですが、そうした部分部分にこだわってみても、何かがうまくいっていないとすれば、原因は一つしかありません。今日の聖句に答えがあるのですが、私たちを救うという神の恵みは、天国に入ることまで含んでいるのです。私たちはやみくもに信じるのではなく、聖書に掲示された真理を見分けて信じて行くのです。その信仰も、幼子のように単純に信じる信仰なのです。ですから、誰にとっても難しいものではありません。救いはバスや電車に乗るようなものです。行き先が決まっていて、一旦乗ってしまえば、何も努力することはありません。必ず目的地に連れて行ってくれると信じて乗っていればいいだけです。基本は、聖書に記された教えを守れるように信じ、神の救いは完全であると信じていればいいのです。「救いは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。

 

8月8日(木)

行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

エフェソ2:9

 

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(ガラテヤ2:16)。福音書を読むと、ファリサイ派や律法学者がイエスと対立し、イエスを憎んでいるという場面が出てきます。彼らの考えとイエスの教えや行なっていることが違っていたからです。このようなことから、教会でもファリサイ派は律法主義だからいけないと教えられていたと思います。律法主義はキリスト教では間違った信仰と教えられているはずです。ところが、キリスト教会史を辿ってみると、敬虔主義という人たちが出てきます。彼らは、人間的にみればクリスチャンの模範のような人たちです。実際に敬虔な信仰を実践している人たちです。これは、人間には魅力にうつります。理想的なクリスチャンのイメージに近いのです。ですから、熱心な信仰者は敬虔なクリスチャンを目指すようになります。歴史上では敬虔主義はどうなったかというと、律法主義になってしまいました。時代が変わっても、何度やっても同じ結果に行き着くのです。ですから、人間の考えることは、クリスチャンらしく生きようとして、思いつくのは敬虔な信仰者なのです。これの問題は、行いによる義に繋がっているということです。ですから、パウロが言うように、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2:19)ということを正しく理解することです。死んだ人間は行えないのです。信仰で生きるしかできないのです。では、行なったらどうなるかといえば、十字架から降りて、律法に対して生きようとしてしまうということです。死んでいる人が勝手に生きるなら、罪の問題もまた振り出しに戻ってしまうのです。ですから、例えば「私は安息日を守っているから正しいのだ」と誇ってしまう人が出てくるのです。信仰で生きる人は、「主の恵みによって安息日を守らせていただけて感謝だ」と自分ではなく神の恵みに目を向けているのです。どちらが幸福かわかりますよね。

 

 8月9日(金)

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行なって歩むのです。

エフェソ2:10

 

皆さんは、考え得たことがありますか。自分がキリストによって、善い業のために造られたというのです。それも、「神が前もって準備してくださった」とあるように、神様によって備えられた善い業をあなたは行うように定められているのです。確かに自由意志が保証されていますが、これはそうしたことを遥かに超越している最優先事項なのです。人間が正しく生きることが難しいのは魂の飢え渇きがあるからです。サマリアの井戸の女のように、本来神が備えた善い業を行なって生きるはずだったのに、大きく道を踏み外していました。彼女も魂が渇いていたのです。だから、それを見抜いたイエスはあなたの方から私に生ける水を求めてもらうべきだと諭しました。罪人の悲しさで、自分が渇いている存在であるとは気がつけないのです。そうなると、悪い業を行うようになるのです。私たちも以前はそのような者でした。しかし、イエス・キリストが生ける水を飲ませてくださり、さらに本来の善い業を行なって歩むように私たちを整えてくださるのです。そうなれば、何をするのかわかるようになります。まだ、そうなっていないと思うなら、すぐに祈りましょう。

 

8月10日(土)

だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。

エフェソ2:11

 

私たちは、イスラエル人ではないので、肉によれば異邦人です。聖書を根拠として信仰をもっているために、聖書に書かれたことが重要になるので、イスラエル人が神に選ばれた民であることを認めます。それは、私たちが異邦人であることを認めることになります。主エジプト記によれば、彼らは神と契約を結び犠牲の血を振りかけ、律法を守り行うと約束しています。しかし、彼らは守り行うことはできませんでした。そして、イエス・キリストがおいでになり、十字架にかかられ血を流し、死にました。この意味をイエスは、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である(ルカ22:20)」と言われました。これは、イスラエル人のみならず、世界中のイエス・キリストを信じる者に適用されます。つまり、異邦人にも主の血の契約が有効なのです。しかし、私たちは、その恵みの重さを忘れる者なので、聖餐式を行なって忘れないようにしているのです。また、旧約聖書によれば、神との契約のしるしとして割礼を受けていました。ですから、異邦人は割礼のない者と呼ばれていたのです。それは、偶像を拝んだり、肉の欲のままに生きていた者という意味です。そこから救われたのだから、主への感謝を忘れてはいけないのです。今、私たちが神との平和を得ているのは、主の犠牲の愛によるのです。そのことをいつも思う者でありたいですね。

 

8月11日(日)

また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。

エフェソ2:12

 

私たちが救われたのは、やはり主の恵みによるのです。今日の聖句を読めば、その通りと納得が行くでしょう。生まれてからクリスチャンになるまでの間、キリストの名は知っていても、その意味を知ることはありませんでした。日本人ですから聖書の言うところの異邦人です。神との約束も契約も何ら関係がありませんでした。ですから、刹那的に生きていて、この世の中で希望を持たずに生きていました。つまり、神を知らずに生きていました。世の中には、宗教に興味のある人もいるかもしれませんが、自分の友人・知人にはそのような人はいませんでした。新興宗教に勧誘されたことはありましたが、全く興味はありませんでした。ですから、クリスチャンになれたのは、主が探して見つけてくださったとしか言いようがありません。あなたはどうでしょうか。主の招きがきっとあったはずです。そして、不思議なことにあなたはイエス・キリストを信じて救われたのです。救いに先立つのは悔い改めです。自分が罪人であることを知らなかったあなたに真実を教えてくださったのは聖霊です。あなたは、主に従うことなく、信じないという選択もできたのに、信じて洗礼を受けました。これは、やはり奇跡と呼ぶべきことなのでしょう。私たちは、このように主の恵みで救われたのです。ですから、主に感謝して生きていく者なのです。そして、神をさらに知ることを意識して神に近づきましょう。

 

8月12日(月)

思い計らいは人の心の中の深い水。

英知ある人はそれをくみ出す。

箴言20:5

 

「キングダム」という映画が話題になっています。もともとは漫画なのですが、NHKで放映されたアニメにもなって、中国の春秋戦国時代の中華統一をテーマにした物語です。日本も中国に歴史的に影響を受けてきたので、こうした歴史は知っていてもいいわけで、歴史小説などにもなるのです。この中で500年続いた戦争を終わらせるために中華統一を実現させようとするのですが、その方法が征服戦争なのです。なぜ人は戦争するのか、人間の欲望のためなのか、中華統一のための戦争に義はあるのか、と考えさせることが多々出てきます。確かに聖書にも戦争が出てきます。ですから、神は戦争を許されるのか、といった問題が提起されます。しかし、なぜ戦争をするのか、というような問答は聖書に出てきません。さらに、敵の作戦を読み解く、それは敵将や軍師の策略を見破るという高度

な心の読み合いがあります。今日の聖句は、そのことをまさに言い当てています。つまり、人の計略や思惑は深い水のように、よくわからないものだが、英知ある人、賢い人はそれを見破り、心の中の考えを知ってしまうことができるのだ、ということです。人間のことを考えると、つくづく不思議に思います。悪意ある人は、心の中で密かに悪巧みや酷いことを考えているのです。本当に悪い人は、それを黙っていて、しかも実行してしまいます。普通の人はそこまではできません。義人は神様のことを考えているので、心の中の水が透き通っていて、清いのです。義人は、人の心の中の暗い澱みのような水も、隠すものとはなれず、その思い計らいを知ってしまうのです。清い心を持ちたいですね。

 

8月13日(火)

天は神の栄光を物語り

大空は御手の業を示す。

昼は昼に語り伝え

夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく

声は聞こえなくても

その響きは全地に

その言葉は世界の果てに向かう。

詩篇19:2~3

 

「見ても見えず、聞いても聞こえず」と言われていることを思い出します。人間は神様が見えなくなってしまったのです。神様の御声も御言葉も聞こえないのです。聖書を一般の人が読めるようになったのは16世紀になってからです。それでも、自然の中に神様を見出し、神様の御言葉を聞く人たちがいたのです。ユダヤ人は会堂で朗読された聖書を聴き、御言葉を聞いたのです。言葉を読むことのできない時代でも、「天は神の栄光を物語、大空は御手の業を示」しているのを知っていました。神の愛、神の御声は全地に、世界の果てにまで伝わるのです。そして、キリストの時代以降は、クリスチャンが福音を世界の果てまで伝えるのです。神様にしかできない最善の方法でイエス・キリストの救いが告げ知らされるのです。空が人間によって汚染され、環境破壊が止まることのない時代にも、福音は世界に響き渡っています。献身的なキリストを愛する人たちによって、罪によって死んでいた人が新しい命を受けて生きるようになったと。それは、主イエス・キリストの十字架に犠牲によるのだと。私たちクリスチャンは、昼も夜も空を見上げ、神様の不思議な御言葉を見ようとするのです。

 

8月14日(水)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

エレミヤ29:12、13

 

神様との関係は、開かれています。しかし、聖書を読んで気がつくように、信仰が大切であることは間違いありません。現代人のように信仰がわからなくなるほど情報洪水にさらされ、信仰ではないことまでも信仰と思わされるような終末的な状況では、聖書を調べて一から信仰を学ぶ必要があるのです。例えば、今日の聖書箇所を読むと、私たちが神様を「呼び求めて歩き」とあるので、ここから始めます。ヤコブ書にあるように、神様に近づく方法です。そう言われてもどうすればいいかわからないと言う人は、次にある聖句「わたしに祈るなら」に着目します。つまり、祈るのですが、その前に神様を「呼び求めて歩き」とあるように、自分の意思で神様に聞いてもらおうとすることです。そして、律法にも出てくるように、「心を尽くして」という聖書的な言い方を自分自身で体得するのです。これも祈りの極意です。しかし、皆さんが勘違いしているのは、くだくだと長く祈ることではありません。祈りの目的が、神様を見つけることだからです。それは、心を尽くして神様を探し求めることで実現できます。このように、方法が説明されているので、神様との関係は開かれているのです。

 

8月15日(木)

まことに、主のほかにだれが神であろうか。

私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。

この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。

詩篇18:31、32

 

クリスチャンは、今日の聖句のように考えていれば良いのです。この世には不確実なことや理不尽なことがいくらでもあります。自分が何のために生きているのか知らなければ、良い人生を歩むことは難しいでしょう。周りに合わせて、ただ働き、皆と同じようにして生きるのは、そうすれば食べてはいけるということでしょうか。現在の年金問題を見ていると、高齢になっても何かしら働かなくては生きていけないという人がたくさんいます。80歳になっても働いている。敗戦後の日本に生まれ、社会が良くなるまでの大変な時代を生きていきた人が、高齢になっても苦労しているのは悲しい話です。高齢者のラジオ体操クラブの人たちが週に一度は喫茶店でモーニングを一緒に食べる。これが庶民の贅沢なのですが、ささやかな楽しみです。年金は家賃に消えてしまう、だから生きるために何か働かなければならない。自分がどう生きてきたかの結果だと言われれば、誰も何も言えなくなるでしょう。しかし、クリスチャンはどうでしょうか。今日の聖句をもう一度読んでみましょう。アーメンですか。そうなら、心配も不安も消えて行きます。私たちの神は、偶像のような何もできない神ではありません。生きて働かれる神であり、私たちを愛しておられると公言される神なのです。ですから、私たちはこの神を信じ、信頼しているのです。どのような事情があろうが、信仰は裏切られません。「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる」のです。

 

8月16日(金)

わたしに尋ねようとしない者にも

わたしは、尋ね出される者となり

わたしを求めようとしない者にも

見出されるものとなった。

わたしの名を呼ばない民にも

わたしはここにいる、ここにいると言った。

イザヤ65:1

 

自由にキリスト教を宣教できる国の中で、日本伝道が世界一難しいというのはどうしてだろうかと、多くの人たちが考えてきました。教育水準も高く、識字率も高いのに、どうしてだろうと、不思議に思います。他国では宗教が道徳教育を行なっているのに、日本ではそうなっていません。それなのに信仰心も厚く、道徳的にも高い国民です。キリスト教のお話を聞く機会はほとんど無く、冠婚葬祭でもあまり教会に出入りすることはありません。礼拝に参加してみたいと思う人がいても、敷居があまりにも高いのです。多くの人が、無神論者であると何も考えずに言ってしまうような国民なのです。それでも、希望があるのでしょうか。今日の御言葉は驚きです。神様が伝道してくださるというのです。驚きですね。日本人同胞の救いに希望を持って、祈って行きましょう。

 

8月17日(土)

「いつまであなたたちは不正に裁き

神に逆らう者の味方をするのか。

弱者や孤児のために裁きを行い

苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。

弱い人、貧しい人を救い

神に逆らう者の手から助け出せ。」

詩篇82:2~4

 

この世界には、どうしてと理解に苦しむことが多々あります。この夏休みに給食がなくて、食事を我慢しなければならない子供がいます。子供にだけは食べさせたいと、自分は二日に一食しか食べないシングルマザーがいます。日本は本当に良い国なのだろうか、これらのシングルマザーが公的支援を受けることに躊躇させる周りの批判的な厳しい目があります。では、神様はどうご覧になるのだろうか。この世には、もっと不合理なことがたくさんあります。神様は何もしないのか、悪人の味方なのか、と人間が思ってしまうようなこともあるのです。人間は、昔から正義とは何かを考えてきました。そして、簡単そうな正義が実に難しいのです。国家の姿まで変えてしまうほどに難しいのです。SNSの普及で人々の心の中の無慈悲な批判が文字になってしまう恐ろしい時代になりました。声は届かなくても、文字は本人に届いてしまうのです。このような世界をご覧になって神様の正義はどうなっているのだろうと思う人も出てくるわけです。しかし、今日の聖句の前の詩篇82:1で「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる」とあります。この世で人々を裁く者(ここでは神々と表されています)が、神様に裁かれているというのです。神様の義は変わらず、正義は普遍なのです。ただ、人々を裁くはずの者が正義を果たしていないのです。心当たりはあるでしょう。この世の神であると豪語するサタンは人々を苦しめているので神様に裁かれます。また、この世で神のごとくに振る舞っている者が弱者を苦しめていないか、不正を働いていないかを神様は見逃されないのです。日本も難しい問題と投げ出さずに、弱者や子供達の平等のために良い制度をもうけて正義を実現してほしいのです。「弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」との神様の御声は大きい。世界に響き渡っています。神様の正義に私たちは希望を見出せます。神様は悪を行う者を大目に見てはくれません。猶予を与えられている間に、神様の御心を行う者とならなければならないのです。

 

8月18日(日)

あなたの言葉はわたしの足の灯火、

わたしの道の光です。

あなたの義の秩序を守ると

わたしは誓い、これを実行しました。

わたしはひどく屈められました。

主よ、御言葉にしたがってわたしを生かしてください。

詩篇119:105~107

 

このはじめに出てくる105節の聖句は大変有名な御言葉です。あなたもご存知でしょう。では、その意味はどうでしょうか。理解するために、107節まで読むと、「わたしは甚だしく卑しめられています」という状況が出てきます。そこで、詩篇記者は「御言葉のとおり命を得させてください」と主に嘆願しているのです。つまり、これは私たちが信仰を持って正しく生きていても、ある日敵が現れ、私たちに酷いことをするのです。このような最悪な事態に陥った時に、どのように祈れば良いのかを教える実例なのです。重要なことは、この信仰者は、聖書を大事にしていて、人生の歩みを支える灯火と考え、実際に聖書で自分の人生を確かなものにしようとしているのです。それは、神の正しさを自分の人生の指針にいているのです。しかも、それを肯定的に良いこととしています。私たちも、人生の指針に聖書を持っていることは間違いありません。自分勝手に生きるのは危険に満ちていて、確かさに欠けます。しかし、聖書を自分の足の光としておけば、誤った生き方をしないで済みます。人間の弱さは、正しい道をすぐに外れてしまう危険をはらんでいるのです。そこで、聖書が人間が考える以上に人生を安全に正しい道へと導く力があることを認め、神の義の秩序を守ることを可能としていることを知るべきです。聖書の重要さは意外と理解できていないのです。

 

8月19日(月)

隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。

申命記23:25

 

ぶどう泥棒が出ているとニュースで報じていました。シャインマスカットが狙われました。農家の方が残念そうに被害を説明していました。一年の労苦が無駄になったわけですから、酷い話です。見回りをしていたのに、盗まれてしまったそうです。聖書の律法によれば罪となります。もちろん、日本の法律でも窃盗罪です。お店に入っての強盗と比べ、広い農地に高価で売れるぶどうが実っていれば、簡単に盗めるのでしょう。だからこそ、律法はわざわざ戒めているのです。簡単に手に入るだけに、良心の問題となります。目の前にあったので、つい出来心で盗んでしまった、と捕まった犯人は弁明します。しかし、これは罪なのです。自分のものではないからです。私たちは、神様を信じているので何かが足りなくて困るということが基本的にありません。神様に願えば、与えてくださるからです。ダビデ王もこの罪を犯しました。奥さんが何人もいたのに、他人の妻を欲してしまったのです。しかも、神様に願えば与えたのに、と言われてしまいます。私たちクリスチャンは、特に気をつけなければなりません。何か誘惑があっても、踏みとどまり、神様にすぐに祈ることが求められています。自分の弱さが原因でも、罪を犯したという結果がついてきます。ですから、欲望を取り去り、肉を取り去っていただく必要があります。神様にできないことはありません。主に祈って自分のうちの危険を取り去っていただきましょう。

 

8月20日(火)

主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅び失せます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。

Ⅰサムエル2:9

 

クリスチャンは神様に守られています。人生を確かなものとするために、世俗の価値観に染まることもせず、聖書から学び、主の御心を求めて真理を喜び、主への従順を学びます。この対極にいるのが、悪者どもです。彼らは「闇の中に滅び失せます」とありますから、悪行への報いがあるということです。私たちは罪人であった時には、闇の中にあったので、ただ滅び失せるだけの者だったのです。しかし、私たちは、光であるキリストに出会い、罪からの救いを得ました。この世にあれば、光と闇、善と悪は相入れません。対立するものです。ですから、パウロたちも悪者どもから酷い目に遭いました。しかし、そのことがあったので、牢の看守とその家族が救われました。福音が届くのは神様の不思議なお働きがあってのことなのです。そのために、私たちは生きていて、信仰によって主に服従し、悪との戦いが起こっても勝利するのですが、それは、私たちの力ではありません。主の御力によるのです。私たちは、自分の力で戦っても勝てないことを経験するでしょう。その時、義人は信仰によって生きると言われていることがわかってくるのです。正義の神様の方法で、全能の神様がお考えになった通りに、全てはなります。私たちは、そのことを理解し、そのように信仰を持たなければなりません。「まことに人は、おのれの力によっては勝てません」、しかし、主は聖徒たちの足を守られるのです。

 

8月21日(水)

主に従う人よ、主によって喜び歌え。

主を賛美することは正しい人にふさわしい。

琴を奏でて主に感謝をささげ

十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。

新しい歌を主に向かってうたい

美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

詩篇33:1~3

 

キリスト教と音楽は深い関わりがあります。宗教音楽が好きない人も少なくありません。幸いなことに楽器を演奏できる人は、主を賛美する特権にあずかれるのです。簡単な楽器でも良いので今から練習してみようと思う人は、苦労に見合う喜びを得ることができるでしょう。教会には、何かしら楽器が演奏できる人がいるものです。ある教会では、何かのイベントがある時には必ず出てくる男性がいて、その人はハーモニカを吹いて特別讃美歌を演奏するのです。聖書では弦楽器が出てきます。ハープです。ある教会で幸いなことにハープ奏者がいました。講演会でも特別演奏をしていただきましたが、極上の賛美になります。クラッシックギターが得意な青年は、教会のホールでコンサートを開いて喜ばれていましたが、後に牧師になりました。楽器ができなくても、歌うことは誰でもできます。人に聴かすのではなく、神様に讃美をささげるには、音楽大学を出なくてもできます。今日の聖句によれば、「主に従う人」これはクリスチャンの皆さんが当てはまります。「主によって喜び歌え」これも大事なことです。「主を賛美することは正しい人にふさわしい」。日々、信仰を持って生きて、どんな時にも主に感謝できる人は、正しい人です。人生は晴れの日ばかりではないので、雨の日にも嵐の日にも賛美できる人でいたいものです。

 

8月22日(木)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る

  天地を造られた主のもとから。

どうか、主があなたを助けて

   足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

詩篇121:1~3

 

現代人が気の毒なのは、その多くが都市生活者となっていることです。そのために、わずかな休みを利用して、民族大移動のように自然を求めて旅行や帰省することになります。移動がどんなに大変でも、そうせざるを得ないほどの都市生活はストレスに満ちているのです。同じ会社の人が味方でなく敵になることもあります。家族のような優しさもなく、ストレスが喉元まで満ちています。また、人間の多さがそもそもストレスになります。子供時代の仲良しのような人間関係はすでに無く、隙の無い人間として緊張を強いられるのです。ですから、ストレス解消のため、無防備でいられるかもしれないと心の安息を求めて遠くへ出かけて行くのです。彼らがむなしいのは、主と呼べる自分の神様がいないことです。高きにいます神様を探して、山々を仰ぐのです。「わたしの助けはどこから来るのか」。これが人間の心の声なのです。しかし、多くの人は神様を見出すこともなく、また都会へと帰って行きます。私たちはどうでしょうか。「私の助けは来る、天地を造られた主のもとから」と言えるのです。主を知っているからです。信仰を持つことができて本当によかった。「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように」。アーメン。

 

8月23日(金)

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。

Ⅰテサロニケ5:1、2

 

南海トラフ地震が来るとついこないだまで騒いでいました。肝心の四国や中国地方の方々は意外と無関心でいるようです。かえって、東京や東北の方々の方が心配しています。東京は、首都直下型地震が今にも来ると警告を受けているからでしょうし、東北は東日本大震災がありましたから、その恐ろしさを知っているからでしょう。このように、災害大国日本に住んでいると、世の終わりである主の日、再臨の心備えはできているように思えます。地震がそうであるように、再臨も盗人のようにやってくると予期していない時に突然何の前触れもなくやって来るのだと警告されています。そうなると、災害の備えも、再臨の備えも同じように思えてきます。世界で一番再臨の準備ができているのは日本であると言いたくなります。ただ、クリスチャンの数が少ないので、そのことが心配です。毎日、日本にリバイバルをと祈っていますが、まだ何か自分にできることがあるのではないかと考えてみることは良いと思います。思いがけない天のお導きをいただけるかもしれません。

 

8月24日(土)

いよいよ戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、次のように言わねばならない。「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」

申命記20:2~4

 

勝利が決まっている戦いは楽です。私たちは平和な時代に生きているので、戦争はありません。しかし、日々の生活の中で戦いがないわけではありません。誰でもが、何かと戦うことはあるのです。もちろん、武器をとっての戦いではありません。高くそびえるような壁が立ちはだかり、ひるんで逃げ出したくなるかもしれません。自分を脅かす者が現れるかもしれません。時には自分自身が敵となり、苦しむことになるかもしれません。古い考え方と新しい考え方、多様な価値観の対立、ジェンダーの問題、富の公平分配など、正義を通すことの難しさを感じているかもしれません。イエス様も当時の宗教指導者やイスラエルの不信仰な民との間に戦いがありました。皆さんにとっての戦いは何でしょう。心が弱ってしまう時、脅かされて恐れてしまった時、今日の聖句を思い出して勇気を出してください。あなたと共に主が敵と戦って勝利をくださることが確かだからです。

 

8月25日(日)

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

申命記6:5

 

イスラエルの民は選ばれた民です。聖書にも「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7:6)とある通りです。Eテレで『夜と霧』で有名なフランクルを扱う番組がありました。彼が、アウシュビッツ収容所に着いた時、男女に分けられ、さらに医者が強制労働をする者と耐えられない人を分けて、指で右と左をさして二つのグループに分けて行ったそうです。その時、フランクルは医者が左のグループに分けられたのですが、それはガス室にそのまま送られるグループでした。ところが、フランクルは右のグループに歩いて行ったのです。それがどうしてそうなったか分からないと言うのです。そこにも神の摂理を感じていたようです。そして、スーツを脱がされて、ガス室で殺された人の着ていた汚れてボロボロの囚人服を着せられます。彼は、スーツの中に一番大切な出版しようとしていたロゴセラピーの原稿を隠していました。それを取り上げられて全てを失ったと落胆するのですが、囚人服のポケットに紙切れを見つけます。それを広げるとユダヤ教の祈祷書の一ページを破ったものでした。そこには、ヘブライ語で「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と書いてありました。フランクルは、驚き、神が自分に語りかけていると感じるのです。それは、彼のロゴセラピー理論をここで実践しなさいと言われたように感じたのです。彼は、神に生かされました。神の御心は深くて私たちにはわかりません。しかし、神の御心だけがなるように私たちは祈っています。それは、今日の聖句の通りに生きようとしているからです。いや、神に生かされていることを知ったので、私の神、主を愛することを第一に生きたいと願っているからなのです。

 

8月26日(月)

望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。

ヨブ11:18

 

イエス様への信頼は、必ず報われます。人生のどのような局面でも、困ったり、悩んだりするのが人間です。小さなことでも、望みがなければ健康まで損なうのです。信仰は、あなたに望みを持たせます。どんな時にも、あなたを愛して見守っている主がいます。あなたが、どのように生きているかを主はご覧になっています。あなたの頑張りも、善い行いも、全て主はご存じです。この世の人が自己中心に生きて、その結果を報いとして受けて行き詰まってしまっても、あなたはクリスチャンとしてどう生きるかを知っているので心配はないのですが、たとえ失敗をしても、悔い改めるチャンスがあることを知っています。そして、正しく生きることができます。悪い考えが心に芽生えても、すぐに信仰で消し去ります。ですから、あなたはイエス様に望みを置けるのです。イエス様を信じて真の価値を理解します。それは、主から賜る安息です。今日の聖句もそのことを教えています。「望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む」。今日も、あなたを愛して、守っておられる方がおられます。あなたは、1日が終わり眠る時に、安らかに休むのです。主に感謝しましょう。

 

 8月27日(火)

私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。

詩篇101:2

 

この聖句は、私が感心した御言葉です。ダビデの詩と書かれています。「いつ、あなたは私のところに来てくださいますか」とありました。驚きです。あなたは、このように神様に話しますか。ダビデのように、私たちも、全き道、完全な生き方に心を向けているのです。神様が喜んでくださる生き方を望んでいます。それぞれの人生で、クリスチャンに召され、イエス・キリストに全てをかけたのです。聖書を読み、書かれた通りに生きたいと願い、それが容易くないと知りました。ダビデは武将であり、やがて王となります。クリスチャンも信仰を持ってから、戦いがあり、そして自分が王である神の子であることを悟ります。それでも、誘惑に負けたり、罪を犯し、がっかりして、何とか聖なる者になろうとあがくのです。聖霊に満たされれば有頂天になり、霊的に渇けば生ける水を求め、もっと敬虔な者となろうと律法を守ろうとすれば、失敗者になるか律法主義者になってしまうのです。そのようなことを繰り返し、福音に戻ってきます。誰が頑張るのか?それは、私ではない。主なのです。ですから、主が来てくださることが救いなのです。私たちは、待ちます。自分の家で。私たちは正しい心で、自分の生活をおくり、主を待ち望みます。

 

8月28日(水)

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

Ⅰヨハネ3:21、22

 

この聖句を読んであなたはどのように思ったでしょうか。こんな上手い話は無いと思われたでしょうか。また、やはり祈りが聞かれるには難しい要求を満たさなければならない、とがっかりしたでしょうか。これは、普通にクリスチャンが信仰生活を送っていれば、誰にでも神様は恵みを惜しげもなく与えてくださることを意味しています。私たちは、クリスチャンとして一年一年鍛えられ、色々教えられてきたのです。もちろん、難しい神学や聖書学に裏打ちされた高度な聖書研究といったことではありません。むしろ、平凡にクリスチャンとして失敗もしながら生きてきたことで、信仰が成長しているのです。この聖句のポイントは、「もし自分の心に責められなければ」という箇所です。神様を知るまでは、私たちは自分なりに立派なクリスチャンになろうと努力をしてきました。しかし、何の役にも立たなかったのです。神様との愛の関係が持てているか、神様に愛されていると信じているか、出来もしないことを出来ると言わずに、正直にありのままで生きてきたか。自分の祈りは、力が抜けているか。自分は神様に正直か。神様に喜ばれることを行なっているか。神様の御言葉を心に留めているか。そして、自分は神様に何を求めているのか、よく考えてみましょう。自分の願いをかなえて欲しいと欲を出しているのか。神様の願うことを理解し、それが出来ることを願っているか、どうか。こんなことが大切なことなのです。

 

8月29日(木)

しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

ルカ8:15

 

クリスチャンとしてどう生きるべきかと考えることはあると思います。聖書に答えを求めると、今日の御言葉が出てきました。良い実を結ぶには、どうすれば良いのかが書いてありました。これが難しいことなのか、どうか・・。実は、この通りにするには、秘訣があります。この例え自体がヒントになっています。ここでは良い地にタネが落ちて、成長して実を結ばせる話なので、タネが発芽して成長するには、水が必要です。それは雨が水の役をします。その雨が聖書では聖霊なのです。ですから、自分の力だけでは難しのですが、聖霊が助けてくださり、「しっかり守り」と書かれた通りに出来るのです。もっともその前に、クリスチャンが「正しい、良い心でみことばを聞く」ことができるかどうか、ここから始めますが、ここで自己反省をしてみるのです。聖書を全く読まないなら、出発地点で足踏みしていることになります。ただ、聖書は手ほどきが必要なので、聖書研究会などは役に立つはずです。また、聖霊の解き明かしが約束されている(ヨハネ14:26参照)ので、一人でも「みことばを聞く」ことはできます。「しっかり守り」とあるので、頑張ろうとする人もいますが、ファリサイ派の人のようにならないように気をつけなければなりません。御言葉を聞いたので、初めてそれを守れます。しかし、簡単ではないのです。ですから「よく耐えて」とあるのです。忍耐は、聖書では私たちに不可欠であることを教えています。このことは、誰でも例外なく試されます。しかし、その先に「実を結ばせる」となるので、大変楽しみなのです。ちなみに実を結ばせるのは聖霊です。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ2:22、23)、とあるようにイエス・キリストと同じ品性を身につけることです。そして、この品性だけを持って天国へ入るのです。

 

8月31日(土)

もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

ヨハネ16:7

 

イエス・キリストはご自分が天に戻れば、助け主を遣わすと約束しました。そして、そのお言葉の通りに、ペンテコステの日に別の助け主である聖霊がイエスを信じる者たち、120名の上に降ってきました。それがキリスト教の誕生の日となりました。ですから、使徒言行録には、初めの弟子たちだけではなく、新しく洗礼を受けてクリスチャンとなった人たちにも聖霊が降ってくる記事を聖書に見つけることができるのです。そればかりか、異邦人にも聖霊が降ってきました。そして、そのことがキリスト教が世界へ広がる理由となったのです。私たちは、霊的なことを認めない現代人ですが、それでもイエス・キリストを信じる信仰によって、祈り求めて聖霊を受けることができます。そのことは、助け主が個人的に自分の元にやって来て、いつでも自分を助けてくださるという意味です。それは、天国へ入れる者へと自分を変えるためでもあります。ですから、信仰を発揮して、助け主に頼ることも大切なことであると覚えてください。キリストが共にいてくださるという意味を考えてみましょう。この世のことで悩むことが無くなります。いつも喜んでいることができるのです。