2024年9月ディボーション

9月1日(日)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

Ⅱコリント5:21

 

キリストが十字架に架けられたのは、私たちの救いのためであると信じています。それは、神の御子であるイエス・キリストが罪は無かったが、私たち罪人の代わりに罪とされたのです。罪は罰せられなければならないからです。その罰は死であったので、身代わりのキリストは死ななければならなかったのです。そのことで、私たちの罪が赦されたのを贖いと呼びます。キリストの命が私たちの罪の支払うべき代金となったからです。私たちは、そのことを知って、悔い改め、キリストの御名によって洗礼を受けました。心で信じ、口で告白して、救われたのです。私たちは、十字架の奥義までも知らされています。「わたしは、キリスト共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19、20)。ですから、今日の聖句の後半も理解できます。「私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。罪を肉に宿していた古い私は、キリストと共に十字架につけられたのです。それは、キリストを信じたからです。しかも、キリストの血で清められた私たちに、約束の聖霊が降って来た時に、キリストが私たちの内に宿ったのです。そのキリストは義なので、私たちは義となったのです。

 

9月2日(月)

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

Ⅱテモテ3:16、17

 

クリスチャンにとって聖書はとても大切なものです。いろいろな訳の聖書も読み比べれば有益です。教義の元も聖書です。プロテスタントは新約聖書と旧約聖書を聖典としていますが、これは宗教改革三大原理の一つ「聖書のみ」に当てはまります。外典、口伝のようなものは認めていません。一部のカットリックの流れを汲むものは、旧約外典を聖典に加えている教会もあります。また、個人のディボーションのために毎日聖書を読むことが奨励されていますが、霊的な糧を得ようと習慣にしている方もいるでしょう。聖書研究会で主観的になりすぎないように、つまり自分勝手に解釈しないように気をつけたりするのは大切で、聖書自身が注意しています。これらは、クリスチャンの個々が気をつけているところでしょう。しかし、今日の有名な聖句を読めば、聖書の効用が正しく理解できます。聖書は「神の霊感によるもの」とありますから、聖霊の助けと導きを必要とするものなのです。「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」とある通りです。この中で、「矯正」とあるのは、興味深いですね。私たちの中に古い生き方の癖やあってはならないものを矯正するのですね。例えば、ネガティブに考える癖があれば、それはポジティブに考えるように矯正があるでしょう。悪い癖は矯正されるでしょう。この世に迎合するような考え方も矯正されるでしょう。その人に益とならないものなら矯正される可能性があります。しかし、聖書を通してなのです。とても不思議ですね。神様のために良い働きをしたいと思う人は、聖書が十分に整えてくれるのです。聖書の力をもっと深く知りたくなりますね。

 

9月3日(火)

我らの魂は主を待つ。

主は我らの助け、我らの盾。

我らの心は喜び

聖なる御名に依り頼む。

主よ、あなたの慈しみが

我らの上にあるように

主を待ち望む我らの上に。

詩篇33:20~22

 

「見よ、主は御目を注がれる」。一体誰に主は御目を注がれるのだろう。「主を恐れる人、主の慈しみにを待ち望む人に」。クリスチャンである私たちはどうであろう。何か困ったことが起こった時、苦難に遭遇してしまった時、敵に苛まれている時、私たちは主に助けを祈るのだが、果たして主を待つだろうか。聖書ははっきりと明言する。「主は我らの助け、我らの盾」と。主に助けを求める者は、援軍を今か今かと待ち続ける者のようだ。主は、どんな時も信じる者を助けに来られる。敵がどんなに強くても攻撃をやめなかったとしても、主が盾になってくださるので、敵の刃は私たちに届くことはない。主を待つのは魂であるから、嘘偽りは無い。信仰者の人生は、このように主の助けに満ちている。それは、主への絶対的な信頼があるからだ。私たちは自己を誇ることはない、ただ聖なる御名により頼むだけだ。主の慈しみは絶えることがない。それは、私たちが主を待ち望む者だからだ。心を強くせよ。主は誠実であるから。恐れることはない。

 

9月4日(水)

命を与えるのは、”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

ヨハネ6:63

 

聖書を学ぶ理由はいろいろあるだろうが、今日のイエス様の御言葉によれば、主の「話した言葉は霊であり、命である」とある通りです。そのような御言葉を学ぼうとしているわけです。読み解くにあたっての注意書きが上の句に書かれています。「肉は何の役にも他立たない」と。つまり、人間的に知力を尽くしても御言葉から命を得ることはできないということになります。そして、「命を与えるのは、”霊”である」と書かれていますから、聖霊によらなかればなりません。肉は自分の範疇を越えることを嫌います。知性で理解できないことを受け付けないのです。人間はもともと地のチリによって「肉体」が作られ、神の息「聖霊」を鼻から吹き込まれて生きた者「魂」となりました。ですから、人間はもともと神の息によって生かされているのです。罪はこの聖霊を覆い、やがて固い殻のようになって、聖霊を閉じ込めてしまったのです。しかし、主イエス・キリストに救いによって、罪が贖われ、汚れが清められ、聖霊が再び天から遣わされ、もともとの聖霊を覆っていた罪の殻を打ち壊したのです。そのことによって、両方の聖霊が交わり、私たちは新しく生まれたのです。そして、それらは全て信仰による義なのです。ですから、聖書を読む時に聖霊に解き明かしを求めることができます。しかも、その御言葉を信じることができるのです。このようにして、私たちはこの世の者でなく、新しい世に生きる者と変えられるのです。主が言われた通りに命をいただけるのです。

 

9月5日(木)

あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。

ネヘミヤ9:20

 

出エジプトの出来事は、私たち信仰者に教訓を与え、また信仰者の歩む道、人生そのものを教えています。私たちが目指すゴールは天のカナン、神の国です。そこに至るには、罪と死と悪魔の奴隷からの解放が必要でした。モーセはイエス様のモデルとして描かれ、悪魔を象徴するエジプトのファラオから解放し、この世の象徴であるエジプトを脱出させました。彼らが紅海を通り抜けたことも水の洗礼を表していました。つまり、クリスチャンとなった人へのメッセージとして今日の聖句を読むと、聖霊が与えられている理由が悟らせようとされていることがわかります。私たちは信仰によってこの世から迫害や不利益を被ることはあるかもしれませんが、そうでなくとも、マナは絶えないとの約束があるのです。これは、物質的な食べ物、つまり生活を支えるものが絶えることなく与えられるということです。そして、魂の渇きを癒す命の水を与えられるのです。それは、わかりやすいものとしては、聖書の御言葉です。こうして、神を知り、神の人として生きるのです。この世で信仰を守り抜くことは、神への賛美となり、主に栄光を帰すことになります。私たちに待っているのは、再臨の日に主自らが迎えに来てくださることです。ですから、この世での小さなことに心を乱されることなく、主を喜んで、信心深く生きていきましょう。

 

 9月7日(土)

神は、私たちが御怒りにあうようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Ⅰテサロニケ5:9~11

 

ハレルヤ!主に感謝します。私たちは、主から驚くほどの恵みを受けています。どうしてかはわかりませんが、イエス様が選ばれているあなたを探し出して救いへと導いてくださいました。あなたも主を愛し、主を信じて生きています。あなたの存在はとても尊くて、天の父が子として下さったほどです。ですから、私たちは信仰によって生きる者となったのです。神様がよくしてくださるのですから、信頼を忘れてはなりません。試練すら益として下さいますから、恐れることはありません。ただ、この世のことに心を奪われていると、その恵みがわからなくなります。ですから、私たちは気をつけなければなりません。今日の御言葉によれば、主が十字架で死んでくださったのは、「私たちが、目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです」と書かれています。ありがたいですね。あなたの信仰生活は報われます。そして、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と書かれていることを覚えて、キリストの道を歩んでいきましょう。

 

 9月8日(日)

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。

ヨハネ5:24

 

私たちは、イエス様の功績を過小評価していないだろうか。自分の感覚に頼り、救いの確らしさを求め過ぎてはいないだろうか。自分の功績によって義とされ、救われるのではないと聖書は教えているのに、どうしても自分の何かしらの努力を必要とすると思えてしまうのだ。その考えの先には失望しかないのに。今日の聖句をもう一度見てみよう。はじめの「まことに・・」は「アーメン・アーメン」のことなので、イエス様が真理を語る時の合図のようなものだ。そこで、ここには重要なことが教えられている。それは、イエス様の言葉を聞いて、イエス様をお遣わしになった方、つまり父なる神様を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きにあうことがなく、死から命に移っている」と言うのだ。人間の救われるために自分も何かしたいという衝動は、「信じる」に向けられればいいのだ。つまり、他はできなくても、信じることに関しては自分の責任なので、大いに信じればいい。ここでの、ポイントは「イエス様の御言葉を聞いて、イエス様をお遣わしになった父なる神を信じる」と言うことで、あなたはきっとこの通りにしているはずです。しかし、その後に続くことを信じていないなら、それは問題となります。あなたが信じることは、「永遠の命を持っている」「裁きに会うことがない」「死から命に移っている」、この三つです。イエス様の御言葉を聞いて、お遣わしになった神を信じる事には、人間の理解を遥かに超えた救いの現実があるのです。救いに対して自信を持てない人は、今日の御言葉を納得がいくまで読み返し、考えてみよう。そして、信じることができることの中にも神様の恵みが働いていることに気がついて欲しいと思う。

 

9月10日(火)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。

あなたの御前には喜びが満ち、

あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

詩篇16:11

 

あなたはここに書かれた「いのちの道」を知っています。ここに書かれている通りに、主が「いのちの道を知らせて」くださったからです。それは、この世の道ではありません。イエス様が「神の国は近づいた」と言われた通り、あなたは罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じたのです。そして、古い自分を捨て、古い生き方も一緒に捨てたのです。それはキリストの十字架の上に今もかけられています。あなたは、神様に従順を示し、神様の御支配に服従しているのです。そこで初めていのちの道が見えてきたはずです。あなたは聖霊を注がれ、再臨の前に既に神の国の前味を知ったのです。ですから、決して疑ってはなりません。主を信じて神の国に生きるのです。そうすれば、神様の御前には喜びが満ちていることを知ることができます。そればかりか、「あなたの右には楽しみがとこしえに」あるのです。右があれば左もあります。あなたは良い方をいつでも選択しなければなりません。神の国もこの世もと欲張れば、両方とも失います。あなたの意思は神様の方だけを向いていなければなりません。ここで言われたことを信じますか。どのような時にも、このことを忘れないでください。クリスチャンがどのような状況でも、喜び、楽しみを得続けることができると理解してください。

 

9月11日(水)

民よ、どのような時にも神に信頼し

御前に心を注ぎ出せ。

神はわたしたちの避けどころ。

詩篇62:8、9

 

人生は同じことの繰り返しのようで、実際には思いもかけないことが起こり、時には喜び、楽しみます。また別の時には悩み、心配し、怒ったりするのです。このように、誰にでも変化が起こり、事態が思い通りにはいかないものです。そこで、私たちは一つ一つの出来事に上手に対応しなければなりません。否定的に物事を考える傾向がある人は、どうもそうした日々に起こる事態に悪い選択をしてしまう傾向があります。一方、同じことが起こっても、上手に解決し悪いと思われたことを良いことに変えてしまう人もいます。そういう人は肯定的に物事を考える習慣が備わっている人で、良い方を選択することができます。実は、誰でも毎日驚くほどの選択を繰り返しています。その積み重ねで結果が決まります。問題は、ポジティブに考える人とネガティブに考える人では、選択が違っていることです。この違いが人生を良くするか悪くするかを決めていることを指摘るす科学者は少なく無いのです。面白いことに、クリスチャンでも二つのタイプに別れます。同じ信仰を持っているのに、聖書を読んでもポジティブに読んでいるか、ネガティブに読んでいるかで違いが実際の生活に現れてくるのです。しかし、こうした事実があっても、ネガティブな人は、こうしたことを認めない傾向があります。そのような人は、人生を良く変えることが難しいのです。それは残念なことですね。今日の聖句は、誰が読んでも素晴らしい覚えておきたい御言葉です。この聖句を読んで、受け止め方がポジティブであるかネガティブであるかでその後が変わります。読んだことを忘れた頃に選択をしなければならない時に、正反対の選択をする事になるでしょう。実に、神様が創造された世界は素晴らしい、その中の人間も素晴らしい、悪魔がいて、罪人がいて、この世界に災害や病気があっても、神様を信じる者は不信仰になる必要がありません。神様は生きておられ、どのような時にも信頼に足るのです。御前に心を注ぎ出しても安全です。正直であれば良いのです。そして、この世に何があっても、いざとなれば、「神は私たちの避けどころ」なのです。これをポジティブに受け止めてみてください。あなたの口から感謝が溢れるようになります。

 

9月12日(木)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ4:13

 

根拠の無い自信、という言葉を聞いたことがありますか。この世では、たとえ根拠の無い自信でも、何かを成し遂げることがあります。私たちの場合は、今日の御言葉でわかるように、根拠の有る自信です。ですから、少しぐらいの失敗や困った状況に陥っても、それでもうダメだとはならないのです。何しろ、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と聖書に書かれているのです。ならば、何を心配し、恐れる必要があるでしょうか。主があなたを強くしてくださいます。それは人間の考えるようなことではないかもしれません。しかし、主の御心にかなう最善の方法で困難を解決できます。ですから、否定的な考え方を頭の中から追い出してしまいましょう。どうやってやるのか? それは、今日の聖句を何度も声に出して唱えることです。自信が出てきます。全てが良い結果になると信じることができるのです。そして、信じた通りになるのです。これがクリスチャンの特権なのです。

 

9月13日(金)

こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

ヤコブ5:7、8

 

私たちが待っているのは、主の再臨です。名探偵が最後に犯人が誰かを言い当てる場面がありますが、まさに、人間に罪が入り込んでから長い時間が流れ、預言者を通して語られた通りに救い主が来られ、救いの道が開かれました。それから、実に2000年もの長きに渡って、人間と罪と福音がどうなって行くのか全宇宙が、悪魔がそして神が見てきたのです。その最後は、世の終わりで、主の再臨を持って締め括られるのです。そして、クリスチャンはヤコブの手紙の通りに、「主が来られる時まで耐え忍びなさい」との御言葉を守ってきたのです。そこには希望があり、農夫の譬えのように「秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っている」のです。これは、先の雨、後の雨とも呼ばれ、聖霊が雨のようにこの地に降ってくることを意味しています。それが起こると、多くの人が悔い改めて主イエスを信じて救われます。つまり、リバイバルが起こるという意味です。私たちも日本にリバイバルが起こるようにとあきらめることなく祈ってきました。それは、「あなたがたも耐え忍びなさい」と命じられているからです。そして、私たちは夜が更けて、再臨が近づいていることを知っています。主は語ります、「心を強くしなさい」と。それは、「主の来られるのが近いからです」。聖徒らの忍耐は必ず報われます。後の雨を待ちましょう。

 

9月14日(土)

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

ローマ12:3

 

人間の面白さは、自由に考えることができるということです。歴史に名を残す人はいったいどのような考えをしていたのだろうと気になります。ただ、クリスチャンは最も控えめに生きる美学を持っていると思います。それは、自分の分をわきまえる生き方です。人間の性質上、放っておけば思い上がりやすいのです。もっともこれは物事がうまくいっている場合であって、逆にうまくいかなくなれば簡単に落ち込むのも人間です。現代人のように生活が向上し、仕事も高度化して、とかくストレスが日常的にかかりやすくなると、体や心を壊しやすくなります。人間は精密機械以上の繊細なものなので、限度があるわけです。また、誘惑が多く罪を犯しやすい世界なので、罪責感から精神を病む人もいます。こうした、現代人特有の世界でも、上手に生きて行くには今日の御言葉に耳を傾けてみることが大切です。クリスチャンには信仰があるのですが、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と教えられています。神様は私たちのことをよくご存知なので、その人に相応しい信仰を与えてくださっているのです。信仰が重荷にならないように配慮されています。つまり、義人は信仰によって生きると聖書にあるように、クリスチャンは信仰によって生きるのです。その信仰も神様が与えてくださったものです。それをちょうど良く与えられているので、困ることはありません。逆に言えば、信仰を発揮すれば奇跡も起きるわけです。それは大きな力を持つということです。ですから、慎み深い考え方が必要になります。毎日を穏やかに謙遜な人として生きたいですね。

 

 9月15日(日)

愚か者は自分の感情をさらけ出す。

知恵ある人はそれを制し静める。

箴言29:11

 

不思議なことに、感情の豊かな人と乏しい人がいます。感情の豊かな人は、概して楽しい人が多いのです。また芸術家に向いているのでしょう、世に優れた芸術家は情緒豊かです。ところが、感情の振り幅が大きければ、負担が大きいということですので、大変な面があるのです。しかし、今日の聖句で「愚か者」とあるのは、感情の豊かさを責めているのではありません。「自分の感情をさらけ出す」ことを指して愚か者と言っています。つまり、さらけ出さないように制御できればいいのです。せっかくの情緒の豊かさを悪いものと決めつけてはいけないのです。私たちの人生を豊かなものにしているのは、こうした情緒の豊かな人たちのおかげなのです。問題は、選択できるということを理解していないことです。何を選択するかといえば、「愚か者」か「知恵ある人」かを同じ人が選べるということです。どちらが良いかは誰でもわかります。そこで、感情の豊かな人は神様に感謝して、「知恵ある人」になれるように願うのです。そもそも、「知恵ある人」とは、感情を制し静めることができる人のことです。このために、信仰が役に立ちます。祈ることも良いことです。そして、感情が爆発しそうな時は、爆発させるか、やめるかを選択できるので、やめる方を選択します。しかし、感情を爆発させるような原因があるはずなので、放っておけば勝手に悪い感情をさらけ出して、後で後悔したり、苦しむことなるので、その最悪の結果になることを避けなければなりません。ということは、もう一つ選択しなければならないということです。いっときの感情で怒ったり、感情をさらけ出すと相手に勝てないどころか、完敗し惨めさと後悔だけが残ります。だから、感情はさらけ出さないことにする選択をしなければならないのです。そのような自分の手に負えない問題は、すぐに神様に任せます。自分は、相手の言葉や態度で、その先のことを考え最悪の結果を予測したので、怒ってしまったのです。相手の悪意にも腹を立てています。しかし、ここで怒ってしまえば、良い結果になるでしょうか。売り言葉に買い言葉で、暴言を吐くかもしれません、そのような時には、自分の気が治るまで徹底的に酷い言葉を相手にぶつけるでしょうから、その結果が恐ろしいのです。自分で復讐してはならないと聖書は教えていますから、この場合、神様に後で助けを求めても助けは期待できないかもしれません。一旦壊れた人間関係は、決して元には戻りません。自分も深く傷つくことになりますが、誰からも慰めてもらえません。こんなにも酷いことになるのは、自分のせいだと同情してもらえないのです。それどころか周りから嫌われてしまいます。なんとも感情をさらけ出すことが愚かな事だと気がついても、その時には手遅れになっています。だから、聖書で注意が書かれているのです。これは誰でも陥る危険です。人間を磨き、人格を練り上げて、感情を制する人に成長したいものです。そのために、一旦冷静になって良い選択は何か考えられるようになりましょう。危ない状況から一旦逃げ出す事だって身を守る選択になるものです。

 

9月16日(月)

もし罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

マタイ6:14、15

 

クリスチャンにとって「赦し」は大きな課題です。誰にとっても難しい問題で避けることもできません。私たちはイエス様のお言葉は守ろうと心に決めています。それでも、実際に相手がいて「赦す」ことが難しい場面に遭遇することはあり得ることです。できれば、「赦す」ことをどんな場面でも実行したいと思っています。何より、今日の聖句は自分が赦せば、天の父も自分のことを赦してくださる、と言われているのです。そして、恐ろしいことに、自分が赦さなければ、天の父も赦さない自分を赦さないというのです。このように、昔からクリスチャンにとっての大きな壁なのです。もちろん、赦すために一生懸命に努力をします。ですから、大抵の人は赦しています。それでも、この人は例外だろうと思える人が現れて、せっかくの模範的なクリスチャンの自分に汚点をつけるのです。児童伝道で有名な尊敬されているご婦人が、告白しています。「自分は大抵の人は赦せるのに、どこの教会へ行っても、必ず一人はどうしても赦せない人がいるのです。どれだけ祈っても、努力してもダメなんです。どうして赦せないかと考えて、ついにわかりました。その赦せない人に、自分の赦せない同じものを見つけてしまうからなんです」。これは、考えさせられます。律法は、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と戒めています。ですから、主イエスは、愛せない罪深い私のために、十字架に私の罪を引き受けて釘付けにして、罪を取り除いてくださったのです。それは、私を愛せるようになるためでした。ですから、主イエスを信じて、罪赦されたことを認めて、過去にこだわる事をやめるのです。十字架にはその力があります。主イエスの救いは完全なのです。過去に苦しめられることなど、もうしなくて良いように主イエスは十字架で死んでくださったのです。ですから、罪を赦されたあなたは、自分を愛すことができます。無条件に愛せます。ですから、自分を赦せるのです。自分を愛するように隣人を愛することができるのです。だから、赦せないことはもうないのです。

 

9月17日(火)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

エレミヤ29:12、13

 

神様体験というものは信仰者にとって憧れのようなものがあります。誰かが、神様に近づきなさい、と言えば、そのようにしたいと思うのですが、実際にどうすれば良いのか戸惑ってしまいます。今日の聖句にも、「あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら」とあると、さっぱりわからなくなってしまいます。そもそも「心を尽くして」と言われても、どのようにすれば、心を尽くしたことになるのかと途方に暮れます。物知り顔に、「全力を尽くせばいいのですよ」と言われれば、「全力を尽くしているのに」と言いたくなります。聖書には、このような書き方が多いのです。ですから、読者はハウツー本のように読むと、すぐに投げ出したくなります。そこで、宗教らしく神秘的なことなのだと飛躍すると、落とし穴が待っています。酷い目に遭う前に、心をさまよわせてはいけません。私は預言者ではないから関係ないと、切り捨ててしまうのも残念なことです。まず、ここには超自然的な能力は要求されていません。「呼び求め」「歩き」「祈る」「心を尽くして」「捜し求める」「見つけ出す」、と「心を尽くして」以外はそれほど難しくはありません。そこで、心に聞いてみましょう。私は神様を見つけ出したいだろうか。それは、きっと信仰者にとっては良いことに違いない。いや、きっと私は神様に近づいて、神様をもっと知りたいし、私について神様に聞いてみたい。神様に愛されていることを確かめたい。どう生きていけば良いのか、ちゃんと神様から教えていただきたい。それができないでいるから、信仰生活に不安や満足感が得られないでいるのではないだろうか。ならば、私の心は神様を見つけたいと思っている。これが出発点ですね。自分の正直な心の声が聞こえれば、心を尽くすことは決して難しくありません。あなたは、そもそも神様に救われ、恵まれているのですから、安心して今日の御言葉を受け止めて大丈夫です。