2025年2月ディボーション

2月1日(土)

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。ー 万軍の主は仰せられる。 ー わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

マラキ3:10

 

富の問題は、クリスチャンにとって大きな課題です。幸い、古代世界に生きているわけではありませんが、それでも現代ならではの問題もあります。私がクリスチャンになった頃は、富んではいけないと思っていました。大金持ちになりたいと願ってはいけない、それは罪だと思っていたのです。また、そのように話す人もいます。なんとなく、貧しいぐらいが偉くて、ちょっと豊かになれば、それは悪いことのように感じていました。しかし、周りを見ていると、金持ちに敬意を払っていることがよくわかりました。実際、金持ちが悪人とも見えませんでした。それよりも貧しい方が問題が大きく、付き合いたいのは豊かな人の方であることが、見て取れました。何か、キリスト教の本音と建前のようなものを感じました。聖書に書かれたことよりも、世俗の世界の価値観が教会にも生きているのです。それは、自分が聖書に書かれた通りに考えて行動しているのに、上司に裁かれるのが、聖書に書かれたことによってではなく、世俗の価値観によることが明らかなことがあるからです。つまり、富の問題は、簡単ではないと言うことです。聖書をよく学ばなければなりません。お金の学びで一番確かなことは、今日の聖句です。これ以上に神様から富のことを学べる方法は知りません。誰も見ていません。自分がどうしようと、人間は誰も何も言わないのです。しかし、神様は見ておられます。聖書を読めば、神様が私たちを生かしてくださり、神様を愛している者を富ませておられることを知ることができます。自分の自由にできるお金をどうするか、信仰を持って決める人は、神様に献げるわけですから、当然祝福されます。しかも、神様は十分の一で良いと言うのです。本当は全部神様のものなのですが、そのことを承知している印に、十分の一を献げるように教えておられるのです。この世にも不思議な十分の一献金は、世界中のクリスチャンがその恵みの大きさに驚き、畏怖の念を抱くようになります。信仰が伴えば、神様の愛を知ることができます。形式にならないように気をつけ、毎回、神様の物をお返ししますと感謝を表すことが大切です。私たちを天の富で豊かに富ませてくださる神様に感謝を献げましょう。

 

2月2日(日)

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

ヨハネ6:35

 

あなたはイエス様を「いのちのパン」だと思っていますか。考えただけで楽しくなりますが、私たちは、いのちのパンを知っているのです。それどころか、そのいのちのパンのおかげで、この地上にいながらにして、永遠の命を頂いた天国のことを考えているのです。「あなたの体は何でできているの?」と聞かれたら、あなたは「イエス・キリストでできています」と言うでしょうか。相手がクリスチャンでなければ、理解はしてくれないでしょうが、言っている本人は、ウキウキしてくるような嬉しさがあるでしょう。この世の人たちは知らない食べ物があるのです。ですから、私たちは飢えることがありません。さらに、驚くことに、イエス様を「信じる者は、どんなときにも、決して渇くことがありません」と聖書に書かれていることです。イエス様の元へ行き、イエス様を信じる者の特点のように、この世の人間が一番求めているものが、しかも、苦労してもなかなか手に入らないようなものなのに、イエス様に行き、イエス様を信じる者には、必ず与えられるのです。それは、アダムの呪いと関係あります。アダムが罪を犯したので、呪いとして、食物を得るのに苦労することになったのです。それがイエス様を信じるなら、その呪いから解放されるとわかるしるしがイエス様の御言葉を通して知らされたのです。ありがたいですね。

 

2月3日(月)

まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるからです。

マタイ18:19、20

 

これほどの約束が聖書に書かれていることに驚きます。これで、クリスチャンは何の心配もありません。日本のようなクリスチャン人口が少ない国でも、さすがに二人は集まれます。おそらく教会の最低会員数は、二人なのだろうと思う方もいるでしょう。これは、私たちにとっては大きな励ましです。それで、何か大きなことが起これば、すぐに自分で祈るだけではなく、信仰の共にも祈ってもらおうとします。確かに、教会で祈りのくみという祈り方があります。二人か三人1組になって、挙げられた祈りの課題を祈ります。代表で祈ることもありますが、ほとんどの場合はそこにいる人が全員祈ります。また、場所が離れている時に、時間を決めて祈ることがあります。それでも、主が共にいてくださると思います。イエス様との距離ができてしまったと思う方がいれば、電話でもいいので二人で祈ることです。その時もイエス様がおられるはずです。このように、イエス様と一緒に祈りの場にいることができるのなら、そのようなチャンスを多くすることも大切です。教会員はこのような祈りの組で祈りを覚え、その力を味わい知るのです。複数人で祈ることは、教会の恵みです。そこにイエス様がいてくださるとお約束してくださったからです。

 

 2月4日(火)

未熟な者は何事も信じこむ。

熟慮ある人は行く道を見分けようとする。

箴言14:15

 

自分が人間であるのに、さっぱり人間のことがわかっていない。そう思ったことはないでしょうか。今日の聖句は、立ち止まって考える価値があります。この御言葉を読んで、あなたはどう考えましたか。あるいは、自分を未熟な者と思ったでしょうか、それとも、熟慮ある人の方でしょうか。「未熟な者」と聞けば、私たちはすぐに若者と思ってしまいます。しかし、焼き物などの陶工で人間国宝である人が言う、「未熟な者」の年齢は決して若者だけを指すことはありません。何歳になっても、ダメなものはダメだからです。こうした一般論ではなく、クリスチャンが今日の御言葉を考えるとどうなるでしょうか。私は聖書を読んでもわからない人のことではないかと考えます。聖書が決して言っていない意味を勝手に読み取って信じこむ、となれば、よくないことと理解できます。一方、御言葉を読んで考え、その意味を取ろうとする人は、聖書全体から考えたり、同じ言葉を他ではどのように使っているかを調べたり、深く意味を考えようとします。それは、行く道を見分けようとする人に似ています。あなたはどうでしょうか。

 

2月5日(水)

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。もっといる人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

マルコ4:24、25

 

これはイエス様がお語りになった、有名な御言葉です。「自分の量る秤ではかり与えられ」ると言うのです。自分の心の中の秤のことです。意地悪なら、意地悪く量ることになります。親切なら、親切に量るでしょう。自己中心なら他人のことなどどうでもいいので、そのように量るでしょう。愛が宿っていれば、愛で量ることになります。さて、あなたはどんな心を持っているでしょか。人からよく思われたいと思う人は、自分がよく思われるように量ります。この秤の問題は、自分が量ったよりも、自分に返ってくる時には量が多くなっているという点です。良いことなら、もっと良いことが自分が跳ね返ってくるのです。しかし、悪いなら、もっと悪いことが自分に跳ね返ってくるのです。人の失敗に厳しいと、自分が失敗した時には、もっと厳しくなるというのです。これは、真実です。ですから、クリスチャンの看板を掲げているだけではなく、実際にキリストのように愛の業を実践できる者になることを目指しましょう。その方法は、心から始まるのです。秤を愛の秤に変えることから始めるのです。人に向けた親切が自分に返ってきます。そこには穏やかで幸せな日々が待っています。

 

2月6日(木)

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

ゼパニヤ3:17

 

主に喜ばれる人は、幸いです。そのような人になりたいものです。イエス様は、私たちを知っておられます。生まれる前からです。私たちが産まれる二千年も前に、私たちの救いの道をつくられ、罪の解決のために十字架につかれました。私たちは、福音を聞き、イエス様を信じました。何の功績もなく、罪から救っていただきました。それから、長い月日をかけて、主の愛をだんだん深く理解してきたのです。そして、驚くことに、主は私たちのことを喜びをもって楽しんでおられると知りました。私たちが主に愛されていると聞いた言葉は、今では心に安らぎを与える現実となりました。私たちは、主の愛に結ばれているのです。ですから、主から離れることはありません。私たちは、そのことを喜んでいます。しかし、主の方こそさらに喜んでいてくださるのです。ですから、今日も明るく、元気に過ごしましょう。主を信じて、賛美しましょう。主から来る平和を感謝しましょう。

 

2月7日(金)

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。

イザヤ12:2、3

 

私たちは神様を知っています。そして、信頼しているのです。残念なことに、この世の多くの人たちが、私たちの神様を知りません。それは、私たちにも責任があるでしょう。本当に救われた人は、救ってくださった方のことを人々に話すはずです。それができなくても、神様を信頼しているので恐れない生き方をしていることで、証しすることはできるでしょう。神様への真剣度が信仰の真剣度となり、「ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌」と心から溢れ出る言葉となるのです。神様が自分を救ってくださった、と言うだけで十分感謝なのですが、神様は「私のための救いとなられた」と言うのです。つまり、御子イエス様を犠牲にしてまで私たちを救ってくださったのです。御父がどれほど苦しまれたか、想像力を働かせなければ、救ってくださった意味がわかったとは言えません。神様が犠牲を払って人間を救ってくださる神々がこの世界にいるでしょうか。いるわけがありません。しかし、私たちの主は、驚くべき愛によって、本当に死んでくださったのです。この主の愛に応えて、私たちは生きているのです。

 

2月8日(土)

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

詩篇23:6

 

あなたがクリスチャンであるのなら、この御言葉を受け止めてください。そして、あなたのものとしてください。信仰とは、そのようなものです。つまり、あなたの一生はいつくしみと恵みが追って来るようなものです。ですから、人生は良いもので楽しいと喜ぶこともできます。敵がどんなにあなたを踏み倒したくても、それはできません。万が一、最悪なことが起こったとしても、そこで終わることはありません。逆に信仰が倍増して、聖霊のバプテスマを受けることができます。そうなれば、敵は敗北し、全ての問題が嘘のように解決して行きます。それは、全て神様の御手の業ですから、あなたは自分から解決しようとしなくても良いのです。必要な助け手は向こうから近づいてきます。そこで、信仰の意味が分かりはじめます。御言葉を信じることの力も体験し始めるでしょう。霊的な賜物が現れるでしょう。それらを人助けに使うなら、感動するような人の救いを目撃できます。さらに、「主の家に住まいましょう」という御言葉は、あなたがキリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンになって、あなたの体が聖霊の宮となったことを知っているでしょう。聖霊は三位一体の神なので、神の家となったと言う意味です。そこにいつまでも住まいましょう、と言っているのです。その意味が分かりますか。エルサレム神殿は紀元70年にローマに破壊されてそのままです。ですから、「いつまでも」とは行きません。しかし、あなたが宮となっていたならどうでしょうか。このような奥義に達することができますように。

 

2月9日(日)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たしたちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9、10

 

イエス・キリストのことを伝えることがクリスチャンの使命です。それを、福音を伝えるという言い方をしています。それは、良い知らせのことです。実際、人に福音を語ることは、難しいのです。簡単だと言う人がいないわけではありませんが、少ないことは事実です。おそらく、このディボーションを読まれている方も、誰かに福音を語ったことがあるのではないでしょうか。ただ、思うようにはうまくいかなかったかも知れません。パウロでさえ、いつもうまく人を惹きつけて話していた訳ではありません。初めは、誰にでもあります。それでは、失敗しても何度でも挫けずに福音を語り続けることができるかといえば、結構ハードルが高いと思っている人は数多くいます。こうした人たちに足りないことは何でしょう。一つは経験不足です。福音を語ることは場数をふめば誰でも上手になります。肝心な点は、伝道しようとしている人のために祈ることで、聖霊が働かれます。このように、自分一人で伝道することはなく、聖霊がいつでも助けてくださいます。そうなると、伝道の言葉が大切になります。そのために、聖書に親しんでおくことが重要ですが、今日の聖句のように、伝道の決まり文句のような箇所があるのです。こうした御言葉をすぐに聖書を開けるようにしておくことや、できたら暗唱して、聖書の考え方、真理の伝え方を身につけるのです。そうすれば、楽しく伝道できるようになります。その結果、バプテスマを受ける人が現れるでしょう。これは、教会の人に助けてもらっても良いのです。

 

2月10日(月)

食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

ルカ22:27

 

この主のお言葉は、心に残ります。それは、誰もが主は食卓に着き、給仕をしてもらう方だと思っています。しかし、「あなたがたのうちにあって」は、主はそうではなく給仕役だと語られたのです。それは、どのような意味でしょうか。私たちは、主に何でも願うばかりです。「守ってください」「祝福してください」「困っているので助けてください」「職場の人が困らせないようにしてください」といったようなことばかり願っています。これでは、主に自分に仕えるように言っている主人のようです。「どちらが偉いでしょう」と聖句に書かれていましたが、私たちは主に甘えて、いつでも感謝より、願い事の方が多いのです。主に依存してはいけないわけではありませんが、だからと言って甘えて、自分の義務を果たさないことはよくありません。私たちは、主にお仕えしている僕でありはしためであると、自分で言っています。それなのに、どちらが主人でどちらが仕える者かわからなくなっていたら、これは正す必要があります。聖書には、主にお仕えした模範が何人もいます。私たちも、主に仕える者であることをもう少し考えてみるといいでしょう。日々の生活がさらに充実してくるでしょう。

 

2月11日(火)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたと共に進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

申命記31:6

 

私たちは、旧約聖書時代のような戦争に巻き込まれているわけではありません。しかし、別な戦いがあることがあります。職場でも、学校でも、人間が集まるところでは、時に戦いが避けられないことがあるのです。そんな時に、今日の聖句を思い出して、主から力を受けましょう。実際に、あなたが戦うことはありません。あなたは、無力でも主が共に進まれるので、勝利者になれるのです。これは、大昔から信仰者が経験してきたことです。主があなたに、「彼らを恐れてはならない」とおっしゃるのなら、あなたはその御言葉に従うのです。「強くあれ。雄々しくあれ」はクリスチャンへの声援です。自分が気弱になってしまう時に、自分を鼓舞するためにこの聖句を読むのです。試練は容赦なくあなたを襲ってくるかもしれません。そんな時にも、慌てずに、まずこの聖句を読んで、不信仰にならずに済むように、主への信頼を口にしましょう。そして、主がどのように助けてくださるかを楽しみにしましょう。勝利は、あなたのものです。信仰者らしい勝利が待っています。

 

2月12日(水)

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

詩篇32:8

 

あなたは、助言を求める人がいますか。大事な選択をしなければならない時に、誰に相談しますか。自分がどう生きていけばいいのかわからないときに、助言を求める人がいる人は幸いです。自分を長く生きてくれば、振り返った時に後悔があるかもしれません。それは、選択を誤ったと認識しているからです。もっと、社会を知っていれば、もっと大人であったなら、きっと正しい選択ができたのではなかったか、と人間は後悔するのです。しかし、クリスチャンは、神様を知っています。生きて働かれる神様です。この神様は味方です。あなたの益となることだけを教え、導かれる方です。ですから、クリスチャンは、祈るのです。ただ、馬鹿の一つ覚えのように、同じことをくだくだと祈りるのではなく、助言を求めるのです。主は、悟りを与え、行くべき道を教えてくださるのです。これは、聖書に書かれているので、安心して、あなたは神様に行くべき道を教えてくださいと祈ればいいのです。これは、良い人生を幸福に生きて行ける秘訣です。

 

2月13日(木)

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

Ⅰヨハネ3:2

 

私たちは、今すでに神の子どもなのです。それは、嬉しいことです。このことは信じて良いのです。できれば、神の子らしく生きて欲しいのですが、私たちは神の子であることを忘れて、この世の人間に戻ってしまうことがしばしばなのです。それは、よくありません。そこで、神の子どもになったと信じて、生きて行くことになります。うまくできる人とそうでない人に分かれるでしょうが、そのようなこととは別に、神の子どもであり続けるでしょう。そのことで、満足しているわけにはいきません。私たちの目標はあくまでもイエス・キリストです。しかし、クリスチャンになって何十年も経つのに、一向にイエス・キリストに到達していません。程遠いと言いたくなります。よっぽど自分がダメなのかとガッカリするかも知れませんが、実は、私たちがキリストに似た者となることは、条件があるのです。それは、「キリストが現れたなら」という条件です。つまり、再臨の日まで待たなければなりません。再臨が起これば、私たちはキリストと共にいることができます。そして、何よりもキリストのありのままの姿を見るからです。これが、キリストに似た者になる秘訣だったのです。そうだとしても、キリストの再臨までに信仰によって良き備えができるように正しい信仰生活を送りたいものです。

 

2月14日(金)

人はその口の実によって良いものに満ち足りる。

人の手の働きはその人に報いを与える。

箴言12:14

 

この箴言は、心に留めておくべき重要な教えです。結局、一番に自分の口が何を言っているかで、結果が伴うというのです。人のことを心から思いやり、労りや慰めを与える人は、その人も同じようにされます。人生を豊かにし、平和で良いものに満ち足りるようにする秘訣は、たった一つなのです。それが、「口の実」なのです。人を悪くいうのがこの世の常ですが、それは同時に自分も悪口を誰かに言われていることに結びついています。自分は人のことを悪くいうが、自分は他人から悪く言われることはない、と思う人はどうかしています。自分が、何も考えずに誰かを悪く言えば、必ず、知れば気分が悪くなるぐらいに自分もさんざんに悪口を言われています。自分というものが、そういう人だからです。では、どうすればいいでしょうか、自分の「口の実」について、ちゃんと考えることです。愚かな人は、立ち止まって教訓を考えないのです。そのくせ、勝手な妄想を楽しんでいます。悪魔が入り込むのは、この妄想なのに、気がついていません。愚かなことです。クリスチャンは、そのような愚かなことはしません。「口の実」の意味をちゃんと考えて、わきまえているからです。裏表のあるような人であってはいけません。真実に神様を信じているのですから、人を生かす人になるべきです。人に不満を持つことがあれば、自分にも欲があったり、その人を自分の思い通りにしたいのにうまくいかない、といったことから不満を持っているかも知れません。罪の罠にまんまとハマってしまうところです。キリストのために生きるのがクリスチャンですから、キリストの望まれていることをしているかどうか、自分を振り返ることも大切です。毎日の言葉を気をつけるだけで、「良いものに満ち足りる」のですから、これはどうしても実行する必要があります。一生懸命に、キリストに仕えるようにどんなに小さなことでも手を抜かずに行うなら、誰が見ていなくても、必ず自分に報いを与える結果になるのです。これも、御言葉なので、必ずなります。クリスチャンとして、真面目に良い仕事に励みましょう。

 

2月15日(土)

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

使徒2:38

 

キリスト教徒が聖書を正典と考えているのなら、ここに書かれたことも文字通りに受け入れ、信じているはずです。教会で、洗礼式を執り行う時にも、この聖句は重要となります。アルゼンチン人の教授は、洗礼式を執り行う時には、水の洗礼の後に、聖霊のバプテスマも行っていると話していました。このようなことは、実は稀なことで、大抵の教会や牧師はやっていません。それどころか、水で洗礼を授けておけば、後は自動的に聖霊がその人のところへ降ってくると言う人が多いのです。神学者でそう言う人や、神学校の先生で同じように考えている人は多いのです。ですから、クリスチャンにはなれても、聖霊を受けているかどうかもわからない人が大勢いるのです。聖書は、クリスチャンは賜物として聖霊を受けている人という前提で、計画がなされているので、いろいろ問題が出てきてしまいます。ですから、このような聖句を読まれたら、この通りになっているかどうかを考えてみる必要があります。ただ、霊的なことはわかりにくいのです。そこで、教会はリバイバル集会を開く必要があるのです。昔はそのようにしていたようですが、今は聖霊の大降下を期待したリバイバル運動など絶滅してしまったようです。そうなると、個人が神様に祈るしかありません。聖霊のバプテスマを求めて、真剣な祈りが必要です。

 

2月16日(日)

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

ヨハネ7:38

 

多くのクリスチャンは、渇いた時にイエス様から生ける水をもらおうと考えています。しかし、今日の聖句を読めば、考え違いをしていることに気が付きます。それは、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とあるのです。つまり、自分の中から生ける水が出てくるようになる、と言っているのです。その条件は、ただ一つ、「イエス様を信じる者は」です。つまり、信仰を持っているクリスチャンは、本当は渇くことがないということになります。しかし、「霊的スランプだ」「聖霊が消えてからからだ」とか、「霊的に飢え渇いている」と平気で言葉にしています。生ける水は自分の中から湧き出ているのにです。これは、イエス様への信仰が薄いからでしょうか。イエス様との関わり方をよく理解していないからでしょうか。それとも、聖書を読んでいないのでしょうか。どれも、耳の痛いことです。私が不思議に思うことは、この世で成功したいと思っている人たちが、このいのちの水を自由に飲むことができることを聞いても聞こえていないという問題です。生ける水を飲めば、どんなに素晴らしいことになるか、想像してみてください。例えば、自分の土地に世界一の名水が湧き出ているのに、それを飲まずに、名水には劣るミネラルウォーターをわざわざ買って飲んでいる人のようです。これはおかしいと分かりますよね。それなのに、イエス様の御言葉を信じないで、自分の内には生ける水が湧き出ているとは信じていないクリスチャンになれば、こっけいだし、愚かに見えます。肉は霊のことがわからないということなのでしょう。しかし、もし、この指摘が理解できるなら、まず、イエス様を信じ、生ける水が自分の中で湧き上がっていることを確信しましょう。その水の効用は、自分を満たし、イエス様の恵み、父なる神の愛を受け取ることができるようになるでしょう。霊的なことに目を止めて考えることができるようになりましょう。

 

2月17日(月)

この命令は、きよい心と良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

Ⅰテモテ1:5

 

愛はクリスチャンにとってお馴染みのもですが、それでは、愛を自分が求めているかと聞かれると、困るかもしれません。クリスチャンとなったので、愛を求め、愛を実現したいと思うことは正しいのです。聖書の神様を知るまでは、愛はもっと頼りないものだったかもしれません。しかし、今は十字架のキリストを知ってしまいましたから、愛の真の姿も十字架上に見ているはずです。キリストに似た者となることがクリスチャンの目標であることを知っていると思いますが、それは、神様の助け無しには到底無理なことです。しかし、もう一つの目標では、愛という具体的な目標があって、その愛が「きよい心と良心と偽りのない信仰から出てくる愛」であるとは、気がついていなかったのではないでしょうか。自分の持てる最善、あるいは最良だけでは、到達しないでしょうが、望みはあります。キリストに信仰を置けば、可能なのです。聖霊に満たされたいと願うことから、始まります。素晴らしいクリスチャンの目標は、到達可能な者なのです。目標をどこまでも高く持ち続けたいですね。

 

2月18日(火)

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

Ⅰペトロ5:10

 

クリスチャンになったのに、苦しみがあるのはどうしてでしょう、と疑問に思う人がいます。その理由は、今日の聖句にある通りなのです。つまり、あなたを完全にしようとされているからです。ただ、完全になるだけではなく、さらに「堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」。それは、罪人のまま救われたので、不完全さが残っていたことと、クリスチャンとして成長を遂げて完全になっても、天国ではなくこの世にいるために、悪魔の攻撃にもさらされ、人間的な悪意やキリスト教への弾圧だってあるかもしれないのです。そうした、試練に立ち向かうための力も与えられるということです。ですから、心配症の人も、イエス様を信じることに専心することです。そして、目を向けるべきは、イエス様です。あなたは、「キリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れ」ていただいたのです。あなたの神は恵みに満ちておられるので、あなたは何も心配することはありません。むしろ、信仰を持って生きることを感謝し、いつも喜んでいましょう。今日も、あなたは完全に向かっています。希望がいつでもあなたの前に広がっています。

 

2月19日(水)

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て。その服のすそにでも触れさせて欲しいと願った。触れた者は皆癒された。

マタイ14:34~36

 

イエスの時代の病人のことを想像してみよう。現代のような病院も薬局もない。医療技術も原始的で、薬草の類や迷信のようなことに頼っていた。しかも、医者がいれば、診療費は高額で保険も無い。その上、多くが貧しかった。こうなれば、病気で苦しもうと痛もうと我慢するしか無い、と思っても到底我慢などできないだろう。そのような時代に、イエスが登場し、どんな病も癒してくださると聞けば自分もイエスに治して欲しいと願うのは人情だ。それが自分ではなく、自分の親や子供でも同じように考えただろう。そんな時に、ゲネサレトにイエスが来られたと聞けば、病人もその家族や友人もイエスのもとに行って、病人を癒してもらおうと考えるだろう。だから、みんなこぞってイエスのもとへ病人を連れて来たのだ。彼らは、貧しくて、お金が無かったと思われる。だから、イエスに「癒して欲しい」とは語らずに、その服のすそにでも触れさせて欲しいと願ったのだ。不思議なことに、「触れた者は皆癒された」。これはどういうことだろう。服のすそに触れて癒された者は、それだけの信仰があったということだろうか。それとも、イエスが彼らのへりくだった姿(信仰)を見て、癒してくださったのだろうか。イエスに癒していただくには、どうしたら良いのだろう。現代人の私たちは、病気になれば医者に行き、薬局で薬をもらうことに慣れている。しかし、聖書にはイエスに対する人々の姿が描かれ、イエスは、深く同情されて求める者の病気をことごとく癒して行った。今日も、同じようにへりくだって、イエスなら自分の病気を癒せると信じて、主のもとへ行く人はいるだろうか。我々には、この信仰の問題が提起されている。

 

2月20日(木)

わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも極めます。

Ⅰコリント2:10

 

神様が私たちに神様のことを教えるには、神様によるのです。そのために、聖霊を送ってくださいます。この手紙はパウロが書いたものですが、パウロだけの考えではなく、当時の原始教会全体の共通認識だったのです。神様は信じる者に寛容です。そして、完全な者となるように、神の知恵の奥義を教えようとされます。そのための聖霊なのです。つまり、啓示された奥義が聖霊によって解き明かされるのです。聖霊は、神様の霊であるために、神様の全てを知ることができます。隠されたものは何もありません。そのような神様を極めた聖霊が信仰者の内に住まうのです。それがどんなにすごいことか分かりますね。ですから、聖霊の賜物をいただいた信仰者は、この世と人間を支配しよとする諸霊に対してすら、その上に立ち、神の御心を知らされ、それを実現して行くことになります。「神の深み」とは、神の救済の奥義のことと思います。ただ、神様を完全に知るのは、再臨の後、未来の神の国でのことでしょう。とにかく、神様のみが、罪の発生に対する解釈、罪の裁き、罪の贖い、赦しの仕組み、十字架の犠牲、復活,等々を人間に明らかにできるのです。そして、その神様を神様のみが知ることができるので、聖霊がキリストを信じて救われた者へ分与されることによって、つまり、聖霊のバプテスマを受けて、人智を越える驚くべき神様の仕方で神様の側に移され、聖霊を宿す者として、神を知ることができるのです。これは、まさしく「霊の人」という新しい人を創造されたのです。

 

2月21日(金)

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

Ⅰコリント6:19、20

 

神殿であるということは、ある意味これは家ということで、代価を払って家を買い、そこに聖霊が住んでいるのだから、今は自分の体は自分のものではなく、他人のものとなったので自由に使ってはならない、というのです。聖句で言えば「もはや自分自身のものではないのです」ということになります。さて、クリスチャンの皆さん、あなたは、そう思って生きているでしょうか。未だ自分自身のものとして生きているのではないですか。この現実をどう理解したらいいのでしょうか。しかも、結論を見れば「自分の体で神の栄光を現しなさい」と命令されています。聖霊が家主であれば、当然のことなのですが、自分の体は自分のものだと考えていたら、そうはなりません。そもそも、自分の力で神の栄光を表すことなど不可能です。大体、自分の体を神殿とは考えていないので、普通に生きているわけで、神殿の自覚がないのです。そのような自覚でいれば、聖霊が住まなくなるとは考えないのでしょうか。もし聖霊が住まなくなれば、救いの保証がなくなります。聖霊によって、救いの計画が実行されて行くからです。自分の力で天国に入れるとは誰も思わないでしょう。ですから、聖霊が住んでいてくださることは、救いの絶対条件です。そうであれば、この箇所を読み飛ばして、平気でいられるはずがありません。この事実をどう受け止めるかで、救いの確実さが変わります。なんとも大変です。それだけ、聖霊のことがわかっていないということなのでしょう。もう一度、聖書を研究してみる必要がありそうです。

 

2月22日(土)

わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、”霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

Ⅰコリント2:4

 

神をなぜ信じるのか?このような疑問は、私たちを取り巻く世界に満ちています。彼らは、観光地でたまたま出会った神社などに立ち寄って、拝むぐらいの信仰があります。それなのに、人から聞かれたら、「無神論者」であることを告げます。日本の国の宗教が神道であると言いながら、何も知らなくても困らないし、恥ずかしくもないのです。不思議な国民ですね。その日本で1%未満の小さな群れがキリスト教徒です。この国の宣教を台無しにしているのは、そのわずかなクリスチャンに問題があると思います。それは、彼らの多くが聖書を解釈するときに、自分たちの経験や知識の許容量の中に御言葉を合わせてしまうからです。奇跡は日常の中で起こらないので、聖書に奇跡があっても、それを信じることはせずに、やり過ごしてしまいます。少なくとも、目の前で同じ奇跡が起こることは無いと信じているようです。つまり、聖書の御言葉を全てありのままに信じることができないのです。そうなると、今日の御言葉のようなことが起こりにくくなります。今は、人間の知恵による言葉で宣教し、奇跡はありません。ですから、神の力によって信じるようなことにはならないのです。この事実を理解して、聖霊と力の証明による伝道を考えるべきだと思います。もちろん、理性的にも知的に聖書が解き明かされて、人々の心に届くように努力を続けなければなりません。バランスの取れた信仰と呼べるほどの聖書の理解が必要だと思います。

 

 

2月23日(日)

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

イザヤ40:29

 

一泊二日の修養会の1日目を終えたのは午後の10時過ぎでした。ほとんど休憩無しに組まれたプログラムでしたから、二日目は皆さんがすっかり疲れてしまうのではないかと思いましたが、意外にも皆さんがお元気で、元気にさえ見えました。神様の集会では、聖霊の注ぎがあり、「疲れた者には力を与え、勢力のない者には活気をつける」と、今日の御言葉の通りになるのです。とても不思議ですが、神様の働かれるその場にずっと留まりたいと思うのです。上からの力をいただき、元気にしていただければ、それだけでもありがたいのです。私たちは、信仰を与えていただき、聖書を自由に読めるようにしていただいています。この御言葉の力を信仰で味わうことが許されているのです。ですから、私たちはますます神様に近づき、神様と共に生きようと決心できるのです。

 

2月24日(月)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

エフェソ1:3

 

私たちを罪から救って、それだけではなく、天国へも入れいるようにするには、どれほどの大変なことが必要だったのでしょう。これほど重要なことが、ほとんどよくわかっていないのです。私たちは、イエス様が十字架で死んでくださったこと、死を打ち破り復活してくださったことを知っています。しかし、それでさえ、深くは理解していないかもしれません。ましてや、それ以上のことを私たちが正確に理解することは不可能でしゅう。それほど、大掛かりな、人間の知性を遥かに超えた偉大なことが人間を救うためになされたのです。それは、今日の聖句のように、父なる神をほめたたえずにはいられないほど、神の深い愛の業なのです。何しろ、「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」とある通りです。私たちがイエス様を信じています、と告白できることがどれほどの大きな恵みであるか、まだまだ私たちはわかっていないのでしょう。日々の暮らしの中で自分の足りなさを知る時には、悔い改めと共に、それでも父なる神の愛が、すでに天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました、と賛美することです。あなたが主に祝福された者であることを感謝しましょう。

 

2月25日(火)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ3:15

 

教会のありがたさを感じることがしばしばあります。それは、聖徒の交わりの中にあります。この世のように競争することもなく、誰もが神の家族として平等であることも教会の特徴です。争いごとは、この世の常ですが、赦すことは敗北を意味しているためになかなかできません。しかし、教会では主が率先して赦し続けているのです。それなのに、自分が感情に負けて意地を張っても意味がありません。それどころか危険です。十字架によって救われたのに、それが赦しそのものなのに、自分でそれに逆らうことになれば、結末は見えてしまいます。ですから、今日の御言葉の通りに、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」との命令は、意味が深いのです。あなたの心がどうなっているのか、ごまかせません。御言葉の通りにしていれば、幸せに暮らせます。あなたの心ですが、自分の思い通りにしていてはならないのです。今まで、そうして散々な目に遭ってきたことを忘れてしまったのですか。ここは信仰の世界です。キリストの平和があなたの心を支配するように「しなさい」とあるのです。つまり、自分でそうしようすればできるという意味です。こうなれば、キリストとの関係がまた重要になってきます。キリストとあなたの間の関係が平和であるかどうか、それが一番の問題なのです。私たちがキリストの命令に服従している時には、当然平和があります。しかし、自分がキリストに逆らい、自分の感情に支配され、キリストに背を向けるようなことになれば、平和が無くなります。そうならないことが大切であることは誰でもわかるはずです。そこで、自分を反省してみる必要があります。信仰の世界は、ポジティブに考える方がうまく行きますから、深刻にならないように注意して、感謝の心を持つことがうまく行く秘訣なのです。これは、何が起こっても、たとえ悪いことが起こっても消えない、感謝の心のことです。このことを神経に考えた人は、世界で最も「感謝の祈り」という本を売りました。こうして、聖書を読み飛ばさないで、意味を考え、それを自分のものにするまであきらめずに取り組めば、大きな恵みが自分のものになります。

 

2月26日(水)

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

Ⅱコリント5:20

 

クリスチャンの自覚は、人によってかなり違います。牧師になろうとする人は、神の召命があります。それなしには、誰も牧師にはなれません。逆に、人間的に考えても牧師になれるとかなれないとか言えません。実際、牧師にはインターンのような期間が2年ぐらいありますが、その間に辞めてしまう人が毎年何人もいます。能力の問題というよりも、神の召命がなかったということでしょう。それでは、牧師や宣教師だけがキリストの使節かと言えば、そうではありません。この場合はクリスチャン全員が含まれます。私たちの使命は、伝道することだと思っていると思いますが、実は、「神の和解を受け入れなさい」と書かれているように、神との和解を勧める役割だというのです。和解ということは、人間が罪を犯したことで、神との関係に断絶が起こっているということです。人間の力では罪の問題は解決できなかったのですが、神の側から救済がなされました。それが、キリストが人間の罪を贖うために十字架で死ぬことでした。それほど私たちの罪は重いのです。私たちが死ねば、それはただ自分の罪の罰でしかありません。ここには私たちが生きる道はありません。その死を身代わりにキリストが引き受けてくれたので、私たちは罪を赦されて、生きる道が開かれたのです。それは、同時に神との和解が成立するという恵みであり、神との愛の関係が回復したのです。ここまでくれば、救いの意味がわかってきます。この説明の中で、人間にとって不利益なことは何一つありません。その逆に驚くべき利益しかないのです。人間の悩みの根源が罪であり、神との断絶であったのが、全て解決する道がキリストによって作られたのです。ですから、「神の和解を受け入れなさい」となるのです。これで、伝道が福音を信じなさいから、さらに一歩前進します。

 

2月27日(木)

愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにもわかりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

Ⅰコリント14:1~4

 

最初の原始教会は、聖霊のバプテスマを全員が受けていました。それだけではなく、聖霊の賜物も出ていたので、伝道も神の力で行っていました。神様の御業には愛という特徴があります。ですから、「愛を追い求めなさい」と命令しています。今日、だれがこの命令を守っているでしょうか。自信なく、人からもらうことばかり考えているこの世の人々には、理解できないでしょう。クリスチャンは言っている意味がすぐにわかります。「預言する者は教会を造り上げます」というのは、「愛を追い求める」ことと関係があります。預言の賜物も愛を追い求めるものなのです。それは、人を造り上げることになりますが、愛の人を造り上げるのです。異言は自分で語るので、自分を霊的に造り上げるのです。それに対して、預言は教会を造り上げるのです。つまり、両方が必要です。そして、その通りに原始教会は実践していたのです。今日も同じようにできるといいのですが。

 

2月28日(金)

兄弟たち、あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

Ⅰテサロニケ5:14

 

不思議なことではないのだろうが、クリスチャンはすべて人格者の集まりであるということはありません。どちらかというと、元罪人で新しく生まれて人生をやり直している人たちということなのでしょう。ですから、この世の人でも、数は少なくても人格者はいますし、偉い人もいるのですが、クリスチャンとはどのような人なのでしょうか。一般論で言えば、愛の人、忍耐強い赦しの人、主に仕え人に仕える人、奉仕の人、正義の人であるが寛容である人、等々、このようにクリスチャン像が勝手に美化されています。いずれもみな良いイメージであることから、クリスチャンに求められていることは、いわゆる聖人であることなのです。これは、クリスチャンなら一度はやってみようと挑戦したかもしれません。ところが、聖人にはなれないとすぐに挫折してしまうのです。どうして、信仰があって、聖書を学び、聖人になるべきだと思っているのに、うまくいかないのでしょう。

それは、聖書に書かれた通りにしてみようと思わないからです。例えば、今日の聖句です。これは、クリスチャンがこのようにするようにと勧告されています。ですから、この通りに誰もがしなければなりません。「気ままな者を戒め」ることは、大切です。教会を守り、クリスチャンをつまずかせてはならないので、気ままな者を戒めなければならいのですが、簡単ではありません。気ままな人は悪いと思っていません。そうゆう人を戒めることは大変難しいのです。「小心な者を励まし」ということも大事なことです。小心であるかどうかは外見では分かりづらいのです。愛が試されます。「弱い者を助け」ることは、正義の味方のようです。この世の中では弱い者は切り捨てられます。この人を助けても見返りはありません。貧乏籤を引くようなものです。だからこそ、クリスチャンしかしないことなのです。「すべての人に対して寛容でありなさい」これも自分にゆとりがあれば、できますが、忙し過ぎたり、ストレスで参っている時、困難な時、自分の思い通りにしたい時、悩んでいる時、と自分のことで精一杯となれば、途端に寛容ではいられなくなります。それに、問題は「すべての人に対して」と書かれていることです。大抵の人には、寛容にできるのですが、ある種の人にはそれができなくなります。このように、人間の力でなんとかしようとすれば、たちまち、跳ね返されてしまいます。ですから、クリスチャンはキリストに頼ります。そのためには、へりくだっていなければなりません。自分の力で何とかなるなどと思い上がっていると、失敗します。キリストは、決してたかぶらず、謙遜でした。キリストに倣いたいですね。