1月1日(水)
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは、祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、・・・」
Ⅰペテロ3:9、10
小説家や漫画家は知識が豊富で、人間についてよく知っています。私たちは自分のことで手一杯ですが、作家は何人もの登場人物を正確に創り出します。個性も背景も性格も育ちも、詳細にプロフィールを作り上げて行きます。聖書を読んでいる作家は多く、インスピレーションを刺激され、作品に結びつくことがあります。さて、それでは、今日のような聖句を読んだなら、どうするでしょうか。まず、祝福がなんであるかクリスチャンでなければ意味がわかりません。ましてや、後半の「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、・・・」に至っては、小説になりません。驚くのですが、多くの人は「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと」考えてもみないようです。目の前のことで精一杯であるのか、厳しい現実に夢を見ないということでしょうか。こうして、見てくると、今日の聖句を守るようなクリスチャンは変わった人と言われそうです。人間の常識が通用しない人、変人ということになるでしょうか。しかし、守っているクリスチャンは、この一見非常識に見えるやり方は、効果があることに気がつくでしょう。「悪を持って悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」と神様が命じているので、たとえ傷ついてしまっても、かえって祝福を与えるのです。神様は生きておられるので、その結果は一目瞭然です。このような経験へと導かれ、信仰の力で御言葉の通りにしてみると、驚くような良い結果になるのです。そして、気がつきます。自分は神様の祝福係なのだと。それで、機会があるたびに祝福するのです。信仰があれば、なんとかなります。これ以上、素晴らしい使命はありません。密かに、自分は主の祝福係だと、言ってみれば、嬉しさが込み上げてきます。
1月2日(木)
「恵深い主に感謝せよ
慈しみはとこしえに」と
主に贖われた人々は唱えよ。
詩篇107:1、2
私たちは、古い考え方から新しい考え方へと変えられました。言葉としては、「古い人」から「新しい人」へと変わったのです。しかし、この世に留まっていますから、周りの影響で古い考え方にいつの間にか戻ってしまっていることがあります。つまり、古い人」へと戻ってしまうということです。それは、信仰の後退につながりますから、要注意です。世界的に有名なスタンフォード大学では、新入生に「成長型マインドセット(拡張的知能観)」を教えています。心理学を役立てて社会で成功する人間を作っているのです。成功の段階を上っていくためには「リスクを取ること」「居心地のいい領域から抜け出すこと」「失敗に前向きであること」が、不可欠なのです(『スタンフォードの心理学講義人生がうまくいくシンプルなルール』、ケリー・マクゴニガル著12頁より)。つまり、失敗から学ぶことの重要性を教えています。日本の大学でも教えればいいと思いますが、心理学が人生に役立つと、教えているようには思えません。心理学が科学なので、一般人には受け入れやすいのでしょうが、難しいし、学ぶ機会自体があまりありません。しかし、誰でもが心理学以上に役立ち、簡単に学べるのは聖書です。心理学のような難しい専門用語は出てきますせん。しかも、たった一冊で全てをカバーしている脅威の本が聖書なのです。人類の歴史の中で最長の時間をかけて読み継がれてきた聖書は、信頼に値します。問題は、誰でもすぐに読むことができますが、フィルターがかかっているようで、スタンフォード大学の最先端の心理学を受講しなくても、聖書で学べるのです。興味深いのは、私たちの教授は聖霊なのです。私たちの理解者であって、真理の伝達者です。人間の悩みの第一は人間関係であると以前にも何度か言ってきました。それに対する対処の方法は、多くの心理学者によって研究されて、どうすればいいのか答えを得ています。しかし、簡単ではありません。その人の古い考え方を変えて、新しい考え方を身につけなければなりません。聖書の教えていることに似ています。しかし、こちらの方がずっと簡単です。こちらの方で重要なことは、御言葉と行動を伴う信仰です。例えば、イエス様の教えを守り行おうとすれば、「リスクを取ること」になります。それどころか、「居心地のいい領域から抜け出すこと」になります。さらには、「失敗に前向きであること」を実践しなければならなくなります。誰でも傷つきたくないし、失敗したくないのです。しかし、キリストの弟子たちは、そうではなかったのです。キリスト教が短時間に世界宗教と成長できたのは、成長型マインドセットを弟子たちが身につけたからです。しかも、大学で心理学を学ばずに、イエスの教えと福音を信じて、聖霊を受けて力を得たことが奇跡的成長を実現させたのです。今日も、仕組みは同じです。個人的な人間関係も仕事も宗教もよくすることができ、個人的に成長して、神の国の住民となるのです。今年は、このことを学んでみましょう。
1月3日(金)
完全な道について解き明かします。
いつ、あなたは、わたしを訪れてくださるのでしょうか。
わたしは家にあって、無垢な心をもって行き来します。
卑しいことを目の前に置かず
背く者の行いを憎み
まつわりつくことを許さず
曲がった心を退け
悪を知ることはありません。
隠れて友をそしる者は滅ぼし
傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
詩篇101:2~5
これは、ダビデの詩です。彼は、完全な道について解き明かすと言っています。もちろん、神様に対して生きる者の完全な道です。大変興味深いですね。その第一声が、「いつ、あなたは、わたしを訪れてくださるのでしょうか」という率直な問いかけです。つまり、完全な道は神様の訪れによるということでしょう。その次に、「わたしは家にあって、無垢な心をもって行き来します」と言います。これは、家にある時がその人の気を許した自然な姿が現れる時なので、誰もみていないなくても、無垢な心をもって行動しますというのです。裏表がない、誰かを恨んだり妬んだりしない、私利私欲が無い、神様に責められるところが無い状態です。聖書の中では、ノアがその通りに人でした。「ノアは、神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(創世記6:9)。ダビデは、ノアのような人を目指していたのでしょう。私たちは、どうでしょうか。目標を低く抑えていないでしょうか。クリスチャンの標準を下げていないでしょうか。今年は、聖書から自分のことを良く考えてみましょう。そして、今日のような御言葉を読んだなら、それを自分の標準にしましょう。意識しなければ、いつまでも低い標準のままで満足することができません。今年こそは、クリスチャン人生で自分の目標を立てて、クリスチャン標準に近づきましょう。
1月4日(土)
主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅び失せます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。
サムエル上2:9
聖徒は、主に召されて救いに入った人たちのことです。足を守られるとは、あなたの人生の歩みを主が守られるということです。残念なことにこの世にはいつの時代でも悪者がいます。主を恐れない人たちです。彼らは、自業自得に悪の世界で滅んで行くのです。聖書を読んで知ることは、この世界には始まりと終わりがあるということです。そうすると、世の終わりに、救われて天に入れらる人とそうでない人に分かれます。そのようなことを知って、天に入るための戦いがあることに気がつきます。それは、自分との戦いです。例えば、中学までは義務教育なので、誰でも何かの方法で卒業させられます。しかし、高校は義務教育ではないので、留年したり卒業できない人が出てきます。ちゃんと勉強しないと卒業できないのです。ここでは、勉強の戦いがあります。実は、天国に入るのにも基準があって、それに合格しないと入れないとすれば、大変ですね。あなたは、どう思いますか。クリスチャンの人たちの声を聞いていると、「今のままでは天国に入れない」と言う声が聞こえてきます。「もっと清くならなくては」「キリストのようにならなくては無理」と言う声はどこからも聞こえてきます。それは闘いになぞらえてみれば、勝たなければ天国へ入れない、と聞こえます。しかし、人間にそのような力があるのでしょうか。どう考えても、人は自分の力によっては勝てないのです。ただ、主イエスの恵みにすがるしかのぞみはありません。カッコよく自分の力で勝利して天国へ入りたいのですが、実際は主の御力に助けられて、憐れみによって天に入れるように、この世で勝利させていただけるのです。ですから、生きた信仰が必要です。生きたと言うのは、口先だけで信じていると言うのではなく、信じた通りに生きてみせることが大切なのです。聖霊がなんとかしてくれると自分の責任を果たさない人は、後で後悔します。今年は、前向きな信仰生活を送って、キリストに近づきたいですね。
1月5日(日)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
マタイ11:28
この有名な聖句がいったい何人の人を救ったか。もし、その数を正確に知ることができれば、驚くべき人数になると思います。救われたクリスチャンの証に、この聖句をあげる人が多いことからもわかります。そして、そのような証を聞くと、教会の前に大きくこの聖句を掲げておく必要があると確信します。私が、若い頃に奉仕していた教会の正面に掲示板があって、そこに聖句が掲げてありました。道行く人たちに見せるためです。その教会には、人の心に触れる優しい書を書かれる方がいて、その方が掲示板に掲げる聖句を書かれていました。その方が、次は聖書のどこを書きますか、と聞いてこられるのです。その度に、伝道になるふさわしい聖句を探してお伝えしていました。しかし、今考えると、今日の聖句一つで良かったのではないかと思えます。なぜなら、この聖句に救いの全てが書かれているからです。それは、全ての人が、疲れ、重荷を負っているからです。肉なる人は、休めないのです。毎日、同じように生きているのに、何か問題が出てきます。不意打ちをかけられるような事もあるので、油断できません。不思議なことに、イエス様との関係の中に入っている時だけ、心が軽くなり、平安があるのです。楽しいはずの人間関係でも、傷つく事もあります。タレントの田中みなみさんが、はじめ、嫌いな人や付き合いたくない人はどんどん切って行くことをしていたそうです。しかし、彼女は、そうやって切っていくと誰もいなくなってしまうことに気がつくのです。そこで、たまには嫌いな人ともお付き合いした方がいい、と言っていました。これは、知恵を得たということですね。実は、これが「休ませてあげます」と言われたことと内容が似ています。クリスチャンはイエス様がおられるので、大変心強いです。そして、イエス様が「私のところに来なさい」とおっしゃれば、すぐに行くでしょう。だから、休みを得ることができます。これは特権ですね。問題が解決している状態が休みでしょうから、イエス様のもとに行って、問題の解決を図るわけですね。こうしたことをクリスチャンには、課題のように主は次々に与えます。自分の決めた通りにできますが、その結果も自分で引き受けることになります。正解は聖書に書いてあります。イエス様の教えに従うと約束しているので、こうしたことが起こりますが、この訓練で初めてクリスチャンも成長できるのです。ただ、私たちには信仰=勇気が入りますね。主の願う通りに我が身に成りますように、とお祈りしたいですね。
1月6日(月)
あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。
主よ、あなたは従う人を祝福し
御旨のままに、盾となってお守りくださいます。
詩篇5:12、13
今日の詩篇は、主を信じる者の姿が描かれています。一体、主によってどのようにしていただけるのかがわかります。信仰者についても、特徴が明瞭です。まず、主を避けどころとしている。喜び祝っています。この人は永久に喜び歌います。御名を愛しています。だから、主に守られます。主によって喜び誇ります。主に従います。ですから、主に祝福されます。そして、極めつけは、主が盾となってお守りくださいます。このような人は、たとえ地上にあっても幸福です。羨ましいと思いますか。クリスチャン信仰がこの奇跡を実現するのです。あなたの信仰は圧倒的な主の愛に守られて生きることを可能にするのです。ですから、この世のことなど小さなことです。人があなたに何か悪意を向けてきたとしても、あなたは主に守られていますから、何も心配しなくていいのです。あなたは祝福されているので、喜びが日毎にあるでしょう。あなたは、心から主を褒め称え、その讃美が喜びを溢れさせるのです。あなたこそ、恵まれた人なのです。
1月7日(火)
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら。あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ8:31、32
今日の聖句には、二つの覚えておくべきことが書かれています。一つは、イエスの言葉にとどまるなら、・・・私の弟子です」という箇所です。私たちクリスチャンは、イエスの弟子であると自ら言うことがあります。そして、事実そうなのです。それは、何をもってそう言うことができるのかと問われれば、「イエスの言葉にとどまる」からだと答えます。二つ目は、「真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と言う箇所です。これは、イエスの御言葉にとどまり、弟子となったなら、それは、イエスを知ることになります。イエスを知ることは、知った者を自由にするのです。私たちの最大の問題は、罪人であることです。罪の解決は、イエスを信じることで起こります。それは、イエスの十字架の贖いを信じることで、実際に罪を赦され解放されます。そこに自由が生まれます。今までは、罪を犯さざるを得ない、という罪に対する自由がありませんでした。それは、罪の結果死ぬことが決まっていたので、死にも自由がなかったのです。それらの重荷をおろし、自由になれたのは、イエスが誰かを知り、信じたことによります。その信仰は、イエスの御言葉を聖霊の助けを得て悟ることにつながります。創造主が「光あれ」言われると光があった、という同じ原理が働きます。御言葉が自分を再創造して行くのです。
1月8日(水)
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩篇37:4
クリスチャンはよく祈ります。そして、祈りが聞かれる方法を知っています。どうやって知るかといえば、聖書に書いていあるのを見つけるからです。そして、その祈りは、聞かれるのです。私の祈りは聞かれないと嘆く人は、聖書にどのような祈りが聞かれるのかを調べてみると良いのです。今日の聖句のようにはっきり書かれています。そして、それを見つけることができると言うのは、聖書をよく読んでいる証拠です。聖書を義務で読む人がいますが、損な読み方です。そうではなくて、宝探しをしているような読み方が良いと思います。そうやって聖書を読んでいて、祈りの約束を見つける時の喜びは、大きなものです。今日の聖句のように、神様を正しく理解することでも神様を知ることができ、その結果は、「主をおのれの喜びとせよ」と言われることが実現します。不思議ですよね。ただ、主を自分の喜びとするだけで、そのような信仰をもっている人の願いをかなえてくださるのです。それほど、神様に近づくと言うことなのでしょう。
1月9日(木)
神は、私たちが御怒りに遭うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていたても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
Ⅰテサロニケ5:9~11
クリスチャンのあなたは、「神は・・・主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになった」とあるように、偶然救われたのではありません。あなたは主に知られていました。ですから、その救いにあずかって、信仰者の道を歩んでいるのは、主の救いの業を経験したからなので、確信を持って、喜んで生きてください。主は、私たちのために十字架の死を選びました。それこそが、罪人を救う唯一の道だったのでうす。主は命まで惜しまず与えられ、自らの命の代価で私たちの命を救ってくださいました。ですから、私たちは、主のものなのです。いつでもどこでも、主のものです。このことを忘れてはいけません。そして、そのことは、主とともに生きるために必要なことだったのです。そのように、あなたは特別な存在です。ですから、教会の兄弟姉妹を大切にし、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」それが主の教えです。
1月10日(金)
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。
ローマ6:14
私たちは、罪のことを考えます。クリスチャンになる前には意識したことのない罪を知ったのです。そして、クリスチャン生活で罪を犯すことを恐れ、注意していたのですが、それでも誘惑にあえば罪を犯す可能性があるのです。これでは、罪を知る前と変わっていないことになります。一体どうなっているのでしょうか。その答えるとなる聖句が今日の箇所です。クリスチャン以前には、私たちは罪人であって、それは罪に支配されていたので、罪を犯さざるを得なかったのです。しかし、福音に接し、聖霊の働きもあって、自分の罪を知ることとになりました。そして、その恐ろしい罪からの救いは、十字架のイエス・キリストによるしかないと知りました。そこで、私たちは洗礼を受ける決心をして、主イエス・キリストを信じる信仰の言い表しとして洗礼を受けたのです。ですから、私たちは、恵みで救われたと喜びました。そのような経緯を経て今のあなたがいます。そして、「罪はあなたがたを支配することがない」とはっきり書かれている今日の聖句を目にしています。その意味がすぐに理解できないことをパウロも察して、「なぜなら」と続けます。答えは、「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるのです」とあります。「律法の下」とは、律法を遵守しなければならない社会で生きることです。イスラエルの民の状況ですね。そこには、イエス・キリストの救いはありません。しかし、私たちは、律法に照らせば、罪人でしかありませんでした。それなのに、イエス・キリストの憐れみは、私たちを信じる信仰だけで救ってくださったのです。私たちは、何もしていないので、恵みによって救われたということになります。そして、重要なことは、この救ってくださったキリストに従って生きて行くことを恵みの下にあるというのです。つまり、自分勝手にキリストから離れていけば、昔の罪人へと戻って行くことになるのです。ですから、自分のために生きるのか、それとも神のため、キリストのために生きて行くのか、その決断と選びが私たちに求められています。それも信仰なのです。
1月11日(土)
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとり言います。誰でも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
ローマ12:3
何でも知っているというのは、思うべき限度を越えて思い上がっていることにはならいでしょうか。どんなに優れていても、人間には限界があります。神様との違いです。神様に限界はありません。何でも知りたいと思うのは、人間の特性でしょう。しかし、何でも知っているという思い上がりは、人間にとって良い結果をもたらさないのです。信仰に入ると、クリスチャンは真の知識はイエス・キリストであることを知り、イエス・キリストを知ろうとします。しかし、学校の勉強のように知ることはできません。信仰によるからです。高慢なままではキリストに近づくことができません。へりくだることを学ばなければなりません。キリストが謙遜であったように、私たちもいかに謙遜になるかが測られます。私たちは、信仰に成長することができます。信仰を上手に使うことができれば、成長します。しかし、昔のまま自分の力に頼って生きているなら、何十年経っても信仰に成長することはありません。神様は生きておられます。あなたをご覧になっています。あなたの言動だけではなく、心の中まで見ているのです。あなたは、ちょうど良いだけの信仰を神様から分け与えていただいたのです。ですから、その信仰を大切にするのです。その信仰は、あなたに慎み深い考え方を求めます。人と信仰を比べるべきではありません。あなたが見ているのはイエス・キリストです。信仰でしか見ることができません。あなたが主を畏れるなら、あなたは自分に与えられた信仰で生き始めます。この世の小さなことなど気にならなくなります。人の言動でいちいち振り回される愚かさから引き離され、主がどう思われるか、主の御心は何か、と主への関心があなたの全てになります。これが慎み深い考え方でもあります。己を高めて他の兄弟姉妹と競おうとしたり、兄弟姉妹をうらやんだり、足を引っ張ったりとか、この世の人のようであってはなりません。あなたは、もっと信仰の力を信頼して、主に近づくことをまずは考えてみることです。
1月12日(日)
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
ヘブル6:11、12
大変興味深いのは、聖書の信仰の偉人たちは、雲の上の存在ではなく、クリスチャンは彼らの仲間なのです。つまり、皆様は神様の導きの中で、時に試みられることもあるでしょうが、大変期待され、そして天の御国へ入るための旅路を歩んでいるのです。それは、「私たちの希望」と言われ、疑うことなく、十分な確信を持つように切望されているのです。それは、皆さんが聖書を手にしていること、聖書を読んでいること、信仰が与えられ、その信仰の道で忍耐を訓練されていること、ヘブル11章に出てくる聖書の登場人物たちの信仰者の模範に倣って、「約束のものを相続するあの人たちに」続いて行くのです。皆さんも聖書の登場人物のように、この世の人たちとは、同じように見えても異なっています。神様を知り、イエス様を主と認め、祈ることができて、信仰によって生きています。聖書の偉人たちが特別に見えるかもしれませんが、実は、皆さんも同じなのです。信仰によって生きるということは、すごいことなのです。ですから、この世のことで惑わされないでください。皆さんの通る道は一つだからです。信心深く生きることにしましょう。
1月13日(月)
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
ヨシュア1:9
イエス・キリストを信じるあなたは、今日の聖句をどのように読むでしょうか。あなたは、主に忠実でいたいと思っているでしょう。ですから、「あなたに命じた」とあれば、何を命じられたのか、真剣に確かめるでしょう。その答えは、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」というものです。ヨシュア記そのものが、いよいよ約束の地、カナンに入って行き、先住民と戦い、追い払うことを描いています。ですから、恐れてはならないのです。私たちも、この世で生きていれば、何かしらの戦いはあります。神様に祈らなければならないほど、心配や不安が襲ってくるような時です。その時に、主は今日の聖句と同じことをあなたに語るでしょう。ですから、あなたは「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるから」という御言葉を知ることになります。本当に御言葉の通りでしたと安堵し、喜びと感謝が湧いてくるでしょう。神様より強い方は他にいません。神様が一緒なら、どんな困難も乗り越えることができます。心配事も悩み事も、神様がともにいてくだされば、難なく解決します。そのことを主はあなたにも体験してほしいのです。一人で心細いと思った時も、実は主があなたと共にいてくださると信じてください。人生、雄々しく生きたいですね。強く生きましょう。
1月14日(火)
私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。
詩篇119:59
歳を取ったら暇になると思っていましたが、そうではないことに驚いています。私たち人間は、年相応に生きて行くのですが、それまでの生き方がそのまま反映しています。そのことは誰も避けられません。今日の聖句を読んでみると、クリスチャンには、たとえ人生の大半を過ごしてしまっても、いまだより良い人生を生きることができるのです。その秘訣が今日の御言葉にあります。この詩篇記者の素晴らしい点は、自分の生きてきた人生を立ち止まり、反省していることです。いや、それだけでなく、そこから惰性で生きることをせずに、神様のさとしの方へ人生のかじを切ったのです。つまり、主の御心にかなう人生を歩む決心をしているのです。私たちは、幸いにもすでにクリスチャンですから、その生き方も信仰によったはずです。その信仰が頼りなかったとしても、教会から離れずに、信仰を保ってきたのです。ですから、神様も決して見捨てることなく、変わらぬ愛を持って、自分に関わってこられたはずです。そのお恵みがなかれば、もっと悲惨な人生になっていたでしょう。若い方々は、希望が満ちています。自分の思い通りに生きてきたとしても、キリストを信じて、御言葉に学び、祈りを通して交わりを絶やさず、いつも喜んでいるなら、その人生は意味のある、良いものとなります。もし、歳を取っていて、キリストを信じてクリスチャンとなったのなら、その救いに感謝することです。人生の有終の美を飾ることはできます。今は、人生100歳時代と言われていますから、せいぜい元気で、残された能力と気力を主に向けて、クリスチャンのために備えられた主のご計画の通りに生きて、ゴールを目指したいと思います。そのためにも、自分勝手に生きるのはやめて、主のさとしの方へと足を向けることにしましょう。
1月15日(水)
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たこのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
Ⅰコリント2:9
あなたは想像力がたくましいだろうか。天国のことを考えたり想像してみたことがあるだろうか。小学6年生の頃、教頭先生が授業をすることになって、大変面白い話をしてくださいました。それは、江戸時代の庶民が地獄めぐりをするというお話です。クラス中が大笑いをしたり、ハラハラドキドキして、地獄とはどんな所だろうと想像力を膨らませたものです。その話があまりに面白かったので、覚えてしまい、母親や色々な人に話しました。母は、私が映画でも初めから全部覚えていて、それを全部話すので、面倒になり、途中で「もういい」ということになってしまうのです。ですから、ようりょうよく話すようにと注意されるのですが、自分にとっては、全部があって面白いので、話をはっしょって面白いところだけ話すということがどうにもしたくないのです。このことは、大人になって、牧師になると役に立つのかといえば、逆で、世の人はみな、要点は何か、と大切なところだけ教えろと思っているようで、聖書はこんなに面白いのに、と残念に思うわけです。しかも、この聖書箇所はこのように理解しなければならない、答えは一つであると決められていないので、自由に考えることができるのも素晴らしいのです。体力気力があれば、何時間でも聖書のお話をしたいぐらいなのですが、現代人は忙しいので、手っ取り早く3分以内で教えてくれ、というのは流石に残念に思うわけです。さて、今日の聖句を読んでみると、すごいぞ!!と歓声を上げたくなる箇所なのです。あなたがどんなに想像力が秀でていても、人間の想像能力を超えている、この世には存在しない未知なる領域のお話です。黙示録を読んで、新天新地の話を調べても、今日の御言葉があるので、見たこともない、聞いたことも、心に浮かんだこともない、素晴らしいものを神様を愛する者のために備えているというのです。つまり、天国へ行っても知っているというものがないのです。想像を絶する新しい世界に皆さんは入ることになっているのです。この世に存在するものは、すべて朽ちて行くのです。ところが、来たるべき新しい世は永遠に耐える世界なのです。知らない世界です。でも、救われて天国へ行くと、言った時にそれはこの世とは比べ物にならないぐらい素晴らしいところだろうとは予想しています。ところが、実際には、それをはるかに凌ぐものなのです。何もかもに驚き、有頂天になるでしょう。神様が備えられた新天新地は、地上では想像が追いつかないのです。それほどの最上のものがあなたのために天国に備えられていることを覚えていてください。嬉しいことです。
1月16日(木)
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。
アーメン。
エペソ3:20、21
クリスチャンになって本当に良かったと、思うことがあると思います。しかし、滅多にそのように思っていないかもしれません。それは、実にもったいないことです。神様は私たちのことを誰よりもご存知で、しかも、神の子としてご覧になるので、どうしても、可愛い子供になんでも買ってあげたい父親に似ています。ですから、祈り求めてみると、その願いがかなうことはよくあります。それどころか、聖句に書かれている通りに、私たちの願いよりも豊かに施すことができるので、大抵は過分に与えられるのです。それだから、クリスチャンは困ることがないのです。それでも、困るのは、そうでもしないとなかなか祈らないから、といった理由になることがしばしばです。今日の聖句はパウロの祈りになっていますが、クリスチャンなら誰でも、この通りに祈ると良いのです。古くから、公に教会で祈られてきた正しい祈りです。
1月17日(金)
主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。
Ⅱペトロ1:4a
クリスチャンの特権は完全なのです。それでも、その特権を十分に理解していないかもしれません。主イエスは、私たちに何をしてくださったのか、正しい理解が不可欠です。そうでないと、なんとなく洗礼を受け、なんとなくクリスチャンをやっています、という奇妙なことになります。今日の聖句を読んでみると、主イエスは、人となられましたが、「ご自分の持つ神の力によって」、つまり、神でなければできないことを主イエスが私たちにしてくださったというのです。それは、「命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださ」ったということです。つまり、人間としての自分の力では到底達することのできない、天国へ入るための標準、それは完全な義であるイエス・キリストに似た者となることです。それは、自然に生まれてきた人間が到達できるものではありません。どんなに頑張っても、キリストの足元にも及ばないのです。ですから、私たちが清い生活をしようとしても、そう簡単にはうまくいかないのです。しかし、主イエスがお与えくださる「命と信心とにかかわるすべてのもの」を私たちがいただいたのだろか。もし、頂いた感じがしない、ということなら、今すぐにも反省して悔い改めるべきです。聖書に書かれたことは、信仰者に成就します。なぜなら、聖書の約束なので、信じた人たちにとっては、主の御心が起こります。まさに、「命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいます。」とある通りになります。これがなければ、信仰者とは名ばかりの者となってしまいます。でも、あなたは、こうした主からの真実を知り、理解し、預言の成就を実現するのです。
1月18日(土)
あなたがたの中に知恵のかけた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ヤコブ1:5
時代小説で一位になったものを読んでみると、面白いことに、時代小説のヒーローは大体が剣の達人で強い男です。ところが、一位になった本のヒーローは剣は習っても強くなれず、からっきしなのですが、彼の武器は知恵なのです。なぜ、弱いけど知恵がある男に人気が出たかと言えば、北町奉行所の同心なのですが、事務方で上役にも楯突いて、決して理不尽なパワハラや嫉妬からの嫌がらせなど、払いのけ、相手を論破し、さらに知恵を持って、たとえ相手が上役だろうが相手の悪巧みを暴き出し、悪をくじき、組織を守り、弱い者が犠牲とならないように配慮し、と胸がすくような活躍をして、会社や役所で苦労しているサラリーマンの溜飲を下げるようなところが人気の秘密だろうと思います。これを見ていると、人間の嫉妬心や党派心は醜いものです。それなのに、自分の恥ずかしいことに気が付かない自己中心の考えが、他人を害していく原因になっていることがわかります。それに対して、どう対抗すれば己を守れるのか、いつもやられぱなしでいいのか、悪意をどうかわすのか、これらはすべて知恵があるかないかで決まります。知恵がないと、本当に苦労することになります。ですが、聖書には、知恵がなければ、神様にお願いしなさい、と教えています。ただ単に、やられたらやり返す、というのならそれはケンカです。最も愚かな者がやることです。そうではなく、実は知恵は、困った問題を円満に解決する方法を得ることなのです。多くの不幸は、知恵がないことによります。知恵がないと、感情のままに振る舞うので、後でものすごく後悔することになります。そうなる前に、神様に知恵をいただけるように祈りましょう。そして、知恵を得て、周りの人たちが間違って滅ばないように、神様の正義を実現することです。クリスチャンは、愛と知恵を武器にして平和を作り出す者なのです。
1月19日(日)
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マルコ11:24
私たちは、特技と言っていいほど、肝心なことを忘れてしまいます。そこで、忘れないで済むように、いつもの引用箇所よりは短く、大切なところを今日の聖句としました。祈りの極意を知っているという人や、祈りの達人と言われるような人は、この御言葉を実践して、自分のものとした人のことです。罪の世界に生きている人にとっては、これほど御言葉の実践が難しいのです。それと、もう一つは、自分の欲望が祈りとなってそれがかなうともっと深刻な問題が生じるので、それを防ぐために、信仰の祈りであるか確かめられているかもしれません。いずれにしろ、聖書に書かれた祈りなので、クリスチャンには信仰でよく考えてから、ぜひ実際に祈って欲しいのです。自分の欲かどうかわからないという人には、それならば、自分のことではなく貧しい人や弱い人、困っている人、病気の人、差別されている人、深く心が傷ついている人、など、身近に助けを必要としている人を見つけて祈れば良いでしょう。ただ、それで消極的になって祈りの達人になれるのに、やめてしまっては本末転倒です。ですから、幼子のように主を信じて自分が祈るべきことを考えて、祈ってみてください。祈りの奥義に触れることがきっとできるでしょう。
1月20日(月)
まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
詩篇18:31、32
祈りは力があります。そして、誰でも祈ることができます。それだけに、力ある祈りをどうすればできるのか、知りたいと思う人は少なくありません。私たちは、一番確実な方法として聖書から知ることができます。有名な聖句としては、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)があります。つまり、聖霊は三位一体の神なので、神から力を受けることができることを教えています。さらに、皆さんは、神を信じているので、自由に神に祈れます。そして、願うこともできます。その神がどれほどの力を持っているかで受ける力が変わるのです。ですから、本物の神は、無限の力に満ち、岩と表現される不動の力なのです。この神があなたに力を帯びさせて、あなたの人生を完全にされるのです。ですから、神を信じなさい。神を知ることを願いなさい。そして、聖霊を求めて祈り、力を受けるのです。そうすれば、たとえ困難な道が迫ってきても、自分に自信を持ってそこを確かな道として歩むことができるのです。神を信じていれば、道は開かれます。
1月21日(火)
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
詩篇1:1~3
詩編は、暗唱しやすので暗記している人たちがいます。しかし、詩編150篇全てを覚えている人は稀でしょう。私がまだクリスチャンになるかならないかという19歳ぐらいの頃に、忘れることのできないことがありました。それは、だいぶ年上のカレッジの先輩Mさんと偶然バスで一緒になりました。Mさんは後に大学で教える英語の先生になる人ですが、そのMさんが私に、「佐久間さん、退屈なので詩編を一篇から順番に交代で暗唱しませんか」と言われたのです。こんなことを皆さんは言われたことがありますか。もし、言われたら、「はい、やりましょう」と言ったでしょうか。私は、まだ聖書の初心者でしたから、「私には無理です」と言ったと思います。私が、クリスチャンになる頃には、このような変わった人たちが周りにいました。九州大学を出て神学校に来たAさんは、聖書を何冊も持っていて、それが全部赤線が引かれていて真っ赤になっているのです。ブラームスが好きなAさんは、ラブレターも聖書で書きます。雅歌がなぜ聖書に入っているのか、そのラブレターを読ませていただいてわかりました。すごい人がいるものです。教会で、私は趣味がないと嘆く方が時々いますが、それなら、詩編を全部暗記したらどうだろう、と勧めたくなります。たとえ、一篇でも覚えれば、ほめてもらえると思います。そして、覚えた聖句は、いつでも自由に唱えることができます。そうすれば、御言葉の御力を体験できるでしょう。今年の目標に詩編の暗唱を入れてみたらどうでしょうか。きっと良かったと思えるでしょう。
1月22日(水)
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
ローマ15:13
クリスチャンは、それだけで望みがあります。立派な行いが伴ばより良いのでしょうが、現実には、私たちはありのままでイエス様に救われたのですから、体裁良く繕っても仕方ないのです。それよりは、自分らしく自然体で生きていれば十分です。この世で生きる時に感じる息苦しさは、多分に人間関係から生じてきます。ストレスを感じるというわけです。しかし、クリスチャンには、特別な約束があるのです。それが、今日の御言葉です。よく読んでみてください。もうストレスなど消えてありません。この祈りは、パウロのものですが、聖書に置かれているのですから聖霊の働きです。そこで、これは読んだ読者次第で、この通りにもなり、また、全く何も起こらないことにもなります。それは、「信仰による」とあるからです。つべこべ言わずに信じなさい!と言いたくなりますが、信仰によってこの通りだったと喜べる方が幸せです。そして、自分のために誰かがこのように祈ってくれるとわかれば、自分のために自分でこの祈りをすることだってできます。また、あなたの心に浮かぶ兄弟姉妹のためにも、あなたがこの祈りを祈ってあげることができます。あなたは、この祈りには力があり、信じたらこの通りになると、理解できます。ですから、この祈りの力を自分のため、それから、祈るように聖霊が心に思い浮かばせてくださる人のためにも祈るのです。こうして、幸福の輪が広がるのなら、ぜひ祈りたいと思うはずです。どうですか。あなたも、祈ってみませんか。その時には、「あなたがたを」のところに、言い換えて、あなたの名前を、あるいは心に浮かんだ人の名前を入れて祈るのです。早速、あなたのお名前を入れて、祈ってください。心に馴染むまで、ゆっくり、繰り返し祈ってみましょう。