3月1日(土)
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ローマ4:5
「何の働きもない者が」。私たちクリスチャンは、この意味を知っています。これは、決してこの世で一生懸命に働き、生きてきたことを否定しているわけではありません。しかし、人の救いを考える時に、自分を救うことのできる働きとは何だろうと考えてみれば、すぐにわかります。そのようなものは何もないのです。もし、これこれの良いことをしてきたと誇っても、それで本当に自分を救うことができるのでしょうか。足りないと気づけないのは、本当に恐ろしいことです。高慢であることを自らが気がつかずに誇示しているのです。そして、本当の意味で自分の罪を知るなら、救われるための「何の働きもない者」と自分を呼んでいるでしょう。人は必ず神様に裁かれるのです。その時になって、自分には「何の働きもない」と知るのでは遅すぎるのです。絶望しかありません。しかし、神様を信じる人が救われるというので、肝心なことを忘れてしまうのですが、それが「不敬虔な者を義と認めてくださる方」という御言葉です。自分が神様に罪を犯し続けていたということは、神様に対して不敬虔であったということです。恩知らず、裏切り者、神様に背を向け悪さをする者、肉の中に罪を宿し、悪魔のそそのかしにいつでも欲が負け罪を犯し続ける者が自分であったのです。しかし、不思議なことに、そのような不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じたのです。この信仰が義と認められるのです。とても単純です。すなわち、誰でもすぐに救われるということです。
3月2日(日)
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ローマ10:11
イエス・キリストを信じているはずの人間が、自分はダメだとか、自分を勝手に裁いてしまうことがあります。確かに、私たちは完璧ではないので、もっとうまくやれるはずだったと後悔することはあります。それだけでなく、失敗することも人間の特性なのです。ですから、どんなに素晴らしい人でも失敗談があります。人格者と呼ばれるような人になりたくても、そう簡単なことではありません。ですから、神様がお造りになった自分であればいいので、人と比べずに、何度失敗してもへこたれずに、反省はしても落ち込まないようにすればいいのです。失敗した時に、失敗にばかり気を取られている人は恒常心のない人です。例えば、スポーツ競技者は、良い記録が出るまで何度も挑戦しますが、一回一回何がいけなかったか、考えています。どうすれば、うまくいっていたのか頭の中で考えてこうすれば良いという上手くいく姿を考えているのです。そうであれば、目標の記録に届かない一回一回のトライは、記録に近づくための手段になるのです。私たちも、全てをうまくやれませんが、これだけはというものはあるはずです。それをいちいち失敗などと考えずに、目指す最高の結果に近づくための方法にしか過ぎないと考えるのです。だから、失敗した事に心を向けていれば、いつまで経っても成功できません。そうではなく、どこをなおせば良いのか考えればいいのです。気づいたことから、次にうまくやるにはどうすればいいのか考えてみるのです。一流の人はそうやっているのです。それでも、緊張してしまってうまくいかない、という人は、今日の聖句を自分のものにするのです。自分の力だけで頑張らなくてもいいのです。イエス様を信頼しましょう。何しろ、「失望させられることがない」のですから。これ以上心強いことはありませんね。
3月3日(月)
今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証のことばのゆえに彼らに打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
黙示12:10、11
「善悪の大争闘」と言われてきましたが、どんな闘いもいつかわ終わりを迎えます。神にとっては、それがいつかすでに見えています。神の深いお考えによって、罪の発生原因、そして、罪の性質、罪の結果、罪の再発を防ぐにはどうすれば良いのか、それを確かめる歴史となりました。そして、結末の日も決まっているのです。私たちは、すでにその終わりの時代に生きていますが、福音は広がっているとは思えません。この世の貧しい者、差別されている者、将来に希望を持てない人たちは、民主主義を利用して、逆襲に転じているのです。もともと弱者なので、どうなるかはわかりませんが、同じことの繰り返しで、人間は何も学ぼうとしないので、これ以上の時をかける必要がないように見えます。心理学者のサタンは、人間観察を長年続け、必勝法を見つけています。そして、誘惑して罪を犯させておいて、それを神に告発するわけです。しかし、これに打ち勝つ方法が一つだけあります。それが、小羊の血です。十字架の力は、想像を遥かに超えていて、全ての人の罪を贖えるのです。さらに、クリスチャンは、信仰によって生きると決めていますから、神の恵みを知っています。その恵みの大きさ、多さを味わうと、賛美が尽きません。主を賛美すると平安が戻ってきます。彼らは、「自分たちの証のことばゆえに彼れらに打ち勝った」と聖書に書いてあります。主を証ししていますか。証できる経験をしているでしょうか。クリスチャンは聖書を読み、祈り、主と共に生きるのです。イエスの中に生きているのです。ですから、証があるのです。私たちもイエスを誇り、賛美して、今日も元気に生きていきましょう。
3月4日(火)
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ヤコブ1:5
ソロモンのように生まれながらに知恵のある人でさえ、神に願いをかなえてあげようと言われれば知恵を求めたといいます。そのために、人類の歴史で最も知恵のある人として有名になりました。ところが、そのような話を聞いて、知恵の無い者は、良いソロモンのように知恵を求めようとはならないのです。知恵の価値がわからないからです。子供の頃に読んだ本には三つの願いをかなえる話し、のように願いをかなえることを題材にしたお話がありました。そんな話を読んだ後には、自分ならどんな願いをするだろう、と一生懸命に考えていました。夜寝る時にも、そんなことを考えるのは楽しいことでした。ただ、どのように願えば最大限に得をするだろうか、といったことを考えて夢中になっていたのです。お金だと使えば無くなるので、もっと良いもの、と考えてついにデパートをもらおうとなりました。デパートならおもちゃだけでなく、なんでもあるからです。子供らしい考えですね。しかし、その時に、誰かが、今日の聖句を教えてくれていたらどうでしょう。人生はすっかり変わっていたでしょう。どんなに困った事になって、窮地に陥っても、知恵を使えば、大逆転で助かるでしょう。地球温暖化問題も知恵によって解決できるでしょう。では、罪の問題はどうでしょうか。これは、イエス様の十字架以外に解決の道はなかったのでしょう。
3月5日(水)
私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
エレミヤ17:14
エレミヤの主への信頼は絶大です。疑いがありません。ですから、彼は癒され、救われます。彼にとっては、人生の全てが主への賛美に満ちていたのです。だから、試練にも耐えることができました。苦しさもしのげました。私たちは、こうした信仰の先人に倣うべきです。言葉だけでなく、信仰が伴わなければなりませんが、クリスチャンなら心配いりません。日々の経験の中で主への信頼が増していくからです。祈りが聞かれることも、告白した信仰が実を結ぶと知れば、信仰は育って行きます。ですから、まず初めの主を信じることから始めましょう。それは、病気の人なら、「私をいやしてください」ということは決して難しくありません。しかし、信仰は「そうすれば、私はいえましょう」と言えるのです。万事を同じようにすれば、信仰の達人になれます。あなたの信仰があなたの言葉となります。あなたが、主を賛美するなら、幸福な人生が続くでしょう。
3月6日(木)
しかし、定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるのためです。
ガラテヤ4:4、5
聖書は、大切なことはすべて説明しているものです。御子イエスが、この地上に来た時には、時が定まっていたことがわかります。しかも、人間としてマリアから生まれることもご計画だったのです。さらに、イエスを「律法の下にある者となさいました」と説明しています。その理由も次に書かれていました。「これは律法の下にある者を贖い出すため」でした。人間の知恵では到底理解できないことですが、律法の原語には定冠詞がありません。そこで、ここからこの救いはイスラエルの民ばかりか、異邦人まで含まれる救いである事になります。さらに、贖いは二つの側面があり、一つは律法に対する隷属からの救いと、さらにもう一つは、「私たちが子としての身分を受けるようになる」事です。これは、驚くべきことに、神の家族における子としての完全な地位に復帰させられているわけす。まるで、パウロは御子イエスが、神の子を探して獲得するために派遣されたのだと言おうとしているようです。いずれにしろ、私たちが信仰を持って理解しておきたい事です。
3月7日(金)
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
テトス3:5~7
キリスト教は難しい宗教ではありません。イエス・キリストを信じて救われる宗教です。しかし、二千年のキリスト教の歴史の中で大きく変わってしまったことがありました。それは、皆さんもご存知のパウロが小アジアで伝道し、初代の教会が出来てきた使徒言行録の時代はよかったのですが、その後、キリスト教がローマ帝国の国教となり、一気に信徒数が増大してしまいます。それまでは、使徒たちが水で洗礼を授けた後で、頭に手を置き、聖霊のバプテスマを行っていたのですが、時代が経つにつれそれが出来なくなってきたのです。初期には、監督や司教が水でバプテスマを施し、その後で手を置いていたことは歴史家も認めています。しかし、洗礼者数が増大し、同じようには出来なくなってしまったのです。さらに、分担して行うことがはかられました。水でバプテスマを施すのは教区の聖職者が行い、按手はしだいに司教として知られるようになった監督が巡回して行うようになったのです(『栄に満ちた喜び』ロイドジョンズより)。こうして、少しずつ、ローマ・カトリック時代になると共に変遷していったのです。「堅信礼」がカトリック教会や英国国教会やルーテル教会にあることがその名残なのです。このように人間のすることは自分に都合よくするので、聖書に忠実にと言っても、自分に都合よく解釈したり、自分の体験や考えに合わせて聖書の理解を曲げるのです。なぜ、聖書をよく読むように言われるのかがわかりますね。聖書に書かれた通りに進んでいるかどうか、気をつけていなければならないからです。特に救いに直接関わる聖霊については、気をつけていましょう。
3月8日(土)
主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。
詩篇138:8
クリスチャンになって良かったことばかりですが、私たちの人生がこれからどうなっていくのか、実際誰もわからないのですが、悲観的な観測を述べる識者は結構います。地球の環境破壊がもたらす災、少子化、景気の低迷、超高齢化社会の負担の大きさ、並べていけばキリがありません。しかし、それでどうなるかは、これからのことなので、変えることができます。初めから悲観してしまえば、まだどうなるかわからないことが既に決まってしまったかのようにあきらめてしまいます。愚かですよね。もし、これからのことを考えて心配している人がいれば、今日の聖句を読んで欲しいのです。あなたの主は、あなたに関わる全てのことを、成し遂げてくださいます。なのに、何を心配しているのですか。これほどの保証は他にありません。あなたの神はこれほど素晴らしいお方です。ですから、主の恵みはとこしえにあるのです。たとえこの地球が滅んでしまっても、その前に救出があります。安全な天国で恵みを味わうのです。これほどの特典を保証されているのですから、不信仰に陥らないで、普通に信仰生活を送れば良いのです。神様から離れずに、むしろ、近づくことを考えていれば大丈夫です。恵みの業を知ったらなら讃美することも忘れてはいけません。主に感謝する人になりましょう。
3月9日(日)
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
ルカ11:13
主の祈りを覚えた時に、神様を「天の父」と呼ぶことを知る人は少なくなりません。確かに、牧師から神の子になる話をされた人もいるでしょうが、自分で神様を「天のお父様」などと呼んでみると、初めてその実感が湧いてくるでしょう。イエス様が教えてくださったことが、私たちの救いのために必要なことであると理解するようになると、今日の教えも重要になってきます。イエス様は弟子たちの心を見抜いて、天の父と呼んでいいことを理解させますが、それでも、聖霊を求めて得られるとは思っていなかったようです。それで、誰でもが理解できるように、この世の悪人でも自分の子供には良い物を与えることを納得させ、その上で、あなたがたの天の父は、あなたが求めるときに、どうして聖霊をくださらないことがあるだろうか、と言われたのです。つまり、絶対に天のお父さんは、あなたに聖霊をくださるということです。こうなると、神の子供として、聖霊を求めて、信仰で受け取ればいいということになります。まず、自分が本当に神の子供であるのか確信が持てないという人や自分が神の子供であることを本当に信じているかが心配な人もいるでしょう。逆に、初めっから、聖書に書いてあるので、すぐに自分を神の子供だと信じている人もいます。そのような人は、祈りでも天のお父さんと親しみを込めて祈っています。それで、何十年も続けていますが、神様から怒られたり、罰せられるようなことは全くありませんでした。ですから、恐れることなく、天のお父さんと祈ることに挑戦することは良いと思います。この件については、また別の日に聖句を使って説明してみましょう。
3月10日(月)
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるためです。
Ⅰテサロニケ5:9、10
クリスチャンの皆さんは、もっと喜ぶべきです。自分が一体どうなって行くのか分からない人たちと違い、クリスチャンはイエス・キリストと共に生きて行くことができるようになっています。それは、イエス・キリストが今どこに居られるかが分かれば明らかですが、主イエスは天国にいます。つまり、キリストを信じた人たちは、天国へ行けるということです。それだけではありません。「目覚めていても」これは生きている内はキリストと共の生きるのですから、何一つ心配することが無いということです。これ以上の心強いことはありません。また、「眠っていても」は、夜の間も、という意味と死んだ後もという両方の意味があります。そのどちらであっても、主イエスがおられれば、何も恐れることはありません。それよりも恵みの中に置かれていると考えることが肝心です。これほどの心強い励ましはありません。しかし、このことが実現するために罪の問題を解決しなければなりませんでした。それは、私たちにはできないことで、ただ、主イエス・キリストの恵みによらなければ、誰一人救われないのです。その恵みとは、神の子イエスの命を犠牲にすることで、信じる者全ての命を救うことができることを意味しています。しかも、私たちは義人ではなく罪人だったのです。ここに主の愛があります。天の父も御子イエスも愛が大きくて、私たちが滅んでいくことを惜しんだのです。ですから、主イエスが十字架で私たちのために死んでくださったのです。だから、今はクリスチャンになって安心して生きていけるのです。
3月11日(火)
あなたは救いの盾をわたしに授け
右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り
わたしを強い者としてくださる。
詩篇18:36
あなたはご自分の神をよく理解するべきです。自分で勝手に神はこうだと決めつけないことです。あなたもすでに体験している通り、神はあなたを助けてくださいます。不思議な方法で神がわたしを助けてくださったと分かるようにしてくださいます。しかし、その時は喜んでも、すぐに次の試練が襲って来れば、たちまち弱さをさらけ出して、神を忘れた人のように弱くなってしまいます。それでも、神はあなたを助けてくださいますが、その時の喜びは、次の試練で簡単に打ちのめされてしまうでしょう。どうして、こうなのでしょうか。それは、聖書の御言葉の裏付けがないからです。聖書に何と書いてあるか、そこに書かれているのなら、それは真実で、その通りになるのです。このように、人は聖書の御言葉によってしか、なかなか試練でも恐れずに立ち向かう信仰を表すことができないのです。ですから、今日のような御言葉を覚えておくのです。そして、次の試練には、この御言葉を口にして、主はわたしを強い者にしてくださったと、宣言するのです。自分に言い聞かせるように、繰り返しましょう。主に守られているのです。あなたの神は、わざわざあなたの元へと降り、あなたを勝利者にしてくださいます。それほど、神に愛されていることを覚えていてください。
3月12日(水)
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住み。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。」
イザヤ57:15、16
クリスチャンの模範的な人とは、「心砕かれて、へりくだった人」と言えば間違ってはいません。クリスチャンになってから、謙遜であれと言われ続け、謙遜が美徳であると思ってしまいました。しかし、それは、自分の努力で人に見せるためのもので、本物ではないかもしれません。聖書に、「心砕かれ」とあることにヒントがあります。長く生きていれば、色々な人に出会いますが、それが危険を運んでくるのです。世の中には、実に多彩な人たちがいるのです。その中には、難しい人もいます。人がいいと見透かされると、ずうずうしく土足で入り込んでくる厚かましい人もいます。その人の思い通りにならないと、突然敵に回って、攻撃を仕掛けてくる人もいます。とにかく、今までの人生で会ったことのない人種の人たちがいます。ですから、誰とも仲良く上手くやっていこうと思っても、そうそう容易いことではないのです。しかし、神様を信じているのに、そのような人が隣に来るというのは、きっと意味があります。そこで、祈りの日々が始まります。しかし、大抵は、自分の小さな器を砕いて、もっと大きな器になるようにと人生を広げ、その人をもっと神様の御目にかなうように成長させてくださるための試練であるのです。日本でも、「あの人はよく練られた人物だ」とか、「人間ができている」とか、「信頼できる人物だ」と評価されているような人は、第一印象が「物腰の低い人」謙遜な印象を与えているのですが、人間が大きいので、卑屈さはありません。クリスチャンは、人と自分を比べない人になろうとしています。イエス様と共に天国への旅をしていると考えるので、どんな時にもへりくだっています。神様に心砕かれたので、自己を誇ることがありません。キリストに倣う者と意識しているので、この世の人の考え方はしなくなります。霊も魂も関係していますが、神様はいたずらに人を懲らしめることはしないのです。