🔶説教題:完全な者
🔶説教者:佐久間典臣
🔶聖 句:マタイ5:33〜48
古代のイスラエルが驚くほどの宗教国家であったことは、当時の人々の生活が律法に根ざしていたことでもわかる。その彼らがしていたことは、キリスト教でも無い普通の日本人とあまり変わりがなかった。自分の意見や考えを通そうとする時に、神に誓ってと神を権威づけに使おうとして、さずがに神の御名をみだりに唱えては行けなかったので、天に誓う、とか地に誓うといったことをしていた。それがどんなに不信仰なことであったかは、気にもとめていない。また、自分を憎む者が現れることがある。何かで人から恨まれたり、故意に傷つけてやろうとか、憎しみから精神的ダメージを与えて二度と立ち上がれないようにしたい、といった人が現れることがある。その時に、その人を愛せるかとキリストは問いかけている。私たちに、欠けのない愛を求めているのだ。クリスチャンとして考えておかなければいけないテーマだ。
🔶説教題:自由な奴隷
🔶説教者:佐久間典臣牧師
🔶聖 句:Ⅰペトロ2:21〜25
クリスチャンの愛とはどのようなものでしょう。私たちはヒューマニズムの愛と混同していないでしょうか。ペトロは、信徒の指導者として、具体的に教えました。その教えは、私たちの普通の常識とは逆のように感じます。このキリスト教の愛は、イエス・キリストに根ざしているのです。それは、私たちに常識を超えて、成長を促し、とうとう奴隷のようにへりくだり、主に従順な者となって、キリストの足跡に倣う者へと変化します。そのためには、何度も何度も十字架の主を見つめなければならないのです。キリスト教の基礎をもう一度考えてみましょう。
🔶説教題:偽善者ではなく
🔶説教者:佐久間典臣
🔶聖 句:マタイ6:1〜6、16〜18
クリスチャンが戒めておかなければならない、大事なことが今日のテーマです。イエス様は偽善者と言い出します。律法を守ることは正しいことです。そこで、守ることが簡単ならば問題はないのですが、実際には人間の努力では難しいのです。それは人間には罪の問題があるからです。そこで、イエス・キリストが私たちを救うために十字架にかかられたのです。このイエス様の出来事の全てが人を救うためだったのです。つまり、救われるべき罪人が努力して、神様の御目に正しいと認められることはないのですが、そこに神様の側から救済があったのです。つまり、神様が人を義とするという救済です。その方法がイエス・キリストだったのです。人間にできることは、悔い改めてイエス様を信じることだけです。そのような人間が、さも私は立派ですと人の目を気にして行う善行は、やはり偽善でしかないのです。私たちがイエス様を信じたことで義と認められた、ということ以外には何もないのです。その救われた人の生き方は、神様に義としていただいた、という喜びでしかないのです。その人が意識しているのは、人の目ではなく、神様の目です。
🔶説教題:祈り
🔶説教者:佐久間典臣
🔶聖 句:マタイ6:7〜15
主の祈りはクリスチャンなら誰でも知っていて当たり前だと思われています。そして、礼拝でも必ず主の祈りを唱える教会も珍しくありません。クリスチャン家庭では、食前の祈りに主の祈りを唱えているという人もいます。しかし、初代教会で定形の祈祷文であったかといえば、どうもそうでは無いようです。ルカはマタイと違った主の祈りを書いていることからもそれが分かります。そこで、イエス様がどのような意味で主の祈りを教えられたかを考えてみたいと思います。それは、私たちにとっても意義あることだからです。